東野圭吾の「分身」を読んで

最近、東野圭吾にハマっている。
きっかけは、とある女ひとり旅系ユーチューバーさんが動画で、東野圭吾の小説は読み始めるとどうしてもやめられない、と語っていたことだ。
私が若かりし頃は、アガサ・クリスティーを愛読していたこともあり、推理小説は大好きだ。そんな訳で、読み始めるとやめられないと聞くととても気になる。

幸い子供たちの通っている日本語学校に図書室があり、この著者の作品がたくさん置いてある。今回借りてきたのは「幻夜」と「分身」だった。
今日はその2冊目の「分身」を読み終えて、心にくるものがあったので書いてみようと思う。
ストーリーはざっと説明するとこうだ。
父親が大学の教授をしていて、そこそこ裕福な家に生まれて何不自由なく育ったはずの女の子が、ある時期から急に、自分は母親に嫌われているのではないかと感じるようになる。両親に中学校は寄宿舎に入らなければならない学校を勧められた時に、彼女の中でその疑惑は確定したものになる。
女の子が18歳になった頃に、とあるきっかけを機に自分の出生について調べはじめる。
同時進行で、もう一人の女の子についても語られる。
本の題名ですでに察しがついたのが、きっとこの二人がそっくりさんなんだろうなあ、と言うことだ。
読み進めていくうちに、推理小説ならではの自殺であろう事故死があったり、轢き逃げ殺人があったりで、二人の女の子たちはそんな激動の日々の中で段々とお互いの存在を知り、生い立ちの謎がゆっくりと解明されていく。

素直に面白かった。
読んでいく中で、実は「あーおもしろかった」で終わる話かと予想していたのだが、ちょっと違った。
登場人物の中には、イマドキの女性が数人出てくる。
著書から抜粋すると、一人の女性は、「女性の社会的地位と生物的役割の関係に、非常に強い不満を持っていた。」
「女性の社会進出が思うように進まないのは、妊娠という役割が与えられているからー。妊娠してしまえば、女性の方が退職せざるをえない。するとその時から、家の中のことは妻が、外のことは夫がという役割が実績として出来上がってしまう。一旦こうなってしまうと、なかなか元の状態に戻れる夫婦は少ない。そのせいで企業をはじめとする社会全体も、女を最初から戦力に数えない。これでは女性が男性と平等の社会的地位を得るのは不可能だ」

この女性は若い頃は大学で研究助手をしており、聡明で、きっと自分の仕事に誇りを持っていたんだろう。だからこそ、妊娠、出産に子育ては彼女にとっては自分のキャリアの妨げになる要素だったのだ。

つい数日前、韓国の出生率が女性一人あたり0.7にまで減ってしまっているという記事を読んだ。そのことについてインタビューされていた数人の韓国人女性たちも、似たようなことを言っていた。仕事に専念したい、自分の時間を大切にしたい、子供に自分の貴重な時間を割かれたくない。もっともな感想だ。この女性たちはまだ若いのに、自分のことをよくわかっててすごいなと感心してしまう。

私が20代だった頃は、ぶっちゃけそこまで考えていなかった。仕事はまあまあ楽しかったが、実は段々と飽きてきていた。別に猛勉強してなりたい職業に就いたわけでもなかったし、ここなら良さそうと漠然と思った職場で働いていただけだ。
自分の次のステージはなんだろうなあ、という思いが頭の中を行ったり来たりしていた頃、偶然姉に子供ができ、偶然子供好きな彼氏がいた。

あ、そうか。じゃあ次は子供かな。

20代前半では絶対に考えられなかった思想が、20代後半でかなり唐突に実を結んだ。
ここまで書いて、最近父が私に言った言葉を思い出した。
「子供つくるなんてことは、まじめに考えだしたら誰も産まなくなるよ。だって大変だもん。成り行き、思いつき、勢い。そんな程度な考えでいいんじゃないかな。」

