俺なりのPerfect Daysを
先日、少し年上の友人女性ととある喫茶店で対話をしていた。
対話のテーマは淋しさや孤独だった。
淋しさや孤独を感じるタイミングであったり、その感じ方の深さは人それぞれだ。
人によっては全く平気なことが、とある人にとっては耐えがたいほどに辛い…そういうことはままある。
誰かにいてほしい。
温もりがほしい。
どうにもやりきれない。
優しくしてほしい。
そんな感情が湧いてくるのは、俺みたいな独身で個人事業主という極めて社会性の低い立場の人間だけではないだろう。
家族を持っていようが、たくさんの仕事仲間に囲まれていようが、人によっては辛くて耐えがたいシチュエーションというものはある。
様々な対話をしている中で彼女がこんな発言をした。
「優しくされたいという感情は持っていていいと思うの。でも『淋しい』という感情とくっつけなくてもいいんじゃないかな、『淋しい』という感情を手放してしまえば、『優しくされたい』という感情だけが残って『優しさ』を素直に受け取れると思うの」
「じゃあ、どうやって淋しさは克服するの?」
「うふふ。それは大変よ。深く自分を掘り下げるしかないから、とてもしんどい作業よ。でも私は時間をかけて向き合って、『淋しさ』は手放せたかな。でもいつだって優しくしてほしいわ。優しくされたら嬉しいもの」
なるほど。
そういうものか。
この対話には生き方に対する大きなヒントがある気がする。
誰かの答えがほしい時代
今の時代というのは大きな変化が訪れている時代なのだと思う。
日本はおそらくこのままどんどんと経済的には鈍していくだろう。
公務員ですら安定とは程遠くなってきた。
windows95の登場によって始まったらインターネット革命から早25年。
それ以前の先輩方の働き方やキャリアの積み方がなんの参考にもならなくなった。
親や学校の先生や職場の上司の言うことが正しいとは限らなくなった。
自分も言われた通りにしていたら先人達と同じような豊かな暮らしができる…可能性はかなり低くなった。
自分の人生を自分で定義づけていかなければならない時代になったのだ。
知識も経験もないまま社会に出た途端に
『自分で考えろ』
と言われて、自分で答えを出せる若者の方が少数派には間違いない。
そんな中、みんな誰かからの『正解』や『答え』がほしい。
だから本を読んだりすることは、自分をじっくりと富ませるための有意義な時間ではなく、手っ取り早く自分の不安をなくすための『答え合わせ』のようになってるな…と、ここ10年ほど感じ続けてきた。
なんでもネット検索で『答え』の出る時代。
すぐに『答え』を求める教養を『ファスト教養』というらしい。
個人的にはとても愚かな事だとおもうのだが、それも時代の要請なんだろうな、そういうモノなんだろう。
映画『Perfect Days』を観てきた
20代前半の頃、本当によく映画を観た。
その中でもヴィムベンタースの作品はいくつも観た。
映像詩人と呼ばれるように、本当に瑞々しい映像で物語を綴る素晴らしい映画監督だと思う。
そのヴィムベンタースの最新作であり、日本の俳優である役所広司が主演を務め、舞台も日本である。
映画の中で役所広司演ずる主人公の平山は多くを語らない。
語らないどころかほとんどセリフがない。
静かな眼差しを世界に向けながら、時に微笑み、時に悲しみ、時に動揺し、時に幸せを感じる心の世界を淡々とした日常を切り取りながら表現していく。
具体的に語られない平山の過去が、深い悲しみや心の傷に満ちていることは観客には伝わってくる。
その結果、ほとんど人と話さないような静かな生活を選んでいるのかも知れない。
しかしそんな平山の生活が不幸かと問われると、そうには見えない。
平山は淡々とした生活の中で、木々を愛し、写真を愛し、音楽を愛し、読書を愛し、生活を愛していることが伝わってくる。
ひとりの人間が生きていくために必要な物が平山の周りには全て揃っている。
映画の途中で平山の通う飲み屋の女主人がらこうこぼす。
「どうしていつまでも同じでいられないんでしょうね」
映画のラストの方で平山はこう語る。
「変わらないものがないなんてそんな馬鹿げた話があるはずがない!」
(記憶違いがあったらごめんなさい)
どんな過去があるにせよ、過去があって今があり、静かな生活の中でまた変化が起きていく。
それを抱きしめるようにして生きていく平山。
平山は『淋しさ』や『孤独』をどう捉えてきたのだろうか?
どう自分の中で感情を発酵させて、映画で描かれる静かな生活を築き上げたのだろうか?
どうすれば平山のように目に映る『今』を愛して抱きしめて生きていけるのだろうか?
誰もが誰かの『答え』を求めるこんな時代だからこそ、『答え』は自分で見つけなければならないのではないだろうか?
今度は今度、今は今
なんのために生きているのだろう?
人はみな、一度は考えたことがあるのではないだろうか?
今現在48歳になろうとしている俺はこう思う。
「生きていることに意味なんてない」
今をただただ生きている。
変化をし続ける毎日の中で、自分の愛するものを見つけて抱きしめて生きていければ、それだけで充分だと思う。
意味を無理やり見つける必要なんてない。
でもそう思えるには時間がかかった。
やっとそう思えるようになって、少しだけ心が軽くなった。
俺にとって唯一の趣味といえば、奇しくも平山と同じ『読書』だと思う。
時々本を読んでいる場面を知人に見られた時にこんなことを言われることがある。
「月に何冊読みますか?」
なぜ読んだ本の数を数える必要があるのだろう?
シェイクスピアの『マクベス』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を単純に同じ一冊として数えることに意味があるだろうか?
ひとつの分野を知りたくて何冊も何冊も読み込んだとして、読んだ冊数が理解を示す目安になるだろうか?
行間がたっぷりと空いていて、似たようなことばかり書いてある自己啓発本を何冊も読んでいる人は、いつになったら自己啓発を終えるのだろうか?
読書は読んでいるその瞬間こそが、愛おしい。
そして最後のページを読み終えて本を閉じた後の余韻こそが、ご褒美でもある。
「何冊読みますか?」
と聞いてくる人に感じる違和感は『誰かの答えがすぐほしい』人達に感じる違和感に似ている気がする。
そんな人達こそぜひ『Perfect Days』を見てほしい。
そして大袈裟な『成功』や『人生の勝ち負け』ではない愛おしい自分だけの毎日を抱きしめてほしい。
そして、俺も少しだけ『淋しさ』を手放して、『優しくされたい』と素直に希求できそうな気がする。
そして、もっと『優しくなりたい』とも思う。
ここまでの人生でたくさんの人を傷つけてきた。
たくさんの人を失望させただろうし、困らせただろう。
中には二度と俺とは会いたくないと思っている人もいるだろう。
それは仕方のないことだが、みんなに
「あの時はごめんね」
でも
「ずっと君のことを大切に思ってるよ」
と心の中で唱えながら生きていきたい。
明日、ほんの少しだけ俺も優しくなっていたいな。
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