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河内長野・三日市 ~高野参詣の宿場町だった名残~

 河内長野の中心、河内長野駅は、現在南海電車と近鉄電車のふたつの私鉄が合流するターミナル駅。しかし昔は東高野街道と西高野街道が合流してひとつの高野街道となる接続点でした。

 その高野街道は、高野山目指して南に道が続き、途中、天野酒や烏帽子形山を通ってさらに南下。やがて山の中で和歌山との県境に至りますが、その山に登る手前にあるのが三日市(みっかいち)です。

 そして先日、三日市に行く機会がありました。住んでいる所からは少し距離がありますが、徒歩でも行けるレベルの場所にあります。そして高野街道沿いに歩いてみました。

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 駅でいえば河内長野駅の次の駅が三日市町駅です。ここから河内長野駅方面に高野街道が整備。歴史を感じながら散歩するのにはちょうど良いのです。

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 三日市町駅前から少し歩くといきなり石碑がありました。楠公通学路橋とあります。そしてその横にある説明版に由来や意味が書いてありました。この高野街道にはこういう説明版がいろんなところに存在。それをシッカリ眺めて見ると、意味が解って興味がそそります。

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 楠木多聞丸という楠木正成が幼いときのエピソードで、勉学に励んで軍法を学ぶ際に渡った橋とのこと。

 楠木正成は河内長野や千早赤阪村あたりを拠点にしていましたが、鎌倉幕府の最期やその後の南北朝の時代に活躍する武将。このころはこの地域が日本の歴史で重要だったことがわかります。

 ちなみに加賀田というのはちょうどこの三日市駅から南西の方角。現在の南花台、青葉台という住宅地に挟まれたところにあります。

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 また三日市は、高野街道を通行する人のための宿場町(三日市宿)があったところ。今でもこういう古い建物が残っています。その中でもこちらは登録有形文化財の八木家住宅。

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 説明書きがありました。一部引用すると次の通り

 八木家住宅は、江戸時代に高野街道の宿場町として栄えた三日市宿にあり、かつては木綿問屋を経て、酒造が営まれ、米の露・味香一正宗が醸造され、「東家屋」という屋号が続いています。
 主屋は、木造の平屋建てで、町家の伝統的な外観を留めています。内部は、正面の入り口から北側が居室で、南側が土間となり、現在は土間の一部で床が張られています。部材の古さ、鴨居や天井の特徴から、18世紀後半に建築されたものと考えられます。 

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 こちらは土蔵。こちらも説明書きの引用でイメージを膨らませてみましょう。

 土蔵は、木造2階建て、外壁面には漆喰が塗られ、下半分に焼杉の板が貼られ、窓には銅板の扉が各階に設けられています。建築年代は不明ですが、造りなどから、19世紀後半に建築されたと考えられます。

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 先日紹介した富田林市の寺内町と比べると古い建物はところどころになっています。それでもよく見ると昔の宿場町だった名残が感じられる気がしました。

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 電信柱が邪魔しなければと思いつつ、古くて趣ある建物を撮影していきます。

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 この角も雰囲気がありますね。さて、三日市町はこのほかにもいろんな気になるスポットがあります。従いまして今日は概要程度の紹介。シリーズとして数回に分けて紹介していきます。

三日市町

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