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易しい坐禅のすすめ

坐禅の基本には、日常が外向きすぎるので少し戻しましょうというのがある(byこーさん)

こんにちは。月1回の坐禅会とnote投稿をゆるやかにしています。近頃は1ヶ月も経つとすっかり世界が変わっているなと思います。今回は、坐禅案内人のこーさんが『普勧坐禅儀』をもとにお話してくれた内容に触れていきます。


長い歴史を持つ坐禅

【こーさん(坐禅案内人)の言葉】
坐禅は仏教の前から在ります。静かにしていると、何かしら起こるということを誰かが発見し、それを積み上げてきた歴史というのが、人類にあるみたいですね。そんなわけで、じっとしているとわりといい感じですよというのが人々に伝わってきている。

坐禅の歴史は古いと言う。改めて坐禅をやりたいと思うひとは、わたしが言うのもなんですが、自分も含めて、ちょっと変態(褒め言葉)と思っている。だってじっと坐るだけなんだから。それでも古くから坐禅が存在し続けることに普遍性を感じる。時代が進んでもなぜ坐禅が消えないのか、きっとそれは坐禅には人が希求する「何か」が存在し続けるからなんだろう。その「何か」を求めて坐禅をするひとがたくさん現れ「何か」に期待したけれども、苦行もしくは眉唾もので終わったひともいるんだろうと思う。だから坐禅をしたことないひとに伝えていくのはもどかしい。坐禅をしたことないひとに「坐禅したらどうなるの?」「何のために坐禅をするの?」と質問されても、なんて答えていいのか言葉につまるときもある。もし仮に効果があるとしたら、最初から自分と同じ効果を相手にもたらせるとは限らないから。

坐禅をすればいいと先人たちが言っている

【こーさんの言葉】
この世界の在りようは上手くできているので、そんなに一生懸命頑張らなくてもいいんですと書いてあります。在り方をちょっと間違うととんでもない間違いに先々に繋がることがあるので注意しましょうねとも書いてあって、とにかくいろんな人がずっと坐禅をしています。お釈迦様も中国禅宗の祖といわれている達磨大師さんもずっと坐禅をしてきたんだ、だから坐禅をすればOK、心配はないんだ、そういう世界にいるんだから、小賢しく…とは書いてないけど、自分の言葉をついやしてこーだあーだというのはやめて、言葉を使った思いとか考えとかは一回やめて、休すべしって書いてあります。

坐禅会のことを文字に起こすのは、川の流れに逆らうような力技だ。それに文字にした瞬間、同じようでいて別物が生まれる。それは坐禅に限らずともそう思う。にもかかわらず、文字に残したいと思う人間の習性は野心的で愛おしいなと思う。おかげであらゆる書物が生まれて『普勧坐禅儀』も生まれて、道元さんが故人になっても教えは残って、今ではたとえ全てが燃えてもネットに残っていれば消えない。時代を超えても書物が残り、解釈が入り、ひとからひとへ伝わっている。その流れでまさか自分にも伝わり坐禅をすることになるとは想像もしていなかった。この壮大な繋がりに胸がふるえる。

体から見ていく坐禅のすすめ

『普勧坐禅儀』はその名の通り、坐禅をするひとに向けての書物。多くのひとたちの解釈が世にある中、こーさんの「普く勧める坐禅のやり方」は、ゆるくてわかりやすくて心地よい。おかげでわたしたちは、書物に直接触れることなく坐禅ができる。心地よさは文字で表せないけど、ゆるさとわかりやすさは記していけると思うので、以下、みなと坐禅でのこーさんの言葉を一部紹介する。

●坐禅は習禅に在らず
坐禅は習禅ではないって書いてあります。習って上手くなったりするものではありません。じゃあ何なの?って言ったときに、安楽の教えです。安楽の法門なり。だから安らぎであるのです。 

