見出し画像

ここはもう、私の知っている場所ではない。

多分、私はアメリカには戻れない、ここ一年は。

でも同じ中西部で生活をしていた人間として、この瞬間に立ち会えなかったことが少し悔しいと思える事件が今、起きている。

数日前、アメリカのミネソタ州の州都、ミネアポリスで黒人が白人とアジア人の4人の警察官に道路上で殺害された。その事件がきっかけで、また人種主義へのデモがアメリカ各地で広がっている。

そりゃ、日本から発信できることももちろんあるのだけれど、現地にいるからこそ感じられる熱量は半端なくて。

アメリカの大学生って世の中の出来事にとても敏感で、すぐディスカッションが始まって、それ日本では早々起こらないから、少し恋しいのかもしれない。それに、アメリカの人も人種差別のこととかは、大きなきっかけがないと、口を開かない人がいるから、今、大学が普通に開いていたら、どんな議論が繰り広げられたのだろう、と、たらればが止まらないのだ。

最初に事件映像を見たときは、また悲しい事件が起こってしまった、くらいで終わったんだけど、よくよく考えてみたら、今のミネアポリスは私の知っているミネアポリスじゃないと気付いてしまってから、現実味を帯びていなくて、怖くなって、この話題に触れることを避けていた気がする。

画像4

(これ、遊園地じゃなくて、ショッピングモール内です!Mall of Americaという日本の越谷レイクタウン並みに広いモール。娯楽だったら全て詰めしまうのがアメリカらしいよね。笑)


でも珍しく(?)、インスタで繋がっている友達みんなが意見していたから、重い口を開いてみた。

あの都市には、私の従姉妹とその家族が住んでいる。(ハーフだから、みんなアメリカ人) とってもピースフルな街でね、都市っていう言葉が良い意味で似合わないくらい、のどかで悠々とした時間が過ごせる場所なんだよ。

画像3

(ミネアポリスといえばガチョウと池!なので写真に見える黒いものは全部ガチョウ!かなりキモかったけど仲良く密している彼らが今じゃ羨ましかったり。)


ミネアポリスには、二度訪れたことがある。

一回目は、大学見学をするために。その際に案内役の人に言われたことを今でも覚えている、「ミネアポリスは人がいいから、事件も滅多に起こらないし、とっても安全よ」と。

画像1

        (これは私のおじさん、彼も中西部の大学出身)


二回目は、去年の冬。小学校時代からの同級生が州立大学に通っていたから、感動の再会をしに。その時にできた友達だっている。冬はアメリカで1、2を競うくらい寒いけど、みんな温かい心を持っていて、優しく出迎えてくれた。

画像2

           (友達の友達は私のトモダチっ!)


あんな暴力的な行動をとる人がいるとは思えない、教養のある人住む、格式の高い場所だと私には見えた。

だからこそ、がっかりというか、表面化する差別がなくなるにはまだまだ先の話なのかなあって。

こんな時にいうのもなんだけど、私は差別は一生なくならないと思う。だって人間、人と背比べするのが大好きだから、人と競い始めたら歯止めが効かなくなって、いつの間にか差別の一種に当たることことを大小に関わらず、してしまうと思っているから。

きっと、世の中では潜在的意識とでも言うのだろうか。

だからと言って、差別を肯定かしてるわけじゃなくて、それを表に出してしまうか、心に留めておけるかの違いが人間としてできているかできていないかの判断材料になると私は思うの。

表に出してしまったら、それは人間としてあるまじき行為だけど、心に留めておいたら、他の人間には分からないから、人も傷付けず、自分も非難の対象にされず、誰も不幸にはならない。

だから、

「差別を無くそう!」ってデモ活動をするよりも、

「教養のある人間になりたくないですか、皆さんっ!」って声かけした方がよっぽど説得力があると思うんだけどな。

暴力的な行為に対して、暴力的な言葉で返すのではなく、感情に左右されない法で裁き、残された人々は、自分達の中にもそのような行動を取ってしまう怪物が心の底に潜んでいることを認知しつつ、一つ一つの行動に責任を持って欲しいなと思う私でした。

ジョージ・フロイドさんのご冥福をお祈りしています。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?