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西高野街道を歩く③ ~関茶屋から狭山池まで~

昨日のこちらの記事の続きになります。

こちらの記事が総集編のようになっており、その第三弾。

堺市東区にある関茶屋エリアから大阪狭山市に入り、狭山池までとなります。

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前回の関茶屋周辺から今回はスタート。

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阪和自動車道の効果を抜けていき、さらに南に。

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新しい建物も増えていますが、地蔵堂だけは健在。

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こちらは堂がなく裸のままですがひときわ大きかったです。

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ちなみにこの辺りは、(中茶屋と呼ばれている当たり。

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西高野街道と銘打ったお店があります。

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見たところイタリア国旗が掲げられており、イタリアレストランのようです。

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さらに直進すると道が分かれています。

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非常に読みにくいのですが、右側は高野方面で左は瀧谷方面。ということで右の道を進みます。

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すると寺院がありました。

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境内にいた立体的な地蔵菩薩。

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氏家記念財団とあります。これはいったい?

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その説明について書かれていました。引用しましょう。

福田と氏家(うじいえ)家の由来
福田の地名は、福島屋次郎兵衛が開発した新田というところから、福田と名付けられたと伝えられています。福田屋というのは屋号で、次郎兵衛の本名は氏家次郎兵衛丞武俊(うじいえじろうべえのじょうたけとし)といいます。
次郎兵衛は、大坂で材木商を営んでいた江戸時代初期の豪商で、陶器藩の二代藩主小出有棟の叔母の夫にあたる人です。有棟は、新田開発に力を入れた人で、生保元年(一六四四)に福島屋次郎兵衛にこの地の開発を命じました。
有棟の外戚に当たる次郎兵衛は、大坂の家屋敷を売り払ってこの地に移住し、近在の百姓を招集して九十町あまりの新田を開発しました、有藤(棟?)は大変喜んで、次朗(郎?)兵衛の宅におもむき『一霞ひらきやえたり福田村』と一句を読み、『福田村』とこの地を名付けてその労をねぎらいました。次郎兵衛の努力によって生まれた福田村は、その後、陶器藩小出氏の領地となりましたが、大金を出して開発を請け負った次郎兵衛の意気込みと功績に感謝し、二代目藩主は、次郎兵衛に福田村頭領として『頭領物成』の取り分を認めました。
当財団は、次郎兵衛から十二代目にあたる当主亡き後も、由緒あるこの土地を残すために設立されました。

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歴史散歩道の掲示板もう少し堺市が続きます。

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地蔵を見ながらこの辺りから少し坂が上がり始めました。

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坂を上っていき古い町並みを見ながら先に進んでいくと

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対に大阪狭山市に入ったようです。


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比企津圖司地蔵堂が続いています。

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こちらは4体の地蔵が祀られており

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この剣先地蔵堂は2体。

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そのあとあった、こちらの地蔵堂にも2体安置されていました。さて、ここからいったん西高野街道を離れます。

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ここには地蔵ではなく、狸が置かれていました。

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狭山池方向には山が見え、視界が広がってきました。

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池の横を通り過ぎ坂を下っていきます。

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こうしてようやく狭山池に来ました。

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この大きな鳥居は龍神社のもの。

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地位なさ龍神社の祠。

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そして祠の目の前には大きな龍神淵が見えていました。ここでいったん終了。この続きは明日以降です。


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