見出し画像

沖縄 アジアの近代がつめ込こまれた南の島 『西表炭鉱史』①採炭前史期・明治後期編

「坑夫たちが異郷の地にその骸を埋めた怨念の浦内川は、あれから数十年たった今、観光地と変わり、観光客でにぎわっている。この川に流した血の涙を、果たして誰が思い起こすであろうか。

三木建『西表炭鉱史』

 三木建『西表炭鉱史』の一節から引用した。西表島は2021年7月26日、世界自然遺産に登録され、ユネスコの権威のもと保護されることになった。

 八重山地方の西表島は、東西に約30km・南北に約20kmと、琉球列島のなかで沖縄本島に次ぐ面積を持つ、唯一の採炭地である。明治中頃から1960年代までの時代背景に規定された、日本本土とアジア地域(琉球列島・台湾・朝鮮)との関係を、この南の島は象徴的に物語ってくれる。


・「遺す」ということの政治性


 国家が駆け引きを繰り広げるユネスコの世界遺産登録が帯びる政治性は、近年露骨になっている。西表の自然が、国家の恣意的なプログラムの一環として公式に"遺すべきものとされる"一方で、その土地が吸った「血の涙」はいつまでも鬱蒼とした亜熱帯林に埋もれたままだ。

 高度経済成長の恩恵をたっぷり享受し、いまさら自然は厳かに保護しようというのに、この歴史にどこからも光が当たらないということはいったい何を意味するのだろう。

 佐渡金山や端島炭鉱(軍艦島)をはじめとする日本の近代化遺産

「我が国の近代化に貢献した産業、交通、土木に関する遺産のことで(中略)近代化に貢献した貴重な遺産として、次世代に適切に伝えていきたい」

全国近代化遺産活用連絡協議会HPより

と、"日本"の近代化に一役買ったナショナルな側面ばかりをひたすら持て囃される今日、その陰で自らを語ることもできなかった人々の声なき声をクローズアップしたい。

・西表炭鉱の時代区分

『カイジ』の漫画や映画を見たことはあるだろうか。多重債務者たちが地下で強制労働に就かされ、ペリカ(作中で登場する企業が発行する紙幣)で日用品や嗜好品を買い、さらに借金に溺れ、地下強制労働に釘付けになっていく。そんな話が、いや、もっと生々しく残酷な話が、西表島において"現実に"あった。

 西表炭鉱の歴史は大きく4つの時期に分けることができる。

    ・採炭前史期(琉球処分)
    ・明治後期(日清・日露戦争)
    ・大正期(第一次世界大戦)
    ・昭和期(アジア太平洋戦争)


 ここで重要なのは、戦争などの大きな社会的変動を区切りにして、それぞれの時期が展開していくという点だ。つまり、西表炭鉱の開発とその後の採炭事業は、国策としての性格を強く帯びていたのである。当時、石炭が産業や軍事の原動力であったことを考えれば、それは当たり前とも言える。

・採炭前史期 ー ペリー艦隊の外圧

 この時期を簡潔に表すと「ペルリ艦隊一行による西表炭鉱への"外圧"から、三井物産会社の手によって採炭事業が行われる以前」となる。

 「ペルリ艦隊」とはもちろん、1853年に浦賀で江戸幕府に開国を迫ったペリー艦隊のことだ。あまり知られていないことだが、浦賀を退去したペリー艦隊は、その足で沖縄本島や西表島に寄港し、現地を探検している。アメリカは武力を背景に、琉球列島を自国の捕鯨船の補給地にしようと目論んでいたのだ。

 当時、現地住民は石炭の存在を知っていた。多くの地域でそれは「燃える石」の偶然の発見として昔から語られていたのだ。実は琉球王府もこのことを把握しており、石炭を狙う外国勢力を警戒していたことがわかっている。ペリーの来航にあたっては、石炭の在りかを異国人に口外せぬよう布達を出していた。

 しかし1872年、石垣島の大浜加那という男が薩摩の汽船の支配人に、西表に石炭が存在することを口外してしまう。加那が波照間島への島流しとなるまでの一連のできごとは「石炭加那事件」と呼ばれる。

・明治後期 ー 採炭の本格化

砂浜に漂う石炭のかけら

 この時期には、明治政府とその御用資本や尚氏(旧琉球王家)系資本が国策として西表炭鉱の開発を進めていった。「三井物産会社によって採炭が行われた明治後期を中心とする時期」と表すことができる。

 石炭加那事件後、薩摩藩士が明治政府に西表炭鉱の調査を求める意見書を提出していた。そして1885年、明治政府による調査が実施され、ついに三井物産が試掘を開始することになる。そこには内務大臣山縣有朋や、三井物産社長が視察に訪れている。その後、山縣は沖縄県内の囚人の使役を提案する報告書を政府に提出した。通常の人間にはとても耐えられない労役だったことに加え、経費を抑えられるということで、囚人たちは炭鉱史の始まりの犠牲とされたのである。

 数百人規模で三井物産の採炭が始まったとき、囚人たちの他は、沖縄人よりも県外の炭鉱経験者が主だった。この事業は初めから上手くはいかず、マラリアを主な原因とする多数の死者を出し、中止を余儀なくされた。

1886年6月から12月までに33人死亡
1887年7月から11月までに27人死亡


 また1895年には、大倉組財閥によって、坑夫約1200人を使役する大規模な採炭が始まる。

今も残る積石所跡

 これらのできごとは、1879年に完了した琉球処分を皮切りに、琉球列島が大和の富国強兵・殖産興業の体制に組み込まれていったことを示している。しかし琉球列島にとって、それは決して近代化の恩恵をダイレクトに受けることを意味しなかった。その後の歴史をとおし、本土=中心の秩序を支える資源として、琉球列島は消費されることになる。(これは現在も続いていますね)

 周縁に置かれているがゆえに、彼ら/彼女らはいつまでも顧みられない。そこには差別があり、差別は実際の格差をもとに成り立つ。そうした力関係を利用した搾取がありながらも、それ自体が彼ら/彼女らを心理的・制度的に中心から遠ざける原因となり、再度このサイクルは補強される。

 これが琉球列島に、というより周縁に追いやられたあらゆる人々に、自らを語ることすら許さなかった抑圧の仕組みである。これは、彼ら/彼女らの日常の息づかいや切実な訴えに耳を傾け、つながっていく可能性を、私たちから奪う仕組みでもある

 実際、当時の西表炭鉱にも、沖縄人には他府県出身者の3分の1程度の賃金しか与えられないという、"差別による格差、格差による差別"の仕組みが埋め込まれていた。


引用文献 : 三木建、西表炭鉱史、1996年、日本経済評論社


・連載『西表炭鉱史』

 次回は「第一次世界大戦期」と「アジア太平洋戦争期」の西表島が辿った歴史についてです。
 戦時体制への移行にともなって、より過酷さを増していく炭鉱労働の様子、逃亡者や島社会、戦時の八重山について紹介します。炭鉱社会のさらに陰の部分で苦汁を舐めたマイノリティたちに想像力を向けて、ぜひお読みください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?