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花と子どもはおんなじ

「花と子どもはおんなじ」。子どもが花のように愛おしい存在である、ということではないのです(いや、愛おしいのだけれど)。ちょっとだけ、私の話を聴いてください。

「花と子どもはおんなじ」

 教師として働き始めた年に、「子どもと花は手をかけないと枯れるけれども、手をかけすぎると腐る」という言葉を、あるベテランの先生から教えて頂きました。
 その当時は右も左もわからず(印刷機すらまともに使えませんでした)、自分の仕事や授業の準備をすることでいっぱいになっており、その言葉について考える間もなく日々が過ぎていきました。
 しかし、今春、このクラスの担任になることが決まって、新しい学級名簿を手にし、早咲きの桜を見ていたとき、ふとこの言葉を思い出しました。
 この言葉は、「子どもに近道と逃げ道を与えてはいけない」という、子どもの未来を育てる私たち大人への教訓だそうです。


〈近道〉悩み、考え、自分の力で答えを見つける

 最近は泳げなければスイミングとか、勉強できなければ塾があります。
 でもそれは植物でいうと、根のすぐそばに肥料を置くようなものです。若木はその肥料に向かってたった1本の根を伸ばせば、肥料が手に入る。
 楽に大きくなれるけれども、大きく育ったときに少し強い風が吹いたら、少ない根では木を支えることはできません。
 風に耐えられず、根元から折れてしまいます。でも少し我慢して、肥料を与えずにいると、若木は栄養を求めてあちらこちらに根を出していく。
 見た目にはなかなか育っていかず、歯がゆい思いをしたり、途中で大きくなるのをあきらめてしまったかのように見えるけれども、そういうふうに大きく育った木は、地面の下でしっかりと根をはっているから、多少の風では倒れない。
 背は低いかもしれないけれど、太い立派な木になります。すぐに肥料を与えて、試行錯誤する機会を奪わない方が、結局は良い結果や成長を招くものなのでしょう。

〈逃げ道〉「悪いことは悪い」社会の理屈を知る

 子どもは悪いことをしながら大きくなるものです。
 その時の言い訳に「自分だけじゃない。」とか「相手にも悪いところがあった。」「そんな話は聞いていない。」「他の人もやっている。」「わざとやったんじゃない。」というのがベスト5でしょうか?
 でもこれは「自分が悪いことをした。事実をすべて人のせいにしようとする言い訳だ。」ということにどうぞ気づいてください。
 「わざとではなくとも」「自分だけ」でなくとも、「相手に非があった」としても、自分がした悪い行動が消えたり、正しい行動に変化したりすることはありえません。
 たとえは悪いですが、「わざと」でなくとも人を傷つけてしまえば、傷害罪で法的に罰せられてしまいます。それが社会の理屈です。
 子どもの言い訳を鵜呑みにし、そういう逃げ道に逃してしまうと、育っていくうちに、それが子どもにとっての“正しいこと”になってしまい、社会の理屈と食い違ってきます。
 その場その時によって、正しかったり悪かったりするのではなく、「悪いことは悪い」と逃げ道をつくらないことです。
 植物もあちらこちらに枝を伸ばすと、余計な枝で1本太い幹にならず、結果的に日当たりが悪くなり、育ちも悪くなります。余計な枝はきちんと打つことも大切なことなのです。

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 中学生という時期は心身の成長著しく、子どもと大人の狭間で不安定な時期であることに加え、とくに3年生ともなると、入試という初めての大きな壁に、子どもだけではなく、親自身も、急に不安な気持ちを抱え、焦ったり恐れたりしてしまうことも多いようです。
 これから親子で迎える新たな日々を前に、戸惑いもあることと思いますが、覚えておかなければならないのは、その親の不安や焦りが、必ず子どもに伝わるということです。
 親子がともに「不安」の上に立つと、親も子も精神上あまりよい生活を送ることはできません。子どもは神経質になったり、突然親に甘えたり反抗してみたり。
 そして、親もまた自分の不安を知らぬ間に子どもにぶつけ、子どもはその言動がよく分からないまま、お互いにイライラを重ねていくことになります。
 また、安易に近道や逃げ道を用意すると、子どもの試行錯誤の機会を奪うことにもなり、いつまでも自分の力で困難に立ち向かうことなく、失敗も他人のせいにするようになります。
 だからこそ、「まずよく見る!そして考えさせる。あとは見守る。」姿勢を貫くことが大切だと思います。
 家庭と学校とが手を取り合い、同じ方向を向き、「導き、落ち着かせる」ことで、子どもたちは安心して自分の選んだ道を歩んでいけるのではないかな、と考えます。
 先春、卒業した子どもたちの背に、改めて中学生というのは本当に難しい時期だなと感じました。身体の成長はもちろん、3年という月日の中で、人間関係、表情、服装、提出物、授業のようす、言葉づかい、清掃や給食当番への取り組み方、さまざまな場面で子どもたち一人ひとりに訪れる成長や変化は計り知れません。
 多感な時期ではありますが、素直に、そして謙虚に人の言葉を受け止め、正直に自分と向き合うことで、少しずつ心も成長し、大人になる準備ができるのだと思います。


ーあとがきー
 これは、保護者に宛てたようで、本当は自分への戒めなのです。
 私は教師という「教える」立場にありながら、どうしても子どもたちに少しでも良い環境を、良い学校生活を、と思い、先回りしてしまったり、本当はできるはずのことを代わりにしてしまったりすることが多いのです。
 それを面倒見の良さととってくださる方もたくさん居られることに感謝を感じずにはいられませんが、いつも年度が終わるときの子どもたちの姿、集団としてみたときに、果たして私の関わり方が正しかったか、答えが出ることはありません。
 答えがでない、ということは、すなわち、私がこの戒めを、まだ自分自身に課しきれていない証なのでしょうね。
 「見守る」というのは、相手を大切に思えば思うほど、本当に難しいですよね。石があることに気づいていながら、彼らがつまづいて、転んで、涙を滲ませて、うつむいて、前を向いて、立ち上がり、また歩き出すまで、草葉の陰から、ただじっと見ていることしかできないのですから。

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