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読書記録:観光 ラッタウット・ラープチャルーンサップ

読んでいるあいだずっと、不思議な感覚がしていた。

哀しいとか切ないとか悔しいとか、思うのだけど、それらは登場人物たちが抱くものと同じではないような気がした。わたしの感情はわたしのものでしかなく、“共感”とも“感情移入”とも違うものだった。わたしが入り込むことのできない世界で、彼らのストーリーは彼らのものとして展開していった。

読み進めていくうちに、気づいた。
この本の登場人物たちは、文字通り“わたしが入り込むことのできない世界”=タイに住む人たちだからかもしれない。

徴兵制度があったり、ガイジンが日常生活の一部になっていたり、貧富の差が著しく自分の立場に影響したりする世界。生きてきた背景も生きている環境も違う、そこから見える未来の景色もきっと違う。だから、わたしが日本に居ながらこれを読んで抱く感情と、実際に彼らが抱く感情は、違うと思うのだ。

それでもラッタウットさんの描写が巧みなので、登場人物たちの感情を想像することはできる。動作や情景描写が多いのだけど、そこに心が表れているからすごい。でもそこから得られるわたしの想像はやはり想像でしかないような気がした。きっとこんなんじゃない、もっと複雑で込み入った感情なのではないかと思うのだ。

バンコクに行ったときに見た人々の顔を思い出した。
煌びやかな百貨店と発達した鉄道の間の暗い道にいる人の顔。
ゴミ山の向こう側にある路地からこちらを眺めている人の顔。
すごく無表情だと思った。
目が合っているのか合っていないのか分からない。なにを思っているのかなにも思っていないのか分からない。
わたしはそこに貧富の差の問題を感じずにはいられなかった。

これを読んだ後に考えると、あれは諦めのような類の表情だったのかなと思う。そして、もし本当に外側に対してそういう感情があったとしても、彼らの内々―家族や友人たちの間では、優しい表情を見せているのではないかと思う。そう願う。この本の登場人物たちのように。

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