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【覚書】七七日

七七日、と書いて「なななのか」。
実際にはまだ七七日経っていないが、先日、父の七七日法要を終えた。
「四十九日」と言うやつ。
父は特別信心深くもなく、ていうか寧ろ無信心な人だったので、
こういった法要をやってる我々を天でどう思っているか分からないが、
田舎というものは、お付き合いというものもあるので、
残された母にとっては「やらないわけにもいかない」とのことで、
四十九日法要、と三七日を行うことに。

先日、みとんさんの記事で拝見して観た映画「神と共に」にもあった通り、
仏教では、人は死んでから七日ごとに裁きを受けるらしい。


だから、七日ごとに法要を行なってください、とのこと。
初七日もそれに当たる。
最近は初七日は葬儀と同じ日に執り行うのが一般的になったそうな。
義母の時は、初七日の次は四十九日だった。
お寺によりけりだそうだが、
祖父母の時からお世話になってるお寺は
「三七日、五七日、七七日が特に大事なので、そこはよくよく拝むように
してください」
とのことだった。
信心深くない私は、「え、その時々全てにお坊さんに来てもらって、
塔婆料、お車料、お布施って払うの…?」なんて思ってしまう。
結局四十九日がお寺の都合で早まったため、五七日は合わせてということで
三七日だけお願いすることに…。

それをお願いするかどうかを考えているときに、上記の映画を見たものだから、
「なるほどね、この裁きを受けてる手助けになるのかな、ふむふむ。」なんて
考える単純な私。

四十九日法要の日は少し寒さも和らいで、よく晴れた日となった。
「お父さん、今頃どんな裁きを受けてるのかしら?」と一人考える。
考えながら、前に座られたご住職の背中を見ると、
袈裟に所々虫食いのような穴がある。
よく見ると焦げ跡のようだ。
まさか、今蝋燭の火で燃えたのか!と驚いて母の方を見ると、
前を向け、とたしなめられる。
後で聞くと、昔から空いてるらしい。
兄からは「あれも味やと思っておけ」と言われる。
なるほど、味か…。
物静かな優しいご住職で
「作法がわかりませんで…」と母がお供えを供えながら言い訳を述べると、
「いえいえ、いいんですよ。そんなこと」とにこやかに応対してくださる。
うん、確かに味だな。

葬儀からこっち、色々と何をしていいものやらわからずに右往左往していると、
母が「私の時はもう海に撒いてくれていいから」などと縁起でもないことを言う。
が、しかしいざそうなれば、そういうわけにもいかないだろうよ、と
話す私たち。
父は確かに信心深くなくて、
こういった法要ごとを好まない人だったが、
こういう儀式というのは、遺されたものの心を少しずつ軽くするものなんだなあと
今回改めて思った。
枕経、お通夜、お葬式、初七日、四十九日までのお仏壇へのお供え、
七日ごとの法要、そういったあれこれが少しずつ遺された者の心を癒してくれる。

四十九日まで祭壇にお膳を供えるのだが、
義母の時も初めはかなりプレッシャーだったのだけれど、
だんだん、我々の作るご飯から分ければいっかなという考えになってくる。
そうなると、ご飯、汁物、えっとじゃあ今日はハンバーグとサラダ…なんてことに
なってくる。
本来は「ご飯、汁物、香の物、煮炊きしたもの」てな感じで、
お肉はタブーなのだが、
お父さん、お肉好きだったし、なんてことになる。
信心深い人からしたら「あり得ねー」なことなんでしょうが、
「お父さん、これ好きだったよね」や
逆に「お父さん、これ、嫌いやったけど頑張って食べてもらお」なんて
会話を日常的にしていると
そこにいない人の痕跡を「在る」ようにしながら、
少しずつ少しずつ、「いない」ことに慣れていく作業のようにも思う。

父の体が「在る」時は、離れ難くて離れ難くて、
その体を「失くして」しまったら、本当に「別れ」のような気がして、
何度もその顔に触れたが、ただただ冷たいその顔に余計に悲しくなった。
儀式をただ機械的に済ませていき、
火葬場でお骨になった父を見たとき、
虚しさのようなものと共に
心が少し軽くなった。
そして、お骨と共にこの四十九日までの日々を
実家と家とを行き来しながら、雑務をこなし
父が「居る」かのように過ごし、
けれども「いない」ことを自覚し、
それを繰り返し、
四十九日を迎えて
お墓の中へ、そのお骨を布に包み入れる、という様子を見ると、
やはり、また心の重荷をが一つ軽くなったように感じた。
父が、そこへ入る。
墓石のつくりは、それぞれ違うのかもしれないが、
義母の時にも思ったが、お骨を入れる場所は案外簡単に
開け閉めができ、大きな墓石を「よいしょ」と数人がかりで動かす訳ではない。
家の名前の書いてある墓石の前にある小さめの石を前に「コトン」と倒すと
中に空洞がある。
そこに、祖父母のものと思われる布も一緒に入っているのが見えた。
お寺によっては骨壷ごと入れるところもあるそうだが、
祖父母も父も布に包まれてそこに入った。

あ、なんだ、ここにいる。

みたいな感覚だった。

信心深くない私だけれど、
一つ一つの儀式に意味があるんだなあと、しみじみ感じ入った。

ところで、私は「四十九日」という呼び方よりも
「七七日」という言い方が好きだ。
「四十九日」が一般的で正式名称なのかもしれないけれど、
「なななのか」って、なんか言いにくいし
「ななな」って言ってることになんだかおかしみが湧いてくる。
「七日」ごとに考えていることがダイレクトに伝わってくるからだろうか。
「なななのか」。
いや、響きが好きなだけかな。




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