追悼、Sweet Pea Atkinson~Was(Not Was)という時代が追いつかなかったバンド~

 巷では、Ron Rogersの"Ya Ya"がsoftbankのiPnoheのCMで流れているというのにまったく話題にもならずなんなんだ日本はまったく、と嘆いていたところなのだがそれよりも悲しいニュースが目に飛び込んできた。Ron Rogersと同じ釜であるZEレコード出身のバンド、Was(Not Was)のシンガーであったSweet Pea Atkinson(スウィート・ピー・アトキンソン)が74歳で亡くなった。

 Was(Not Was)とBoneshakersというふたつのバンドで活動を共にしたギタリストのRandy Jacobsは米ビルボード誌に”みんな今も言っているけど、あいつみたいなのは他にいないよ。口を開いた途端にあの声が出るんだ。ウォームアップなんか全然いらなかったよ。ステージに立てばオーラを纏ってるし、歩いただけでみんなの視線をかっさらうんだよ。だって、スウィートピーだからな。何度も見た光景だな。それで彼が歌い始めると・・・もうそんなのどうでも良くなってるんだよ。”と語っている。

 オハイオ州のオーバリン(桜美林じゃないよ)で生まれ、デトロイトに移住してからはしばらく、クライスラーの組み立て工場で働いていたがWas(Not Was)の活動以前は、歌いながら車のリアを組み立て、全米自動車労働組合の他のメンバーと共にHi Energyというバンドで活動していたという。

出会いと思い出

 私とこのバンドとの出会いは、確か大学生の頃、二十歳になるかならないかのときであったと思う。

 遡ること高校生時分、ギターを弾く私は古臭い音楽ばかり聴いていて、軽音部でエルレなんちゃらとか、なんちゃらテナーとかが流行っている時代なので周りに全然話の合うやつがいなかった。が、ひとりだけ後輩で古い洋楽の話をできるやつがいて、別の高校のそいつの友人であるアベちゃんが教えてくれたのがJames Chance&The Contortionsだった。音楽として際どいところで成立している彼らの曲には度肝を抜かれたのをよく覚えている。耳触りの良いものばかりが音楽ではないのだ、と初めて気付かされた体験であった。そして時は経ち、めでたく大学に入ってどのサークルに入ろうかと、いちばん先に訪ねたサークルの部室の扉を開けたときにそのJames Chanceで踊り狂っていたのが、KumagusuというバンドのYさんという人である。悩む暇も無かった。

 そのサークル活動を中心に楽しい大学生活を過ごしていたのだが、私の大学の近くにある文京区立図書館というのがまたすごい。書籍はもちろんのこと、日本でも有数の音楽資料の数を誇る図書館なのである。アナログ盤まで置いてあるし。その図書館でJames Chance関連のCDを片っ端から借りていたときに、"Mutant Disco"というZEレコードのアーティストたちの曲をまとめたオムニバス盤を見つける。そのアルバムの一番最初の曲が、Was(Not Was)の"Wheel Me Out"であった。

 ドラムの機械的なビートではじまり、次第にベース、ギター、サックスなど認識できるサウンドが入ってくるのだが、それまで聴いてきたバンドとは明らかに何かが違っている。メロディのある歌が入るわけでもなく、せりふのようなものの合間に思い出したように、数小節ひとまとまりのメロディで"Wheel Me Out"とだけ繰り返している。そしてドラムは曲の始まりから同じことしかしていない。何かというと、サウンド自体はバンドなのに耳に残る印象はとてもハウス的なのである。

 それまでの私は、”人の演奏したものしか認めん、機械だけで作った音楽なんか音楽じゃない、聴かんといったら聴かん”といったモルタルで脳みそ固められた昭和の親父みたいなガキだった。ギターを弾く、ということにある意味優越感だとか奢りを覚えていたのかもしれない。俺ジェフ・ベックとか弾いてんだぜ、おまいらそんなん知らんよな、みたいな(やなやつ)。しかし、それだけが音楽じゃないと、James Chanceぶりに音楽に対する価値観をぶち壊してくれたのがこの曲、アルバムだった。

特異な音楽性

 それからはもうWas(Not Was)の虜で、アルバムを色々と辿っていくうちにその音楽性の多様さに驚かされた。ファンク、ソウル、R&Bといったブラックミュージックが基本ではあるのだが、負けず劣らずロック、ポップ、カントリーなどといった要素が異種格闘技戦を繰り広げている。その異種格闘技戦のレフェリーをしているのがハウス・ミュージック、という感じだ。ジャンルごちゃまぜのカオスさで言えば、PrinceやFunkadelicに通ずるものがある。