自分はまさにそれだった。

子育てする女性は、ある意味自分自身を諦めなくてはならない。
少なくとも子供が生まれて数年は、自分なんて2の次だ。
あまり深く考えずに子供を産んだ私は、自分の時間がないことが果てしなく苦痛だったし、四六時中疲れていたし、ずーっと一人時間なさすぎて欲求不満で発狂しそうだった。

でもその苦しさと同時にやってきたのは他でもない、体の深い深い部分から込み上げてくるような激しい母性本能だった。
子供が愛しくて愛しくてしょうがなかった。
守りたくて、ずっとそばにいたくて、赤ちゃんの欲求にすべて答えてあげたくて、今あの頃を振り返ってみると、正常心を失くしていた、と言っても嘘ではない。
私は、子供が生まれても仕事を続けていくのは当たり前で、子供の欲求も子供が欲するままに満たしてあげて、夫に対しても魅力的な妻でいられるのが至極普通だと思っていた。子供と夫と職場で、みんなをハッピーにする私。欲求を満たすことで自己満足な献身をして快感を感じていたかった私は、体と精神が猛サイレンを鳴らすまでそれを続けた。私の場合は、自分が他人軸で生きてきたことと、完璧主義的な性格も相まって起こった結果だけれども、母性本能って、ドラッグみたいだ。女を自分の意志とは関係なく勝手に操作する。(個人差は絶対にある)

話が逸れたが、つまりこの母性本能というものが、「分身」に登場する、フェミニストとも言える確固たる強い自分を持っていたその女性をも狂わせる。
研究のためだけに妊娠したのに、産むつもりなど毛頭なかったのに、いざ自分の体に子供を宿すと、その子供を産みたくなってしまう。守りたいと思ってしまう。幸せに育ってほしいと願ってしまう。
理屈では絶対に説明できない。

私は結局自分自身の人生を諦めたのかもしれない。
10年間も専業主婦をして、子供と夫の世話をして、自分の人生これだけなの? と失望したことも何度もある。

でも最近思う。
子育ては大変だ。でも子供が笑顔になった時の喜びもひとしおだ。
私の場合、職場で他人を助けるまたはサービスを提供し、感謝されて得た喜びと自分の子供をあくせく育てている時に時々経験する喜びと、どちらの方がいいかと言われれば、やっぱり子供の方だと思う。
子供たちが私に経験させてくれたことは、自分の心の奥底の芯の中にまで響くことがあったりする。あまり子育てを美化したくはないが、子供たちの純粋で無垢な笑顔はぐっとくるものがある。大人は大体、大したことではもう心の底から笑えないことが多い。
子供が小さかった頃は、子育てがもう大変で、つらくて、余裕がないことばかりだった。でももうすぐ終わってしまう、自分の子供たちの子供時代を想うと、自分にとってもこの経験はたまらなく大切なものだったんじゃないかって実感する。
小さなことで一喜一憂する次男を見ていると、ああ、大人になれば、日常に慣れてしまってここまで深く感じることがなくなるんだよなあ。
だからこそ、そんな次男が尊い存在に思える。彼の一喜一憂を、一緒に経験できるのが、この上なく嬉しい。

これから自分の子供たちが大人になるにつれて、無垢さは消えていき、大人同士の付き合いになり、いろんな難しい問題が起きたり、人間関係がこじれたりするんだろうな。生きること自体が楽なとこではないので、悩み事はつきないだろう。葛藤もつきないだろう。

私が「分身」を読んで思いがけず共感したのは、そこに登場する女性たちの葛藤と生き様だ。人生、本当に何が起こるかわからない。絶対にこうだと思っていた強い意思も、急にボロボロと崩れたりするすごいことが起きたり、起きなかったり。

子供ができて、ここまで葛藤したのは精神的に強いとは言えない私だけかと思っていたが、この物語に登場するあの強い女性でさえ、葛藤してしまうことがあったんだ。つまり子供ができるということは、そこまで女性のそれまでの人生をひっくり返してしまう出来事だ。
葛藤と方向性は少し違うにしても、やはり女性として、母として、葛藤する女性には涙がでるほど共感する。



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