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「自分を我慢しない」って、言うけれど

ふぁあ、朝だ。

今朝も6時半に起きた。自然と目が覚める朝は、気分がいい。

息子を起こさないように、そっと布団を出る。彼はいつも7時半までは寝ているから、noteに集中できそうだ。リビングでカタカタとキーボードを打っていると、隣の部屋から「ママ?」と呼ぶ声がする。小さくて、寝ぼけているような声だ。

顔を見に行く。

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【「いつかのために、今を我慢する」、「家族のために、自分を我慢する」という価値観を変えたい。】と私は言った。(参照記事

けれど、ふと思うのだ。

1人で戦っている(と感じている)人にとって、その言葉はどう映るんだろうって。

私はたまたま家の近くに融通のきく預け先がある。夫が休みの日には、思いっきりやりたいことがやれる。(もちろん、「家族団らん」がしたければ、3人の時間を楽しむ。)仕事をしたいときは仕事を、スキルの磨き上げをしたいときは本を読んだり、講座に参加したり、好きに時間を使っている。

それでもやはり、「あぁぁー!今は自分のことをやりたかったのに…」が積もり積もって、息子の呼ぶ声に気づかないふりをして、夫に目で訴えるなんてこともある。

これが、預け先もない、パートナーの協力も難しいという家庭だったら?

「自分を犠牲にしてる。」「私ばかり我慢している。」「今は耐える時」という気持ちになってしまうのは、当然かもしれない。

未来のために今は耐え忍ぼうとか、家族のために自分は後回しでいいやとか、そういう言葉を否定する気持ちはない。

でも、それでも、「今は我慢・・・私は我慢・・・」というのは、私には苦しく感じられる。「もっと身軽になっちゃおうよ!気楽にいこうよ!」って、言いたくなる。

一人ひとりが好きなことをやってるからこそ、みんなが満たされて、社会も豊かになっていくんだと、私は思う。

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今よりほんの少しだけ、みんなが「自分」の望みを叶えてみた世界。

どんな世界だろう。









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