見出し画像

“being”を見直す坐禅のすすめ

坐禅をして何に気づくかというのは、結局のところ他者であり、他のものによって成り立たされているんだなと。そんな中に、自分というのがちっちゃく光り輝くものとして、自我というものがあるという冷静な見方を取り戻せると、意外といいかんじに人生流れますよってこと(byこーさん)

こんにちは。月1回の坐禅会とnote投稿をゆるやかにしています。前回の記事から溢れ出てしまった内容を載せたいと思います。スピンオフのような話題だったので、別立てで書くことにしました。


自分は“being”より?それとも“doing”より?

みなと坐禅では、最後に今日の坐禅はどうだったかのシェアをする。あるとき、“being”と“doing”について話題が出た。わたし自身、日常でこの言葉をあまり使わないし、ましてや意識高い系(と勝手に言わせていただく)の間で使われていそうな“Well being”なんてもっと使わなかった。それがこの回をきっかけに考え始める。ただ“doing”は想像できるけど、“being”の捉え方って何だろう...。

〜みなと坐禅vol.4での参加者の言葉たち〜

【しのさんの言葉】
ここのところずっと考えてきた答えは、やっぱり自分のやりたいことをやる、理屈がなくてもやるんだなって思って、ああもうそれでいいや、ありがとうございましたって思ったら鐘がカーンってなりました。

【ゆうこさんの言葉】
今日思ったことは、今、一生懸命いろんなことをやろうとしていること、“doing”というか、自分の行動とかこれをしようとかあれをしようとか、そっちばっかり何かしなきゃっていう気持ちが強い。何もできない状態の中で何かしなきゃって。でもその中でいろんなことをやっている人を見るとついつい比較してしまって、自分は何にもできてないみたいな心持ちになりがちなんだけど、昨日今日ぐらいで、今回の坐禅でもすごく思ったのが、“doing”じゃなくて、いかに自分らしくあるか“being”だなって。

このとき、やっぱり“being”で生きたいよねという方向に話が流れていたような気がする。そんなとき、参加者ですでに“being”で生きていて、むしろ“doing”ができなくて困っているというひとが現れ、会話の流れが一気に変わった。その一部をご紹介する。

アンちゃん:“do”ってどうやったらできますか? “be”しかしてこなかったから、この半年ぐらい人生に“do”が出現してしまって、好きなことしかしてこなかったから、する意識もなくただ“be”で流れるように行き着いた先にするという行為が生まれてしまったんですよ。勉強するとか行動するとか、今まで行動しようとしてしてなかったから。

あややさん:わたしめっちゃ“do”の人だから、どうやれば“be”でやるのか知りたい。笑。なんか常に行動あるのみ、みたいな人なんですよ。今回(外出自粛時)みたいに家にいて、それはそれで結構楽しめたんだけど、何もしない状況っていうのは結構焦る。何かしたい状況に突き動かされる。“be”でいられる秘訣は何ですか?“do”をしないでいられるのはどうして?

アンちゃん:何でだろう?わかんない。頭が悪いんじゃないですか。笑。ストレスがまず無理だから。ストレスがあったらダッシュで逃げるし、やりたいことできないストレスに耐えられない。我慢できない。
 
あややさん:それって素晴らしいことだと思うんですけど、自分の意識はなくて“being”でいるってそのこと自体が素晴らしいと思う。私みたいなタイプからだと羨ましい。
 
アンちゃん:フリーズしちゃった。笑。
 
うのゆさん:どっちが良い悪いではないとは思うんだけど、わたしはたぶん、あややさんとタイプが似てるのかもしれない。ただ、わりと何にも考えずに動いちゃうっていうか、あややさんは考えて動いていると思うんだけど、わたしは考えずに動いちゃう。常になんかやっていて自分では何だっけ?って感じかな。
 
アンちゃん:“doing”も考えずにやればいいんだ。試して見ます。

この会話の流れで、わたしは、好きなように生きること、自分らしく生きることが“being”で、考えないでする、しなくてはならないことをするのが“doing”と捉えていた。そして、わたし自身の生き方は“being”と“doing”でどっちの割合が多いのかを考え始めた。でもそもそも「好きなように」とか「自分らしく」って何だろう?“being”で生きるって何だろう?うーん、やっぱり“be”の捉え方がわからない...と堂々巡りをしていた。

