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西代藩陣屋跡 ~江戸中期の短期間に河内長野に存在した藩の足跡~

 先日紹介した西代神社の続きのエピソードです。この地域は江戸時代の中期の一時期に西代藩が存在しました。1万石の小大名であった本多家が入ります。そして城ではなく陣屋がおかれていました。

 ちなみに陣屋とは3万石以下の大名で、城を持っていないものが使う屋敷のことです。

西代神社についてはこちらを参照。

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 西代藩の陣屋は現在の長野小学校になっています。小学校の敷地内に鳥居がありますが、これはおそらく隣接する西代神社と関係があるのでしょう。

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 そして小学校の正門です。陣屋の建物などは一切残っていません。しかしここにあったという足跡だけが残っています。

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 こちらがその名残。とりあえず小学校の正門を陣屋風にしたことで、過去の史跡があったことがわかります。

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 こちらが正門の全体。上の屋根が陣屋門を意識しています。残念ながらこれ以外には明確な情報や名残はありません。

 西代藩自体は、近江国膳所藩第2代藩主・本多康将(ほんだやすまさ)
の次男・本多忠恒(ほんだただがき)が、父の死後に1万石が分地。1679年に成立しました。そしてその子である本多忠統(ほんだただむね)が、1711年に陣屋を構えます。

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 こちらは小学校前にあるお店。しかし忠統は伊勢国神戸藩に転封され、西代藩は2代で廃藩。陣屋は21年間使用されました。
(その後、西代神社で神楽が奉納されるようになったとか)

 ちなみに忠統は、徳川綱吉の小姓からスタートし、陣屋を定めてから出世します。大番頭、寺社奉行兼奏者番を経て若年寄になりました。徳川吉宗を支えた忠統は、神戸藩には1万5000石で入り、存在していた城を修築しています。そして子孫が7代そこで住みました。

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 こちらは隣にある河内長野市武道館。旧長野町尋常高等小学校講堂で、1927年に建築されたもの。国の登録有形文化財です。

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 武道館の隣にあった石碑「田中徳之助先生之碑」とあります。この田中徳之助がどういう人かは確認できませんでした。

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 そして西代神社の入り口があります。


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