見出し画像

黒潮

昨日は日記をすっかり書き忘れた。
今日も遅くなってしまったが(現在深夜0時10分)、どうしても書きたいような気分なのと、書かなければいけないような義務感とが交互に頭で連鎖している。

ふたつ、書きたいことがある。
一つ目は昨日子供たちが通っている日本人学校で開催された夏祭りだ。
私はボランティアとしてお手伝いさせてもらったわけだが、割り当てられたのが缶あてのブースだった。成り行きで会計係になったはいいものの、人手が足りなかったのと、子供たちが波のように缶あて目当てにやってきたおかげで一回あたり1フランの集金をやりながら手が空いたら缶の立て直しも手伝った。2時間通してあっちやこっちや、やることがあって忙しかった。
その忙しさが、なんと心地良かったこと。

今の時代ではいいご身分な専業主婦をやっていて、のんびりが好きなんじゃないかと思っている人もいるであろう私だが、実は忙しく立ち回るのは好きだ。仕事をするなら忙しい方がいい。あまり考える時間がない程には。
20代半ばにどうしてもお金が必要な時期があり、あまり深く考えずに金融関係の小会社に入社したことがあった。普通に悪くない給料をもらい、忙しいことは滅多にないゆったりとした仕事場だった。
だがこののんびり感が私には苦痛なことが多かった。やることがなかったり、あってもまったく急がない仕事ばかりだとだんだんと気分が沈んでくる。すべてが空しくなってきて、私はここでなにをしているんだろうか、なんて哲学的な思考にまで到達してしまう。それが嫌で、1年半でもっと忙しいであろう空港での接客業に職を変えた。

何が言いたいかというと、人間というのは忙しすぎても駄目だけれど、反対に暇すぎるか、または期限のない仕事ばかりがある日常でも頭が病んでいくことがあるんだと思う。人それぞれの気質や性質にもよるんだろうけれど。でも適度に急かされる仕事がある程度存在する毎日の方が生きやすいと思う人間は少なくないはずだ。

こんなことを考えている理由が、私が日記を書きたかった二つ目の出来事だ。
今日は日曜日。なんとなくユーチューブを観ていたら、とある40代ママさんの「楽しくない日々」、というタイトル動画が上がっていた。そのママさんは、自分自身も家族も健康、大きな問題もなくこの上なく幸せな暮らしをしているはずなのに、それなのに日々がつまらなくて、楽しくなくて気分がモヤモヤしてしまうと語っていた。幸せなはずなのに、幸せだと頭ではわかっているのに、心はそんな日々に満たされない。やりたいことはあるし、やらなければいけない家事もそこら中に転がっている。今それらを実行する時間も余裕もあるはずなのに、モヤモヤした気分から抜け出せない自分に罪悪感さえ感じている。こんなに正直に、感じていることを飾ることなく語ってくれる彼女が、私は好きだ。

本当の幸せってなんなんだろう。
日々、大抵の人たちは衣食住に困らずに生きられるのが当たり前になった現代。
でもそうすると、心がだんだんと幸せを感じられなくなってくるという矛盾が起こる。私も、このユーチューバーママさんの表現しているこに心底共感できるんだ。幸せすぎる状況に置かれているはずなのに、時々感じる虚無感。
ちょっと大変、ちょっと苦労している、という状況の時の方が心が安定しているような。
そもそも「幸せである」と言う状態は、どうあがいてもそんな長くは続かないようにできているんじゃないかな。どんなに安定した生活を送れていても、それはだんだんと幸せではなくなっていく。または心が幸せを幸せと感じられなくなる。
病気になってからようやく、健康でいるということのありがたさに気が付く。
ずーっと晴れてばかりいると、雨が恋しくて仕方なくなる。
反対に、雨ばかりの日々が続いた後の快晴は格別に美しい。

変化。不安定。浮き沈み。
人生は波。



ちなみに今日のタイトルがなぜ黒潮なのか。
自分でもわかりゃんせ。
最後に思いついた文章が、人生は波、だったのと同じくらい突発的に、黒潮を思い出した。私はこのネーミングが好きなんです。
ただそれだけでした。

皆さんどうか、あまり幸せを意識せず、海辺に波打つ波のように良きも悪きもただ俯瞰してみませんか。私もやってみようと思います。

ではおやすみなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?