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トークとカレーと解釈的不正義


今日はOさんが東大でやってる授業「絵の授業」に顔を出した。
写真家の久家靖秀さんのアーティストトークの日だった。
ここ一か月程、朝っぱらから久家さんの家(僕の家から自転車で5分ぐらい)に3、4回行って、時には、話題にした記事にワインの話が出てきたからというだけの理由で朝からワインを飲んだりしながら、どういう話すると面白いかなぁ・・・と相談してきたこのトーク(僕は大したことはしてないです)。
面白かった。
Oさんの絵にしろ、久家さんの写真にしろ、長年自分なりの表現を深めてきた人の視線は、物事を深く、深くとらえる。

途中何故かオウム真理教の話になって、Oさんが「ポア」という単語を使った時、僕と久家さん以外の若い学生(学部1、2年なので20歳ぐらい)たちはほとんど無反応だった。
考えてみたら、みんなもう2000年以降生まれだから、オウムの事件なんて本当に歴史上の出来事なんだろう。
気付けば、僕はもうジェネレーションで言えば、Oさん久家さん側のこともあるんだなぁと感じた。
でも、それはまぁたまたま学生との間のジェネレーションギャップの一部がポアで表面化しただけで、見えない認識のズレは水面下で色々起こっているんだと思う。
Oさんも久家さんも、美術や社会についての問題を色々提起してたけど、学生はどう感じたんだろう。
そして、Oさん久家さんと僕の間にも、学生同士の間にも程度の異なるズレがあるのだろう。
ズレを感じるために、お互いの思うことを伝え合うことは大事だ・・・。
コミュケーションって一致することが大事みたいに思ってしまうけど、やっぱ、ズレだわ。

終わった後、TAの雄大さんも一緒に、駒場東大前のインドカレー屋「ムスカン」に行った。
ほとんど1年前も同じお店に行った。
あの日は寒くて、雪が降っていた。
昨日のことのようだった。

話は変わって。
昼間、僕の研究室のある先端科学技術研究センターで研究している小児科医の熊谷晋一郎先生の講義を聞いた。
熊谷先生は、普段車椅子に乗りながら仕事をしていて、日本の当事者研究(社会の中で困難を抱える人自身が行う、自身や自身が出会う問題についての研究)の第一人者だ。
多分講義を聞くのは2回目だけど、話し方が柔らかくて、すごく耳に馴染む。
熊谷先生は、今日は「社会モデル」と「解釈的不正義」を覚えていって欲しいと言っていた。
社会モデルは福祉の分野ではよく言われるので割愛するとして・・・「解釈的不正義」は初めて聞いた言葉だった。
ミランダ・フリッカーという哲学者が『認識的不正義: 権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか』という本で提唱した考え方らしい。
Amazonの本の内容説明からそのまま引用すると、「解釈的不正義」とは
「セクハラの概念が存在しない時代にそれに苦しんだ人のように、集団的な解釈資源のせいで経験の理解を妨げられ不利な立場とされる」ことらしい。
障害、精神疾患、性…時代と共に表面化してきた色んな問題が頭に浮かんだ。
色んなことに当てはまりそうで、ものすごくしっくりきた。
自分が構成する社会集団の解釈が足りなかったり、歪んでいたりすることが、誰かの苦しみに繋がっていることに、自分は気付いていないのだろう。
嫌だなぁ。
本も読んでみよう。

解釈的不正義かぁ・・・。

大したことしてないのに、1週間長かったような気がする。
休みだ・・・。


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