狭山池 ~日本最古のダムと開放的な空間~
河内長野市の北側にある大阪狭山市。この名前の由来が狭山池です。そしてこの池が1400年以上前の日本最古のダム(人工池)と言われていて、その歴史を調べると相当古いことがわかります。
先日狭山池に行く機会がありました。南河内に引っ越してから非常に気になっていた池です。
狭山池の記録は日本書記の10代崇神天皇や古事記の11代垂仁天皇で登場するくらい古く、東側の石川から離れていた地域は、灌漑で苦労していたのでため池を用意したとありました。
以下引用です。
農は天下の大本なり。…今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ
日本書記 崇神天皇62年7月2日の条
印色入日子命(編者注;垂仁天皇の皇子)、血沼池又狭山池を作る
古事記 垂仁天皇の段
狭山池公園に入ってすぐに石碑がありました。
大和朝廷が西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点のあたりをせき止めて作ったそうです。江戸時代には80の村で55000石の規模の田畑を灌漑していました。
池の前に来ました。本央に非常に開放的な空間が広がっています。池というより湖と言ってもよさそうですね。
これは拡大して撮影したもの。狭山池もこの時期は水量が少ないようで、半分くらい干上がっていました。
7世紀と16世紀以降と推定されている数百年間の地層から珪藻の化石がでてきたそうです。
調べていると色々な情報が出てきました。
珪藻の化石は大阪湾からの津波で来たとか、水田ではない稲作が行われていた可能性とかプラント・オパールが残っているとかいろいろあるようです。
このときには行けなかったのですが、近くに大阪府立狭山池博物館(おおさかふりつさやまいけはくぶつかん)があるので、改めてそこに行って調べてみたいですね。
かつて池を改修した人も歴史上の人物が登場し、奈良の大仏の造営の責任者だった行基とか源平争乱で焼失した東大寺の復興をした重源とか、豊臣秀頼の命令で行った片桐勝元といった名前が出てきます。
池の周りは土手になっていて、ウォーキングをする人や走っている人の姿を見ました。狭山池は現在、狭山池土地改良区が維持管理しているそうです。
また狭山池は、西除川と三津屋川の水が池の中に入り、その水の出口は西除川と東除川になっているとか。このうち西除川は天野川という名前でも呼ばれ、河内長野北部を源流(石川とは別系統)として流れています。
普段近くで見かける池よりもはるかに大きく、普段とは違った魅力。ただ周辺に山がないためか、緑が少なめに感じたのがちょっと残念かなという気がしました。
ちなみにこちらの通知が来ていました。いつもありがとうございます。
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