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【自己紹介にかえて】あるキコクシジョの帰国後30年の英語との関わり

自分の子どもたちと英語の世界を共有したい。

子どもたちと日本語と英語の両方で関わりながら、一緒にさまざまなことに触れ、体験し、学んでいけたら、どんなに楽しいだろう。

そんな想いから、日本にいながら育児に英語を取り入れる、自分なりの「超シンプル英語育児」を実践して12年。

信念を持って取り組みを続けてきた背景には、自分自身の子ども時代の経験と失敗、そして社会人としての長年の英語との関わりが大きく影響しています。

自己紹介にかえて、その経緯を振り返ります。


社会人としての今

新卒で就職して以来、東京で会社員をしています。

勤め先は、外資系金融3社と日系金融1社で合わせて20年以上を経て、現在は外資系ランゲージサービス会社にて金融クライアントの担当をしています。

ひとことで言うと、今は、金融実務の経験をベースに、いわば言語そのもの(日本語と英語)を扱う仕事に就いています。

これは自分が想像すらしていなかったことです。
なぜなら、過去の私は、言語コンプレックスの塊だったからです。

海外経験と帰国後の学校生活

自分の子ども時代について説明します。

東京に生まれ、今も東京にいますが、小学校時代の1年生から5年生までをアメリカ南部で過ごしました。

小学校:無邪気に過ごしたアメリカ時代

1980年代当時、日本人どころか東洋人すら見かけない、少し道を外れるとサトウキビ畑が広がるようなド田舎で、多少の差別などありながらも、のびのび楽しく過ごせたのは幼さゆえか。

現地で入学した小学校は、黒いワンピースに黒いベールをまとったシスターたちが授業をおこなう、カトリック系の学校でした。

一つ下の学年に入り(ESLクラスはなかった)、アルファベットとフォニックスの授業からスタートできたのは幸運でした。数か月後、周囲と意思疎通が取れるようになり、本来の学年(2nd grade)に上がりました。

今は亡き母の話によると、アメリカに行って3ヶ月ほど経ったある日、学校でほとんど言葉(=英語)を発していなかった私が、授業で突然 in full sentences で話すようになり、学校の先生たちを驚かせたそうです。

放課後は学校の友だちと夢中で遊び、週末や長期休みはキャンプやらガールスカウトやら地元の活動に参加しているうちに、現地の生活に馴染み、言葉の吸収も進んだようです。日本人が得意とされるMathばかりか、Readingの授業も、一つ上の学年の授業を受けるようにもなりました。

が、日本語を使う機会は、限られました。妹とは、日本語混じりの英語になっていたか。現地の中学校(6th grade)を半年ほど経験してから、日本に帰国となりました。

中学校:日本語オフから英語オフへ

日本に帰国直後は、母国語である日本語がどうも不自由。話せるけれど少し変。学校では、話しても書いてもボロが出る。

”変わった子”の扱いを受け、どの”友だちグループ”にも入れず。アメリカでの伸び伸び活発な生活から一変して、自信を失い、おどおどし、口数が少なくなった自分がいました。

公立の中学に進み、必要のない英語は完全封印。学校の英語授業で学ぶ文法は「新鮮で面白い」と感じながらも、とにかく他の科目のキャッチアップに必死でした。がむしゃらに勉強しました。

しかし肝心な国語は、勉強方法が分からず、お手上げ状態。日本語そのものにまともに向き合うことなく、他の科目の定期試験の勉強に時間を費やしました。

そうしているうちに、あるとき、このままでは自分から英語が消えてなくなってしまう(英語とともに、小学校時代の記憶も)、という危機感を覚え、すがる思いで始めたのが、英語の音読でした。

あんなに自分を占めていた英語が、既に発することが恥ずかしく、家族が家にいない時に、一人大声で、大きく口を動かして練習しました。これが口と頭の良い体操になり、感覚が回復してくるようでした。
(あの時、この音読をしていなければ、発音も完全に失われただろうと思います。)

高校:日本語も英語も足りない

高校は、半分以上が帰国生という私立の学校に進みました。帰国後3年以上が経っていたため、帰国枠と一般枠の中間の枠で入学しました。

自分の当時の状況をすべて肯定して受け入れてくれる、この上ない環境でした。が、同時に、英語は帰国直後の子たちにかなわない、日本語は一般生の子たちに劣るという、どっちつかずのポジションに身を置くことにもなりました。自分は日本語も英語も「どちらも足りない」という強い劣等感に苛まれるようになりました。

中学時代、時間はあったはずなのに、なぜもっと積極的に日本語に取り組まなかったのだろうと悔みました。

「日本語が足りない」というのは、かなり個人的な感覚です。周囲がなんと思おうと、本人はそう感じ、苦しんでいたりする訳です。
(当時は知らない概念でしたが、「semi-lingual」や「limited bilingual」という言葉を聞くと、今でもドキッとします。)

英語に関しては、プレイスメントテストで決められたクラスは、帰国生クラスの中で一番下のレベルでした。自分としては、そのクラスの授業で取り上げられる英米の小説のレベルも、ネイティブの先生の少し配慮しながらの話しぶりも、易しすぎるように感じました。しかし、授業で発言したり、エッセイを書くとなると、思うようにはいかない。4年も英語から離れていたので当然です。
このように「聞く」「読む」に関しては、ブランクがあっても、自分が思う以上に感覚が残っていた(あるいは、成長して理解力が上がっている分、帰国直後よりも難しいものが読めるようになっていた)ことをはっきりと自覚していました。「書く」方は授業で練習を積むことで、徐々に楽になっていきましたが、「話す」方の伸びはゆっくりで、授業中のやりとりでは周囲の帰国生たちに押され気味でした。

