僕には「正論」などという言葉は使えない

 「それは正論だ」、「正論だがそれを盾に人を非難するのは良くない」など、「正論」という言葉を耳にする機会がそれなりにある。

 僕はこの言葉を聞いたり見たりするたびに、よく「正論」なんて言葉を使えるな、と感心されられる。

 「正論」とは、「道理にかなった主張」という意味だろうと思われる。僕には、何が道理にかなっているのか、などを次々と判断できるほど知識も経験もない。「正論」という言葉を日ごろ使っている人は、よほど優れた知能を持ち、聡明なのだろう、と思ってしまう。ものすごい自信だ、とも思ってしまう。僕も、それくらい優れた知能を得たかったと思うばかりである。


 「人を殴ってはいけない」という主張ですら、「正論」足りえない場合がある。それは条件次第で、その主張の持つ意味合いが変わるからだ。

 よって、何が「正論」かを判断しようとすれば(正論という言葉を使おうとするときには)、目まぐるしく変化する環境をほとんどすべて把握すること(条件を確認すること)と、それを的確に理解し判断することが必要になる。僕には、これは相当に難しいことだと思える。


 おそらく、世間では「正論」と言うとき、これは大体「同意」と似た意味で使われる言葉なのだろう。「それは正論だ」は「私もそう思う」とほとんど同じで、「正論だがそれを盾に人を非難するのは良くない」は「私もそう思うけれど、非難という行為自体は良くない」のような意味だろうと思われる。


 僕が言いたいのは、「正論」などという強い言葉を使う必要はどこにもないということと、言葉を使うときにその意味を考えてみてほしいということだ。

 「正論」とは強い言葉だと感じられる。「道理にかなっている」というのは、その正しさを信じて疑わない力強さを感じさせる。しかし、「正論」と言うとき、おそらくこの言葉を使う人は、自分の意見に権威がある(これは自分だけの主張ではなく、大多数が同意する意見だ)と言いたいのだろう。これは「正論」でマジョリティだ、マイノリティのあなたは間違っています、と言いたいように僕には見える。(これはむしろ、論理(道理)を捨てているようにも思われる。)

 「私はこう思う」ではなぜいけないのだろう、と思ってしまう。

 言葉の意味を考えてみてほしい、というのは、(僕も正しい言葉遣いをできていますとは胸を張って言えないけれど)自分を疑ってかかるということだ。「正論」にしても、その主張は本当に「正しい」のか、少しだけでもいいから立ち止まって考えてみるということだ。そこで、一分の隙もなく「正しい」と判断できれば「正論」と言ってもよいかもしれない(が、そんな判断ができる人間がいれば、もっと人類は幸福だっただろう)。

 考えるのをやめてはいけない。言葉の一つをとっても、思考停止して使ってしまっているものは多いのではないだろうか。常により良いものを求めて、新しい刺激を求めて、考え続ける。

 僕も、この文章も間違っていることは多々あるとは思うので、常により良い姿を求めて、言葉の一つ一つにも気を配ってみたい。


 「要は」という言葉を多用する人がいる。本当に「要」していますか?

 

 



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