●無心になろうとするより「無身」から
坐禅をする場合、自分の内面という話になり、イコール心の状態と結びつけがちなんですけど、意外と心の状態をなんとかしようというのは結構難しいですよね。ついつい揺れちゃう手を揺れている手で抑えようとするものです。どうしても人間は何かをコントロールしようと働いちゃうので、心の状態もコントロールできると思ってしまう。働きかけはできるけどすぐなんとかできるものではない。だから、体のほうの落ち着きを見ていけば、当然裏表の心の状態っていうのも体の状態にともなって変化していく。変化していくっていうのは、かたまりがちな心の状態がゆるんでやわらかくなることで、流れ出る方向に自ずと流れて行きます。

力が抜けている状態、自分が何かしらコントロールするような状態ではないところに自分を置いてあげる。できる・できないにハマってできない自分にこだわっちゃう自分も許す。これは無身の話です。遠回りのようでいて、無心になろうと心を働かせるよりは、体の状態に気を使って、ありがたくその状態を受け取っていくというほうがたぶん近道になるかなと。

●体は存在しているだけで、すでに調和している
体が存在できているということにおいては、すでに調和しているということ。わかっているように、人間の細胞はどんどん生まれて死んで行きます。死んで行く細胞と生まれる細胞がうまくバランスがとれています。多少のブレはあったとしても。病気になるとブレたり、歳をとって行くとだんだん変わって行くけど。人間の場合、アイスクリームのように夏に暑くなってもどこかが溶け出すというのはないわけですよね。それはすごく絶妙なバランスのもとにできていて、わたしとか、みなさんが関与するところではないわけです。そうなると、いつもは気づかないけれど、体ひとつとっても、相当な調和の中で存在できてるんだというのがひとつ土台として考えられると思うんですよね。

●坐禅は考える・考えないという世界ではない 
実は物語があって「ただ単に坐禅をしてどうすんですか」って聞いてきた人がいるんですよ。「考えないところを考えましょう」ってどうするんですか?ようは「考えないことを考える」というのは、どういうことですか? 答えはですね、ひとこと。考えるというのは、非思量つまり思量じゃないね、というのが最後の答えなんです。

何が言いたいかっていうと、坐禅しているときに「どういうふうに坐ったら素晴らしく正しい姿勢になるだろう」「どうしたら悟れるだろう」といろいろ考えます。でも「坐禅は考えるということじゃない」って言われるんです。「考えないことを考える」って言われるんですよね。「考えない」って言っちゃうとわからないから「考えないことを考えなさい」って言われるんですよ。ところが「考えないことを考えるってどういうことだろう?」って考えるんですよね。それでまた聞きに言ったんです。そのときに初めて、考えないことを考えられなかった、という話が出てくるんですよね。そうすると「考えるとか考えないとかじゃなくて、坐禅の世界は考えということとは違うものなんですよ」というのが最終的な答えとしてあります。

その根本にあるのがこの引用です。非思量。曹洞宗のなかでも「非思量ってなんぞや」って考えるんですよね。わたしからすると「考えるっていう世界ではありませんよ」という話で受けとったほうが全然楽だと思うんですよね。

終わりに…

緊急事態宣言が解除された約1ヶ月前、みなと坐禅は変わらずオンラインで坐禅会をしています。そのときの参加者は、ずっとstay homeだったり、通勤していたり、海外に住んでいたり、家族が海外から帰れない状況だったり様々な日常がありました。

わたしの場合、通勤生活が復活したときは、満員電車生活が復活するなんて由々しき事態である!と心の中で叫んだこともありました。そして人の気配を近くで感じるとちょっと戸惑い、ムッとすることもありました。それでも今は以前のように多少の人混みなら気にしなくなり、呼吸が苦しいと思いながらもマナーとしてマスクをつけて日々の暮らしを紡ぎ、変化に対応できていて我ながら柔らかい体だと思います。今後もきっと激変していく世界になると思いますが、不器用であっても柔らかく生きていきたいですね。

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