「being=自分らしい」からの解放

【こーさん(坐禅案内人)の言葉】
“do”と“be”の話がよく言われるのは、“do”に肩入れすぎるのが世の中に多いという前提があるんだよね。何かをやっていく先に目標を達成するとか、そういう方向で頑張っているんだけど、やりすぎちゃって自分がそこにいるだけでOKということを忘れちゃうんだよね。やることのエネルギーすら枯渇する状況があるので、“do”ばっかりは見直した方がいいよといったときに、何かついついしちゃう人に、しないほうがいいよっていうのはなかなか難しい。だから、あなたはあなたの存在そのままで在る(いる)っていうのはOKだと思いませんか?というところから入るから“be”という言葉を使う。でもそもそも全員“be”だからね。

これを聞いたとき、すでに脳内は「being=自分らしい」で固まっていたから、言葉の意味を柔らかく理解するのに時間がかかった。それが「be=存在」とすっと捉えられるようになったのは、東畑開人さんの『居るのはつらいよ』(医学書院)を読んだことからだった。
 
書籍の内容を簡単に紹介すると、臨床心理学で博士をとった東畑さんが沖縄の精神科デイケアに就職するも、専門的なカウンセリングができる機会がほとんどなく、毎日は利用者さんとただ「居る」ことが仕事だった。何もすることがなく、専門性を発揮できる機会がないことに悩みながらも、ケアとセラピーの違いを考え、利用者さんと上手に「居る」方法を試行錯誤して過ごす体験が書かれている。

これを読んで「居られない」状況に身を置くことで「居る」自覚が生まれるのかと思った。幸せも普段は自覚しないけど、辛くなったときに幸せだったことに気づくみたいな。胃の調子が悪くなったときに胃の存在を思い知るみたいな(最近あった自分の体験)。居心地が悪くなったとき、辛くなったとき、あるいは病気したとき、痛烈に自分の「存在」を突きつけられる。普段は当たり前すぎて「自分は居る」なんてことをあまり考えないけど、そもそもわたしたちは“be”だった。

最初“being”が捉えきれず迷走したのは、“Well being”がセットで出てきたからだと思う。だって「今のあなたは自分らしい?」「あなたらしさとは何?」なんて質問されている気になってしまい、自分は“being”で生きていないと否定しそうになったから。でも「be=存在」と捉えたら、良い悪いもなくなるし、「自分らしい」に悩む必要もなくなった。“being”で生きるとかではなく、生きているからそもそも“being”。なんだか言葉遊びみたい。それでも、もし“Well being”を考え始めることがあったら、たぶんそれは「今の自分はこのままで大丈夫なのかな」という気がかりから生まれていそうだから、自分を否定してしまいそうな場や言葉をなるべく避けながら、“being”を見直すほうがいいと思う。そして見直すのは思考や心じゃなくて体がいい(「体から見ていく坐禅のすすめ」参照)。

坐禅で“being”を見直す

【こーさんの言葉】
「執着する」や「そうでなければならない」とか、自分にズレが出てきているのも無視して、自分の存在の充実のために頑張るというのはありなんだけど、そうじゃなくて会社とかで地位とか誰かに認めてもらいたいとか過剰な意識によってそれを成り立たせようとするとどこかでバランスが崩れる。だから“do”が悪いんじゃなくて、“be”もちょっと見直したほうがいいんじゃないのってことを言いたいんだと思う。言葉っていつもそうやって使う。常に“be”のほうがいいんじゃないのって、そらそうですよ、みんな“do”に肩入れしてる人が多いから。

