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あなたの命は誰のもの

 先週、道徳の時間に「あなたの命は誰のもの」という教材を扱った。
一言でいえば、臓器移植についての話である。

 先にお断りしておくが、これから先に記すことは、個人の所感であり、モラルや物事の是非について問いたいわけではない。

 小学生や中学1年生くらいだと、ほとんどの生徒が臓器移植について賛成したり、自分も臓器移植をしたいと迷わず手を挙げることが多い。「臓器移植」を人助け、あるいは誰かを助けてあげたいという純粋な気持ちは、誰にも否定されるべきものではない。
 今回は中学3年生に向けて授業をしたが、臓器移植について大まかに説明した後、「あなたならどうしたいか」を問うてみた。意外にも賛成よりが多かったが、子どもたちの表情を見ていると、少し戸惑っている子も少なくなかった。あるいは「どちらともいえない」と答えた生徒もいた。

 そして、授業は臓器移植に対する、さまざまな立場の人のエピソードへと展開されていく。
 たとえば、夫を思う妻。「たとえ本人の意志であったとしても、ずっと一緒に過ごしてきた大切な人の身体にメスを入れることはできない。なにもかもすべて一緒に天国へ送ってあげたい。」
 たとえば、出産を控えた妊婦。「自分の子どもが脳死の判定をされたとしても、心臓の鼓動と温かな身体、伸びる爪や髪、それは私にとっては生きているのと同じこと。もしかしたら目覚めるかもしれない。その希望を諦めることはできない。
 たとえば、病気を抱えた男の子。「自分は誰かに心臓をもらわなければ、大人になるまで生きていられない。誰かに心臓をくださいと言っているのに、誰かに自分の臓器をあげるのは嫌だというのは、自分勝手だと思う。
 たとえば、臓器移植のドナーとなった子の父。「娘が臓器移植の意志表示をしていることには驚いた。でも、いつも自分より誰かのことを大切に思う優しい子だったから、彼女の最後の願いを叶えてやりたいと思った。娘の肉体はもう旅立ってしまったけれど、でも、誰かの身体の中で彼女の命は確かに生きていると思うと、温かい気持ちになる。」

 そして、私は改めて問う。「もし、自分ではなく、あなたの大切な人の臓器だったら、あなたは臓器移植を決意するだろうか。」

 私が子どもたちに考えてほしかったのは、臓器移植についてではなく、「自分の命」についてだったのだ。もちろん、間違いなく自分の命は自分のものだ。誰かの所有物などではない。
 でも、不思議なことに、自分のものでもあり、自分だけのものではないともいえる。あなたの命は、あるいはあなた自身は、あなたのことを思う誰かとつながっている。家族、友人、恋人。それは命のヨコのつながり
 一方で、臓器移植や出産のように、命は新たなる他者に受け継がれていくものでもある(学習指導要領では、これを命の連続性と呼んでいる)。それは、命のタテのつながり

 その「つながり」を感じたうえで、考え、悩み、答えを探せばいい。きっと、大人になっていく、その時々で答えも変わっていくのだから。

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 ちなみに余談だが、日本は「死」に対する考えの文化的(民族的)信仰から、欧米に比べて先進諸国の中では圧倒的に臓器移植は少ない。
 私自身、臓器移植そのものについては、あまり深く考えたことはないというのが正直なところだが、先日読んだ「切り裂きジャックの告白」(中山七里・著)は、フィクションとはいえど、ある種の衝撃をもたらした。
 彼女は、小説の中で私に問いかけた。「臓器提供を受けた人間(レシピエント)が、果たして、新たに手に入れた善意の命を、清らかに全うしているのだろうか。」臓器提供を受けた人間は、その命に重みを感じ、むしろ懸命に清く、正しく、精いっぱいに生きているものだと、私は疑いもしなかった。
 もし、自分の大切な人の臓器を提供したレシピエントが、犯罪を犯したら。自堕落な生活を送っていたら。身勝手に生きていたら。そう思うと、私の思考は立ち止まってしまった。

 それでも、臓器移植は私たちにとっての希望の光であってほしいと願いながら、本を閉じた夜だった。子どもたちは、何を思って眠っただろうか。

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