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「病気」というアイデンティティ

私と病気は切り離せないものだと思う。
治らない病気なんてそうでしょう。薬で完全にコントロールできるならその限りではないだろうけど、寛解と言われる状態でさえ、倦怠感やら関節痛やらが付きまとう。「元気」と言われる基礎レベルが他人とは違う。圧倒的に低い。「病気だからできない」と思っていることは割と少ないのだけど、「病気」がそれらをためらう理由には充分なり得る。恋愛だってそう。やるべきことをやるにも、やりたいことをやるにも、いつだって症状は私の足を引っ張ってきた。切り離せるわけない。忘れられるわけない。

私の病気を知る人に、「病気なのにすごいね」「病気なのに頑張ってるね」と声をかけられることがある。悪気がないのはわかっているが、モヤモヤする。私が頑張る理由に、病気は関係あるのだろうか。病気があろうがなかろうが、頑張りたいことは頑張っていただろうし、頑張れないことは頑張れない。「頑張るにあたり、病気が差し支えて大変だろうに」という意味なのだろうか。他人より苦労が多いから、ということ?


「病気」というフィルター無しに、「私」自身を見てほしいと常に思っている。だから、知り合って間もない人に、わざわざ持病のことは言わない。言う必要があるときにだけ言う。それも、「体力ないほうなので」とか、「日光で肌荒れするので」とか、あまり詳細には言わない。ただ、付き合いが深くなれば言わざるを得ない時ももちろんある。相手が何も知らずに「サーフィン行こうよ」「重量挙げしよう」と急に誘ってきたら困るからだ。(そんな誘いあるかいな)


最近気づいたことがある。それは、「他人に病気と私をセットにして見てほしくない」と思っている一方で、自分が思っている以上に、私自身が、自分と病気をセットにして考えているということ。

冒頭でも書いたとおり、そうなっても仕方ないくらい、私は病気に振り回され続けている。ただ、今の私は、自己紹介で名前の次に「SLEです」と言ってしまいそうなほど、病気と同体してしまっている。病気であることが、一種のアイデンティティであるかのような。


「病気であることを忘れていられる時間を、どれだけ長くできるかだよ」という医者がいる。その通りである気がする。治らない、でも、すぐ死ぬわけでもない。上手くいけば、健常者と同じとまでは行かなくても、楽しいと思える時間も持つことができる病気。でも、「病気を忘れていられる時間を長くする」って、かなり難しくないか。薬の量に関しては医者を頼るしかないし、気をつけても気をつけても理由もなく突然牙を剝くのがこの病気である。同じ事を何度も何度も繰り返してきた。いつだって不安と恐怖が隣にいる。

それでも、せめて自己紹介の名前の次に病気のことを言わないくらいには、自分に病気以外のアイデンティティを持たせてあげたいと思った。他人に「病気」というフィルターを持ってほしくないと思いながら、そのフィルターを他人の前に振りかざしていたのは自分のほうだったのかもしれない。自分がつらい思いをする前に、予め病気のことを理解してほしいという防衛行動でもあったと思う。でも、それを一生続けていくことの虚しさよ。


「実(みのる)です。23歳です。好きなものは・・・」
こんな自己紹介ができるよう、病気以外に目を向ける癖をつけていきたいと思う。

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