 そういうバンドなわけもあってインスト曲も結構あるのだが、歌が入る構成の曲の大半はSweet Pea Atkinsonが歌っている。彼の声もまた煙たい感じと太い感じとが共存、かといってジェームス・ブラウンのような耳をつんざく鋭さはなく、このバンドの雰囲気にとても合っている。大半、といったのはこのバンドは様々なゲストミュージシャンを迎えることにも積極的で、イギー・ポップ、オジー・オズボーン、MC5のウェイン・クレイマー、レナード・コーエン、シーラ・Eなど各方面から招いている。"Born to Laugh at Tornadoes"(1983)に収録されている"Shake Your Head"という名曲では、オリジナルバージョンはオジー・オズボーンが歌っているが、ボーナストラックのほうは最終的にプリンスと恋仲だったこともある女優のキム・ベイシンガーが歌うことになったものの、オーディションの段階ではまだ爆発的に人気が出る前のマドンナのテイクもあったという逸話もある(その後12インチのリミックスとしてリリースされた)。また、今の御時世にリリース初週でCDを6万枚も売ったと話題になっているInaba/Salasのギタリスト、Stevie Salasも"What Up, Dog?"(1988)でゲスト参加している。

Was兄弟の偉業

 このバンドを確固たる存在たらしめているのはやはり、中心メンバーであるデトロイト出身のWas兄弟だ。ベースのDon Was(ドン・ウォズ)とマルチプレイヤーと作詞作曲のDavid Was(デイヴィッド・ウォズ)のふたりは、いわばブルース・ブラザーズみたいな架空の兄弟設定はあるがバンドの設立メンバーである。このバンドの後、特筆する経歴を辿るのがDon Wasで、彼はプロデューサーとして、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、イギー・ポップ、ジョン・メイヤー、ジギー・マーリーなど大御所のプロデュースを手がけ1994年にはグラミー賞を受賞している。そうした手腕を買われて2012年には”クソみたいなレコードを出さないこと”というシンプルかつ真理でもあるポリシーとともに、老舗レコードレーベルであるブルー・ノートの社長に就任している。

 ふたりは、80年代前半からリミックスを積極的に行っていた先駆者でもある。リミックスという手法はハウス・ミュージックが広く聴かれるようになってからはジャンルを離れて当たり前のものになっているが、今のようにオマケとしてつける、みたいな意味合いとはまったく異なりDon Wasいわく"リミックスは、ジャズにおけるインプロヴィゼーションが創り出す無数の異なるヴァージョンと同じことだ"ということである。同時代で起きているムーブメントをいち早く取り入れ新たなスタイルとしてしまうところ、さすがブルー・ノートの社長である。

 また、椹木野衣さんの”シミュレーショニズム”で読んでよく覚えているのが、この二人は夜な夜なデトロイトのクラブにラジカセを抱えて出没しては客が一番盛り上がるところをテープに録音していた、という話だ。要は、文化人類学者がフィールドワークでもって刻一刻と変化するその場の状況を記録しているのと同じことをしていたわけである。そうやって研究を重ねた結果、猥雑でカオス極まりないジャンルごちゃまぜの曲をビートや間の部分でもって踊れるものにしているのである。彼らのそうした試みから辿り着いた結論が”ビートとビートの間に踊れる空間を残しておく”ということらしいが、最近の暴力的な圧でうるさいばかりの音楽とは真逆のクールさである。

 以上に挙げたように、後世に与えた影響というのが計り知れないバンドではあるが、いかんせん時代を先取りしすぎて同時代の他のバンドほど有名にならずに1992年にその活動を一旦終えている。狭い範囲で物言うのは申し訳ない気もするが、私の周りにこのバンドを知っていてなおかつ好きだという人は(私が教えない限り)いないし、ネット上での情報も乏しいのがそれを物語っているように思う。しかし、今になってどのアルバムを聴いても古臭い感じなどはまったくせず、熱意とともに産みだされた音楽というのはやはり、普遍性をまとうものだ。彼の歌声もその普遍性の一部である。

 最後に、亡くなったSweet Pea Atkinsonのサイコーに踊れる曲を紹介してこの追悼を締めたいと思う。踊らないんだったら死ね。かしこ。

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