今にして思えば、言語とは時間がかかるものなのです。

時間とともに、日本語のストレスは確実に減っていきました。また、中学時代に封印していた英語も、取り出し授業のおかげで伸びていきました。大学受験のために一度だけ受けたTOEFL pbtはたしか630ほどでした。大学入試は少なくとも英語については、取り立てて何もすることなく終わりました。

大学:日本語を軸に英語で学ぶ

大学は、迷った末に、国内でも英語で講義が行われる学部を選び、帰国生やインター出身者、留学生の多い環境に身を置きました。

日本語と英語の両方がある環境に、居心地のよさを感じていました。同時に、日本語がうまくいかないとき、自分には英語があり、英語がうまくいかないときは日本語があると、その間を行ったり来たりしている自分が中途半端で嫌でした。

基本的に英語で過ごすキャンパスライフでしたが、その環境を得たと同時に、母語である日本語への意識が高まり、日本語という軸が明確になっていったことは意外でした。

長期休みには、自分探しをするかのように、アルバイトでお金を貯めては、海外一人旅に出ました。アメリカ東海岸に1か月、南欧(イタリア、フランス、スペイン)に1か月、イギリス一周に1か月。ユースホステルをはしごして、部屋をシェアした他のバックパッカーたちと仲良くなり、一緒に行動したり、大学の友人とも途中で合流して、一部のルートを共に回ったりしました。
スマホがなかった時代に、この奔放な行動を許してくれた両親には感謝しかありません。留学や一人暮らしの経験がなかった私ですが、日本語のない外国でも、その気になれば一人でやっていけるという自信を身につけました。

旅行資金を作るためにチャレンジした学生アルバイトのなかに、国際展示場での補助通訳がありました。もともと割の良いバイトでしたが、指定資格を持っているとさらに日給が上がると聞き、昇給分と受験料とを照らし合わせて、飛び込みで英検1級を受けて合格し、日給アップを得ました。

ついでに資格試験といえば、就職活動を終えて、大学4年の10月1日の内定式の日に、抜き打ちでTOEICを受けさせられ、結果は1問違いでした。今から20年以上前のこと、日本で広く普及していた試験ですが、これで”ビジネス英語”の力を測るのかと、不思議に思ったことを覚えています。

日本人として英語を使い続ける会社生活

冒頭で述べた通り、東京での会社勤めが長く、米系/英系4社と日系1社を転々としてきました。そのなかで、英語の使用度合いは、会社・部署・ポジションによってころころ変わりました。共通しているのは、社内の”公用語”にかかわらず、現場としては、業務の「場面」と「必要」に応じて、日本語と英語を使い分ける環境だという点です。

英語が苦手な日本人、堪能な日本人

高校以降、英語が得意な日本人に囲まれて過ごしてきた私は、社会に出て、英語に苦手意識のある日本人がいかに多いかを知りました。

優秀な人たちが、英語に過度な不自由さを感じている。日本の学校で学び、日本で一般的な学習法を長年実行しても、どうやら、何かの要素が決定的に抜け落ちるようだと思いました。
(言語の不自由さに関しては、自分も嫌というほど経験してきたので、何が大切なのかを自分なりに考え抜き、今の英語育児の実践につながっています。)

一方、英語が堪能な日本人には、例えば、発音にクセがなく聞き取りやすい、組み立てがシンプルで分かりやすい、などの特徴があるように思います。内容が伝わりやすい一番の理由は、おそらく、英語で発想しているからだろうと思います。
(海外にいた経験があったり、特別なバックグラウンドがなくても、誰でも、もう一歩先の英語力は身につくはずで、それには聞き取る力(音の習得)と英語で発想する力(英語を英語のまま処理する)が鍵だろうと考えています。)

英語力”維持”の現実的なところ

自分の話に戻します。日々英語を”使う”立場にはありますが、メールや資料を読んだり書いたりことが圧倒的に多く、話すことは実際にはそれほど多くありません。

このため、英語を話すことにおいては、アップダウンが激しいことになります。海外オフィスのマネージャーの直属になったり、海外に出張したり、海外チームと直接プロジェクトを組んで、日々やりとりするようなときは、たくさんしゃべるので一時的に慣れます。が、その環境が終われば、その「慣れ」や「瞬発力」は失われます。しかし、ブランクを経て、再びそのような場面になっても、リカバリーは効きます。

日本での生活のなかで、スピーキングを日々鍛え続けることは困難ですが、その必要もありません。聞くと読むの基礎が(学生時代に)完成していて、ふだんは少しでも聞くことと読むことに触れていれば、対応できます。

リモート業務の広がりとともに、今後、日本語と英語を使い分ける環境は、日本国内でも当たり前になっていくと考えています。

そして母になり、子どもに英語を与えたいと願う

一人目の子どもが生まれるとき、出産準備グッズの中に、Wee SingのCDがありました。英語の童謡をかけ流すことから、私の英語育児は始まりました。

ここから始まった英語育児の取り組みについては、他の記事でこれからも綴っていきたいと思います。


お読みくださりありがとうございました。

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