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油屋本陣跡 ~維新の先駆け「天誅組」が休憩した河内長野三日市にある宿場跡~

 昨日紹介した三日市の宿場町の街並み。この中には別途紹介する価値のあるスポットがいくつかあります。今回はその中のひとつを紹介。幕末に維新の先駆けとして登場した天誅組が休憩したという油屋本陣の跡です。

 江戸の幕末。1853年にペリーが黒船で来航してから、それまで200年近くの鎖国状態から開国となると、それを脅威と考える人が現れます。
 それによってできた思想が尊王攘夷。外国人たちをを排除して、天皇を中心とした国にしようと若者たちが立ち上がっていきます。

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 外国船の攻撃に消極的な幕府に対して怒りが強く、攘夷倒幕の兵を挙げるという計画が起きました。1863年天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられます。
 その中で皇軍御先鋒を組織したグループが、船で堺に来てから河内長野を経由。山を登って奈良県の五條に向かい、そこで幕府の代官所を襲撃することを計画しました。それが天誅組です。

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 五条代官所を襲撃する直前に、三日市宿にあった油屋に立ち寄ったという記録があって、その史跡が石碑と説明版として残っていました。現在周りは普通の住居しかなく、この石碑がないとまず気づかないでしょう。

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 墓石のようなものに青色で説明がありますが、非常に見えにくいのが難点。(せめて黒で説明文を書いてくれれば見えやすかったかも)
ということで下記に全文引用します。

天誅組と三日市油屋
文久三年(1863)八月十七日未明、三日市宿にときならぬ太鼓や鐘が鳴り響いた。公家、中山忠光を盟主とする尊王攘夷派の志士の一行が、天皇の大和行幸を契機として倒幕の兵を挙げる大和五條に向かうため、油屋に到着したのである。彼らはここで休憩し、この間に態勢を整えた。当時、当主の油屋庄兵衛は、三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、彼らの世話をしたと語り伝えられている。
 京から大和五條へは、奈良道を南下するのが平坦であり、近道にもかかわらず、なぜ京~大坂~堺~富田林~長野そして金剛山越えという難所を選んだのであろうか。それは、中山忠光が尊敬してやまぬ楠木正成の首塚がある観心寺で、尊王倒幕の旗揚げを行うためであった。
 早朝、一行は観心寺に向かい「楠公首塚」の前で決起した。その後、千早峠を越え、夕刻、五條代官所を襲撃し「五條新政府」の名乗りを上げた。
 しかし京では「八月十八日の政変」により、彼らを支援していた長州藩や公家の三条実美等が失脚し、天皇の行幸は中止となり、彼等は目的を失い転戦するも、幕府軍に追撃鎮圧されてしまう。
 この事件が「維新の先駆け 天誅組」である。
 天誅組には、河内長野市域から参加した人達のほかに、庄兵衛のように後方支援に立ち回った人がいたことが知られている。
時代が、明治へと大きく動く五年前のことである。
 河内長野ロータリークラブ創立五十周年を記念して、ここに碑を建立する。
 平成二十二年十月吉日

 ようするに少し先走ったような感じでしょうか? また明治維新の五年前の事件というのも早すぎたよう気がしました。

天誅組油屋

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