何のための“do”なのか。生活をしていると習慣化していることが多くて、細かいことをいちいち考えていられない。考えないようにするのも生き抜く処世術だから。でも“do”ばかりしていると、ふと、このままでいいのかと考え始める。するとそこから「being=自分らしい」の落とし穴にはまってしまう。自分らしさをすぐに感じ取れて納得できるときはいいけれども、自分らしさの追求が始まると、ますます自分を追い込んでしまうこともありそう。そんなときは、ひとまず考えるより先に“do”をやめてみるのもひとつの手段。やめるといっても、一時的に何もしない時間を作るという感じ。そういうのは坐禅が得意だったりする。

坐禅は、じっと坐って呼吸をするだけだから、その瞬間だけ普段の何気ない“do”全てが削ぎ落とされる。この何もしない状況が生まれると「be=存在」が溢れ出し、必然的に「今の自分」を観察することになる。意気込んで見直そうとする必要もなく、ただ観察してじっと待つ、それだけでいい。そうすると自分の中で何かが起こり始める。それは、考え事で頭がいっぱいになるのかもしれないし、体のどこかが痛み始めるのかもしれないし、ふと何かを思いつくのかもしれない。起こったことを、ただただ観察する。

静けさに身を置くと、日常に覆いかぶされて気づかなかったことに気づきやすい。それはまるで濁っていた水が透明になって、水中に存在しているものが見えてくるかのように。

自分の“being”は誰かの“doing”なしでは語れない

【こーさんの言葉】
忍辱(にんにく)。仏教の坐禅は特に自分のほうに入りやすい。ずっとひとりで坐禅してこのまま死んでいくのもありなわけですよね。外ばかりじゃなくて内に入りすぎる場合、森の中でひとりで生きて、社会なんかどうでもいいやと、そういう方向になりがち。でもそうじゃなくって、まわりとの自分も含めての成り立ち、関わりというか繋がりというものが土台にあっての自分の存在だとわかっている人間はそんな風にならない。ただ、どうしても自分勝手に他者と付き合うのは難しいから、摩擦は起きます。そのとき摩擦が起きるものを常に反発するんじゃなく、そこは許容していく柔らかさも持ちあわせる。そういう意味での「忍(しのぶ)」と訳されているイメージの教えが仏教にある。

東畑さんの『居るのはつらいよ』に「依存労働」という言葉が出てくる。「依存労働」とは、著者の言葉を借りると「誰かにお世話をしてもらわないとうまく生きていけない人のケアをする仕事」「弱さを抱えた人の依存を引き受ける仕事」のこと。それは、お母さんと子供、介護士さんと高齢者のような関係性において使われる言葉で、専門職として世の中で評価されにくい職業に当てはまることが多い。

わたしはこのくだりを読んで、この関係性はケアだけに止まらず全ての些細な日常に当てはまるではないか!としびれる思いを抱いた。経営者は社員の労働に依存しているし、部署の上長も部下の働きに依存しているし、家事をしない夫(妻)は家事をする妻(夫)に生活の依存をしている。「依存労働」から一歩引いてみると、人間は空気中の酸素(作ってくれる存在がいる)によって呼吸ができるし、生き物は地球環境によって生かされている。ちょっと話が飛びすぎた...。まとめると自分の“being”は、誰かの“doing”なしでは成り立たないということ。だからもし自分の“being”を見直そうと思うなら、“doing”している他者の“being”(ややこしい表現ですが)にも目を向けなくてはいけなくなる。たとえ見えなくても繋がりはあらゆるところに存在している。

一見、坐禅と何の関係あるのか...と思うかもしれないけれども、坐禅をして静かな時間に身を置き、自分の存在を見直すと、そこに見えるのは実は他者の存在、そして感謝だったりするのだ。

終わりに...

今回の記事はわたしなりに頭を使いました。もしかしたら読んでいるひとは、きゅっと固くなったかもしれません。でも“being”と“doing”テーマは、どうしても記録として書かなくてはいけない思いに駆られました。

“being”について考え始めたとき、わたし自身は「自分らしさ」がよくわからなくて「自分らしさ」がわかるひとを羨ましいなと思っていました。でも今では、きっと周りの印象に「わたしらしさ」があるんだろうなと思っています。自分を作り上げるのは、周りでもあるので、それはそれで受け止めつつ、柔らかく“being”していきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?