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五番歌 ロックな猿丸大夫?これからの生き方を問う


五番歌

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞く時ぞ 秋は悲しき

猿丸大夫


この、「猿丸大夫」という人物は、出自のはっきりしない、
謎の人物と言われています。


小学生の時に百人一首を覚えていたときも、
なんだか変な名前だよね、
と兄たちと笑っていた記憶があります。


「大夫」というのは身分を表していて
高位の官人である、貴族にあたるそうです。


猿丸大夫という名は、ペンネームである可能性が高く、
高位の人物が、本名や身分を隠して、
あえて「猿丸」というおどけた名前で詠んだところに
この歌を読み解く鍵がある、と解説にあります。


多くの解釈は、「秋の物悲しさ」や、
牡鹿が雌鹿を求めて鳴く声に、
遠く離れた妻や恋人を恋い慕う感情を重ねている、
とされています。


小名木先生の解釈は、
いつも非常に深いところをついているな、と
ここまで読み進めてきて思うのですが

この歌についての洞察も、
なるほど!と唸ってしまいました。


「鹿」はおめでたいものの代名詞
「紅葉」は、華やかな美の象徴


秋の真っ赤な紅葉に染まる、人里離れた山奥。
そこに、立派な角を生やした牡鹿が佇んで鳴いている様子は
絢爛豪華な極彩色の、あでやかな情景です。

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(画像は「紅露の写真日誌…北の大地・夢空間」よりお借りしました。)


そんな豪華な舞台で、
雄鹿の鳴き声に誘われて雌鹿が現われ、
二頭は愛の行為に及ぶ。


この情景からは、秋の物悲しさは感じられません。


むしろその様子は、貴族たちの、贅沢で
男女の色艶あふれる暮らしぶりと重なります。


「声聞くとき秋は悲しき」


この「ぞ」は強調なので、
鹿の声を聞くときこそ悲しい、
ということになります。


つまり、猿丸大夫という、謎の高位の人物は、
絢爛豪華な暮らしを求めることこそ、虚しく悲しい、と

そのような諭しを込めて、この歌を詠んだのでしょう、

という解釈です。


彼は、自分自身も位の高い地位にいて、
貴族たちのそのような暮らしぶりを間近で見て
うんざりしていたのかもしれない。

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バカ殿・志村けん様、ご冥福をお祈りします。


だからあえて、「猿丸」という
滑稽なペンネームを使って、反骨精神を表した
平安(奈良・鎌倉?)のロックンローラー的存在だったのでは?

と、私は想像してしまいました。


そして、ふと、旧約聖書に書かれた
この言葉が思い起こされました。


祝宴の家に行くよりは、
喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が
それを心に留めるようになるからだ。


悲しみは笑いにまさる
顔の曇りによって心は良くなる。


知恵ある者の心は喪中の家に向き、
愚かな者の心は楽しみの家に向く。


伝道者の書 7:2-4


この伝道者の書(新改訳)、またはコヘレトの言葉(新共同訳)
は、聖書の中ではちょっと異色で、

「この世はすべて虚しい」

という、仏教的な趣のある書です。

「諸行無常」に通ずるものがあります。


聖書って、「光と闇」「天国と地獄」「善と悪」
みたいな、二元論的な教えが多い中、

この書に関しては、「中庸」を勧めるような言葉が
たくさん出てくるのです。


最初の「祝宴」というのは、結婚式の祝宴を意味しています。
結婚式よりも、葬式に行く方が良いのはなぜでしょう?


人は、死を意識して初めて
自分の残された人生をどう生きるか
真剣に考え、向き合うようになります。


悲しみが、人を強くし、
他者の痛みがわかる思いやりを育みます。


パーティーや飲み会、どんちゃん騒ぎといった
快楽の中で、決して悟りは得られません。


苦しみや、悲しみや、不条理に直面し、
それらを乗り越えてこそ、人は成長します。



Queenのボーカル、フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画、
「ボヘミアン・ラプソディー」の中でも

バンドがうなぎ上りに人気が上がり、
その名は世界中に知れ渡り、名声を得ますが
やがて恋人を失ってしまいます。

そして、クレイジーなパーティー三昧、
酒びたりの派手な生活を送りますが
彼の内にある孤独感、虚しさは満たされることなく
自滅の方へと向かって行き、

さらに、フレディはソロの契約を結び、
仲間を離れます。

そして、自分がエイズにかかっていて
余命わずかであることを知り
仲間のもとに戻り、

アフリカ救済のためのチャリティーコンサート、
ライブエイドへの出演に至ります。

病に蝕まれつつある体を酷使して練習に励み

コンサート当日は、歴史に刻まれるような
最高のステージを披露して
何十万人もの観客を感動させました。


名声、贅沢と快楽に浸る暮らしは
彼を自滅に追い込み

死に直面することで、何が本当に大切なのかを見出し
そこに自分の全生命を捧げ、人生を全うした。


まさに、この和歌の意図を、
わかりやすく表しているストーリーなのではないか
と思いました。



今の私たちも、コロナが世界中に蔓延して

死と直面せざるを得ない状況です。


今までの常識が、あらゆるところでくつがえされて

同じ平和な状況はいつまでも続かない、
という現実を突きつけられています。


自分の命を、ここからどう使っていくのか
真に問われている時。

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地球はこれ以上、成功者を必要としていない。
地球が切に望んでいるのは、平和を実現する人や、
人を癒やす人、修復をする人、物語る人、
そしてすべてのものを愛する人たちだ。

H.H.The Dalai Lama


今回は、意図していたわけではなかったのですが

神道・仏教がベースの日本の和歌から
キリスト教、ロックバンド、チベット仏教と、

様々な要素をつなぎ、「和する」記事となりました。


私が心の奥底から願っているのは、そこなんですね。

あらゆるものの価値観や個性を認め、その良さを融合して

皆が幸せになれる、新しい価値観を創っていくこと。



最後までお読みくださり、ありがとうございます!


これを読んでくださったあなたが、
あたたかな光に包まれて、
毎日を送ることができますように。


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