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陸を目指した魚は、水に還った。

 平成に生まれ、ゆとりを生き抜き、就職氷河期を乗り越えて、気が付けば中堅に片足突っ込んでる今。そんな私の話。

 バブル崩壊とともに、雪の降り始める北の大地で爆誕したのが私である。世間では、18年後に自らも受けることになる大学センター試験第1回に向け、若人たちは勉学に勤しんでいたであろう、そんなときに母を42時間も苦しめた挙句生まれた。記念すべき私の誕生の地は、今やコンビニの駐車場になった。怪しい病院だったので、最もなことだ。

 最寄りのスーパーまで車で2時間、生協の共同購入が命綱、他は学校と公民館以外、何もない土地で、都会の喧騒とは無縁のまま育った。ちなみに、24歳という若さで見知らぬ陸の孤島で子育てをしてきた母のことは、令和の都会のキャリアウーマンに匹敵するくらい尊敬している。
 でも、あのときの生活は、白川郷でいう「結」とでもいうのだろうか。本当にお互いに助け合って、支えあって、バランスを取りながら、大きな一つの家族のように暮らしていた。私は、たくさんの人に可愛がられて、教えられて、愛されて育ったように思う。

 5歳のとき、父親の転勤に伴い、そこそこ大きな街に引っ越し、そのあとは、クセが強めの弟が4年後に生まれるくらいで、ごく普通に生きてきた。小学生時代は少年団に入って休みなくバドミントンに明け暮れ、生まれて初めてのいじめとパワハラを体験。いじめといっても、当時はそんなに大きな社会的問題にもなっておらず、輪番制で嫌われ役がまわってくる、あれだ。もれなく、私にもその順番がきただけのこと。
 辛くなかったといえばウソになるが、自分の傲慢と、他人の欺瞞と、「きもい」という言葉の攻撃力など、多くの人生の教訓を得たことにしておく。

 地元の中学校は、毎日パトカーが常駐するような荒れ具合だったので、すっかり友人への信頼もなくした私は、大学の附属校を受験し、平穏でいかにも育ちがよさそうな仲間たちと中学校生活を過ごした。あと、ケータイというコミュニケーションツールを手に入れた。
 中学校では、賢いバカなことをするクラスで、大変毎日面白かった。中学校生活については、機会を改めて書くことにしよう。

 やや大きな街とはいえど、全国規模でみれば普通に田舎なので、中学卒業後の進路は、もはや誰も迷わない。成績と点数で、すでに振り分けられた状態で受検する。自尊心と向上心に駆られて、衝動的な選択をしない限り、落ちることはない。ということで、何も考えず、気づいたときには高校生だった。これは、いくつかある人生の過ちの一つであることを知るのは、もう少し先の話。

 高校卒業後、陸の孤島から、いよいよ都心(ニアピン)へ進出。進撃の小人だ(私の成長期は発現を忘れているらしく、中学2年生の150cmのままでとまっている)。
 大学時代は面白すぎた。真面目だったし、バカだった。一生懸命だったし、テキトーだった。生涯の友人も得た。こじんまりとしたオールインキャンパス、楽園のごとし。
 外国語、観光学、国際関係学、社会学などを中心に、中途半端にいろいろかじる学部で、最終的には文化人類学を専攻した。一応、教員免許の課程も受講し、欲張って司書教諭の免許まで取得した。この教員免許がなければ、今頃私は、何者にもなれないまま、社会を彷徨っていたかもしれない。大学生の私、グッジョブ。

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 就活もしてみたが、絶賛氷河期だったこともあり、自分には就職活動そのものが性に合わないというか、「魚なのに必死に陸地を目指す」みたいな違和感を感じたので、「魚なのだから水の中で生きていこう」と思い直し、教員採用試験を受けた。背水の陣どころか、崖っぷちだったので、今振り返ってみても、あれほど必死に勉強したことはなかった。

 当時、私が受験した教員採用試験の自治体は、まだそこそこ人気もあり、倍率も高かった、ということを言い訳にしたい。結果は補欠合格だった。私は、大学卒業後の進路を絶たれた。
 3月下旬、帰巣本能をもって、北の大地に帰ろうと思っていた矢先、知らない番号から電話が鳴った。つまるところ、教育委員会から、4月から教師として働かないかということだった。捨てる神は、拾う神でもあったのだ。
 説明すると、補欠合格というのは、もはや合格と考えてよかったらしい。普通は臨時採用という枠に応募して教師をしたのち、採用試験を再度受ければ、公にはなっていないが、ほぼ間違いなく合格できる。臨時採用なんてものを知らなった私は、応募すらせず、図書館にこもって卒業論文に必死になっていた。おかげで卒論は納得の仕上がりだった。職も得た。

 そして、今日に至るまで、教師としての人生が続いている。楽しいことや、辛いことや、辛いことや、辛いこともあるけれど、自分の仕事には健全な誇りももっているし、やりがいもある。命と心を削られながら、それでも、削られた分を埋めてくれるだけの充足感や喜びもある(たまに埋めきれないときもある)。

 教師というのは、本当に狭く、独特の職業文化のはびこる世界で生きている。それでも、まだ10年にも満たない教員人生の中で、自分を豊かにしてくれる出逢いがたくさんあったことは確かだ。
 陸を目指すことをやめ、水流にもまれながら川を泳ぐうちに、自分が魚であったことに、改めて気づくことができた。「天職」を辞書でひくと、「その人の天性に最も合った職業」とあるが、私はちょっと違うように思う。私は、今の仕事を、自分の中の一つの天職だと感じているが、それは自分の適性に合っているということではなくて、「天に導かれて辿り着いた」ような感覚なのだ。
 はっきり言ってしまえば、桜の花の膨らみを見上げながら、故郷に帰ろうと思っていたあの日の私は、教師になるつもりなんて、微塵もなかった。それでも、電話は鳴った。自分が魚であるとも知らず、川からの迎えが来た(ちょっと縁起の悪い言い回しだな)。

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 そして、自分が魚であることに気づかせてくれた。どこまで、何を目指して、いつまで泳ぐかは決めていない。それでも、少なくとも今は泳ぎ続けることが使命のようにも思うし、心地よい。
 この春、新たな節目を迎え、慣れ親しんだ水辺を離れ、少し冒険してみようと思う。まずは、海を見てみたい。たとえ辿り着かなくても、海を目指して泳いでみたい。
 「出世魚」。稚魚から成魚までの成長段階で、呼び名が変わる魚たち。生きる環境だけではなく、自分自身もまた、成長し、どんな場所でも生きていくことのできる強かさと、柔軟さとのある、聡い魚に生まれ変わるべく、私は今日も泳ぎ続ける。まだ見ぬ、天に導かれし場所を目指して。


【追記】
トップ画は、いちご飴(https://twitter.com/ichigoame1125)さんのものをお借りしております。多方面で活躍されており、素敵な作品ばかりです!

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