見出し画像

吹奏楽コンクールについて

最近課題曲が公開されて、いよいよ今年も吹奏楽コンクールの季節が近づいてきました。

今年の夏にコンクールに出場できれば、私は高校2年以来の出場となります。高校3年生の時は、コロナ禍により吹奏楽コンクール自体が中止になり、大学1年生だった去年は、サークル活動が制限され、十分に練習ができなかったため、出場を断念しました。

これだけコンクールに出ないと、吹奏楽コンクールがとても恋しく感じ、「出場したい!」「”ゴールド”金賞取りたい!」「代表に選ばれたい!」と思うあまり、視野が狭くなりがちです。なので、ここでいったん冷静になって、私が所属する吹奏楽サークル(以降「楽団」)の現在の状況と、私の吹奏楽コンクールに関する思いについて、整理しておきたいと思います。

賛成多数なのにコンクールに出ないかも!?

かなり前に、コンクール出場について楽団全体のグループラインで投票が行われました。そこでは、過半数がコンクールに出場したい意思を表示したことから、楽団としては、"一度は"コンクール出場が確定しました。

しかし現在、もう一度投票が行われ、夏の活動について審議されています。

参加の意思を示した人が極端に少ないパートがありました。さらに、そのパートからは、「コンクールに出場する代わりに演奏会を開催してはどうか」という案が出ています。出場の意思がない人を、無理矢理コンクールに出すわけにはいきません。このまま多数派に任せてコンクールに出場したならば、そのパートだけ人数が極端に少なくなり、サウンドのバランスが悪くなります。さらに、残った数少ないメンバーだけで演奏会を開くのが厳しい場合、演奏会をやりたいという考えを、蔑ろにすることにもなります。

「出場の意思がある人だけ出る」
サークルの事情に個人が束縛されすぎるのは不本意です。基本的なコンセプトはそれでよいと思います。しかし、人数のバランスを考えたならば、それもいいことばかりとは限りません。

”過激派”だった中高生時代

本題に入り、私のコンクールに対する考えについて語ります。

今までの地区大会での経歴は、
中1  「金賞&地区代表」
中2    〃
中3    〃
高1    〃
高2  「ダメ金」(地区代表に選ばれなかった金賞)
高3  コロナ禍のため、コンクール中止
大学1 サークル活動が制限されたため、コンクール不出場

初めて吹奏楽コンクールに出場した中学1年生の時、私の中学校は地区代表に選ばれ、その後高校1年生まで4年連続で地区代表に選ばれてきました。高校2年生の時には初めて「ダメ金」をとり、悔しい思いをしましたが、なんとなく、銀だろうが銅だろうが、同じように考えていた気がします。知らず知らずのうちに、自分の中では、代表に選ばれるかどうかが大きな判断基準になっていて、金銀銅はあまり気にしていなかったように思います。

こんなことを言うと、クレームが来そうですが、以前の私は本当にそう思っていました。友達とよく”過激派”と言ったものです。

吹奏楽コンクールは悪なのか

演奏会では、多くの曲を経験することで、レパートリーや、表現の幅を広げることができると思います。それに、いろいろなジャンルの曲を演奏して楽しむ方が、大学のサークルとしては性に合っているのかもしれません。そういった立場から見れば、課題曲と自由曲だけを長期間練習する吹奏楽コンクールは、あまりいい印象を持たないのだと思われます。

また、吹奏楽コンクールが盛んな日本では、技術一辺倒な音楽…いや、「音楽みたいな何か」をする姿勢が批判されます。楽譜を忠実に再現することだけに必死になり、奏者の意思が感じ取れない演奏は、聴く側も演奏する側もつまらないでしょう。

では、吹奏楽コンクール=悪 なのかというと、決してそうだとは思いません。それは取り組む姿勢の問題であり、吹奏楽コンクール自体に問題があるとみなすのは、とんだお門違いです。

痛い音

具体的にえば、そもそも賞や代表選出など、目に見える結果を目標にすることが誤りなのかもしれません。本当に率直な自分の気持ちを述べれば、少しでも上を目指したい気はありますが、それは楽団全体の目標にすべきではありません。

中学校の時の吹奏楽部の顧問がこんなことを言っていました。
「『金賞取りたい』『地区代表に選ばれたい』その気持ちは大事だけど、舞台上でそれを思うと、痛い音になってしまう。だから、演奏中はいい音楽を創ることだけに専念すること」
なので、コンクールが批判される際に主張される「音楽は戦うためのものではない」は、確かに正しいです。しかし、それはコンクール自体がダメな理由にはなりません。繰り返しになりますが、取り組む姿勢の問題なのです。

本気で、楽しむ

私は、「時間をかけて、たった一つ(大編成なら二つ)の曲に向き合う」ということこそが、吹奏楽コンクールの醍醐味ではないかと、今では考えています。

コンクール曲を選ぶ際に、みんながコンクールに対してどう思っているのか、パート単位で意思確認をしてもらう機会がありました。「本気で取り組むこと」と「楽しくやること」の二択しかないような雰囲気があり、そのどちらをとるか、が問題になっていた気がします。これは私の楽団だけではなく、多くの吹奏楽部が直面する課題ではないでしょうか?

しかし、私は必ずしもどちらか一方ではないと思います。

コンクールでは、数少ない曲を深掘りする面白さがあり、それは、多くの曲を仕上げなければならない演奏会では絶対に経験できない貴重なものです。また、「少ない曲を極める」と言うと、厳しい練習に耐えるようなイメージがありがちですが、決してそうではないと思います。指揮者の独裁体制を築くのではなく、奏者の意見もどんどん取り入れて、「バンド全員による音楽創り」をすることによって、奏者もより充実感を味わうことができるのではないでしょうか?

さらに、特定の曲と長期間向き合うと、いろいろなことが分かってきます。指揮者になってからというもの、自分の担当する曲のスコアは何度も見返し、分析するようになりました。しかし、見るたびに新たな発見や疑問が出てきて、曲の分析が終わることはありません。そんな、スコアとにらめっこしながら曲を分析するワクワク感を、楽団のメンバーにも味わってほしいという願いもあります。


私は、コンクールに出たいと考えています。コンクール曲を仕上げる過程をもって、私の所属する楽団の音楽はもっといいものになると思います。

この記事が参加している募集

部活の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?