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おしゃべりなけもの

あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む

こういう弓張月の夜は、よすがら、ひとと語り合いたい気持ちにもなります。
この歌は、恋について歌ったものとされているようですが、わたしには、これは恋とは無関係に、おしゃべりな柿本人麿が、ひとり沈黙する夜を描いた歌のようにも思われるのです。

今月の初めに上演した作品の創作は、「ひとはなぜ喋るのか?」の探求でもありました。

ひとは、なぜ、しゃべるのか。
わたしなりにぼんやりと考えていました。

わたしのしている研究でも、AIなんかの研究でも、ひとはどうやって喋るのかということは問題になるようです。
だけれど、どうして喋るのか、ということはあまり問題になりません。

どうして、ひとは、しゃべるのか。

考えてみれば、不思議です。
多くの劇作家は、登場人物をどのように喋らせるのか、ということについて、苦心しているようです。
演技論なんかでも、多くのセリフには、目的があって、そのためにしゃべるのだ、とされたりします。

また、ある劇作家は、ひとは、他者と関係性を結ぶためにしゃべるのだ、と言っていました。なるほど、井戸端会議なんかは、もしかしたら、関係性を形作るために行われるのかもしれません。


ひとは、どうして、しゃべるのか。

わたしには、この問い自体が、わたしたちに課せられた呪いなのではないか、と思われるのです。
わたしたちは電話をかける時なんかでも、なんでも、理由が必要です。
(たいていの電話は、用件からはじまるようです)

おしゃべりしたいときだって、お酒を飲みにいくことを口実にしたり、どこかに遊びに行くことなんかを、口実にしてしまいます。
「おしゃべりしない?」とは、なかなか言いづらいものです。

「どうしてしゃべるのか」という問いは、「なぜ生きるのか」という問いと似ているような気がしています。
生きることに理由を求めてしまう呪いと、おしゃべりの呪い。
その呪いは、きっと、似ています。


でも、ベケット。

ベケットという劇作家は、「ゴドーを待ちながら」という戯曲で、ゴドーという人物を待ち続ける二人を描いたようです。作中でゴドーは登場せず、ただ、二人は待ち続けるのです。
ときどき彼らは、自殺を試みますが、それも失敗してしまいます。

どこかに向かう物語は、もはやありません。
物語の不在だけが、ここにあります。

しばしば、退屈だと評価されがちな作品です。
だけれど、わたしには、どこにも向かわず、理由もなく喋りつづける彼らにこそ、呪われた私たちが忘れてしまった真実があるような気がしてしまうのです。

喋ることと生きることは、やはり、すこしだけ似ているのかもしれません。

こういう長い秋の夜べには、こんなことばかり、思い浮かんでしまいます。











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