連載小説『泡沫の初恋』 二.千草(は)(最終回)
八日後の夜、婚礼の儀はひっそりと行われる。
つい先日、伊沢家より「婚礼も祝言も、できる限りこじんまりと質素に」という申し出があり、姉の牡丹が消えたことを決して悟られてはならない尾花家もそれを快諾した。
婚礼は、お色直しをしながら、ひと月も続くことがあると聞いていた私は、それを聞いていくらか気が楽になった。そんなにも長い間、「牡丹」の顔を作っていられる自信がまだない。私は牡丹姉さまほど淑やかに、じっとしていられる女子ではないのだ。できることならば、まだ傷の治りきらぬ子猫の椿と、ずっと一緒に遊んでいたい。
婚礼の日の夜、文金高島田に結い上げた髪に綿帽子を被り、白装束を纏うと、人気のない道を通って伊沢家に入り、初めて結婚相手と顔を合わせた。
夫となる伊沢蘇芳は、私よりも五つ年上の男だった。本当の牡丹姉さまは十五だから、「私の顔が幼いと訝かるのではなかろうか」と心配したが、蘇芳はそんな素振りは全く見せず、薬屋の若旦那らしく算盤が好きだとか、そんな話を気さくにしてくれた。
蘇芳は、細面の長身で、目元は切れ長の父親似だ。性格は、親切で、穏やかで、優しい。穏やかな笑みを浮かべ、「慣れないところへよく来てくれた」と私を気遣う。
しかし、それはあくまでも表向きの顔である。蘇芳の相からは、何かに怯え、必死で何かを隠していることが見て取れた。
蘇芳が薬屋の歴史について語り始めた、その時だった。
「だめよ、椿!」
私の膝で眠っていたはずの子猫の椿が、部屋を駆け回り、嫁入り道具として持参した茶道具の一式を倒してしまう。
それを見た蘇芳は、突然顔色を変え、子猫を捕まえるとすぐさま外に放り出してしまった。
「なんて酷いことをなさるのですか!」
そう言って子猫を追おうと立ち上がると、すぐに腕を掴まれて制止される。
「……牡丹。君は今日から伊沢の人間だ。猫なんて家に入れてはならない。ましては、植物の名を動物などに付けてはならない。わかったね」
豹変した蘇芳の冷たい視線に射抜かれ、私は黙って頷くことしかできなかった。
「今日は、秘密の薬草園を見せてやろう。君も、母さまたちとそこで薬草を育て、収穫し、伊沢のために働くことになるからね」
川開きが行われる頃、婚礼も一段落し、私は蘇芳に連れられて、屋敷のちょうど真中にあたる場所にやってきた。
そこには、数多の種の薬草が植えられた決して広いとは言えぬ畑があり、他の者の目に触れぬよう、分厚い壁と重々しい錠によって厳重に護られていた。
「旦那さま、あれは何という名ですか?」
私は、一番初めに目に入った植物の名を訪ねる。
それは、見たこともない大きな黄色い花を咲かせ、葉にはまるで血飛沫を浴びたかのような赤黒い斑点が無数に表れていた。鮮やかで美しい花とは対照的に、醜怪な姿の葉は、いかにも妖気を含んでいる。しかし、私は不思議と、その葉に愛着を感じた。
「ああ、あれは『オトギリソウ』と言うんだ。傷薬に使うんだよ」
蘇芳はその植物の名を告げると、すぐに薬草園の扉を閉めて鍵を掛けてしまった。
その夜、蘇芳はいつにも増して、苦しんでいた。
蘇芳は毎夜、悪夢にうなされており、その度、私に「まじない」をせがむ。
「君は呪禁師の末裔だろう。何とかしてくれ。頼む」
大量の冷や汗をかきながら、五つも年下の私に、得も知れぬ禍から救ってくれと必死に縋る姿は、余裕綽々な昼間の姿とは異なり、鬼気迫るものがある。
今宵も同じように、蘇芳の頭を撫でて「まじない」を唱えてやると、蘇芳はすうっと深く眠ってしまった。
ああ、可哀そうな蘇芳。
私は、全てを知っている。
蘇芳の悪夢の所以が、あの男子……椿であることを。
あのオトギリソウの葉に浮かび上がった紋様が、椿の怨念であることを。
椿が今もなお、あのオトギリソウの傍らで立ち尽くしていることを。
だから、私は「まじない」を唱えて、あなたを眠らせよう。
泡沫の夢を見せてあげよう。
その代わり、あなたが眠る間、薬草園に居る椿の魂をここに呼ぶのだ。
蘇芳が私に指一本触れぬよう。毎夜、椿の姿に出会えるよう。
いつか、椿の魂が蘇芳の身体に居つけるまで、私は「まじない」を唱え続けよう。
私が「会いたい」と強く思うのは、椿だけ。
これが、きっと、私の初恋だから──。
(了)
🌟最後まで読んでいただき、ありがとうございます☺️
ヘッダーのイラストは、「yonaka3636」さんの「泡沫」という美しい作品を使用させていただきました✨
この物語は、「オトギリソウ」の逸話を参考にして書いたものです。
初恋を実らせるのは難しいなんて聞いたことがありますが、
「泡沫」な思い出はきっと、誰しも密かに、大切に、心にしまっているのかもしれません。
🌟第一話は、こちらから↓
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