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クリスチャンマークレー、ユージーンスタジオ、それを壊しに来た無礼者

 今日はクリスチャンマークレーの展示とユージーンスタジオの展示を東京都現代美術館に見に行った。
 どちらの展示もとても素晴らしい展示だった。マークレーの作品は、レコードについて深く追求し、レコードを切り、張り合わせてコラージュすることで新しい音楽の作り方を試したり、レコード自体を叩く割るなどして音を奏でたり、レコードを裸の状態で流通し、その過程でついた傷を作品にしたりなどレコードならではの表現をしていた。また、マンガ、コミックのオノマトペを利用することでグラフィティの楽譜を作ったり、漫画の一部を切り取りコラージュして漫画表現をアートに翻訳する様子などは近代的であり、伝わりやすくとても面白い。中でも私が気に入ったのは「アクションズ」という作品たち。画材を叩きつけたり弾いたりしたキャンバスの上に、その行った動作のオノマトペを上から表現に適応するようにシルクスクリーンで刷ることで、原因と結果が反転し、視覚と聴覚が切り替わっていく様子や、制作過程が見えてくるこの作品たちは知的で趣深い。



 ユージーン・スタジオの展示「新しい海」もまさに現代アートの考え方がそこにはあってとても惹かれた。部屋一面に水を敷き、四方向全ての壁が鏡になっていて、合わせ鏡で無限に水が広がっている様子はまるで海の水平線を彷彿させる。一見真っ白に見えるキャンバスも、実はある家族が接吻したキャンバスであったり、大きなキャンバスは世界の様々な都市で何十、何百の人々が接吻したものであった。それは絵画は実際ただ絵の具を塗りつけた痕跡に過ぎないとこ、その痕跡をつける過程を思い浮かべる楽しさがアートである、その根源を追求しているように感じた。その真っ白なキャンバスを見て、誰がここに接吻を行ったのか、こんな大きなキャンバスでは小さい子供は下の方にしたのかな、真ん中の方がする人が多いのかな、なんて妄想を膨らませた。また、この痕跡がアートであるなら、世界にあるもの全て、家の壁、ビルの階段の手すり、スクランブル交差点のコンクリート、何を持ってきてもそこには痕跡が詰まっていて、たくさんの妄想を膨らませることができる。アートになる。そんなことも思ったりした。他にも、多角形の角柱を展開することで、元々は影と光の色面であったものがグラデーションに変わったり、新しいゲームの構想など一つ思考を曲げた考え方は私をゾクゾクさせた。真っ白のキャンバスも同じだが、サイコロを複数個投げ、出た目をそのまま展示したり、破壊されたり、燃やされたりして灰だらけになった廃墟のその瞬間を大きなショーケースに閉じ込めた作品など、その瞬間を大事に閉じ込めた作品たちは、どこか郷愁や哀愁を感じさせられる。


 そんな素晴らしい展示を見に行ったのだが、納得いかなかったことが一つ。客の態度。カップルや友人同士で来ている学生などが多かった。これは一人で見に行った私の嫉妬などではない。事実、私は一人で見るのが好きで一人で行っているのだから。友達はもちろんいる。そう沢山。そんなことはどうでもよくて、私が文句を言いたいのは彼らの態度。女子大学生と思われる二人が作品に囲まれている中、その中央で自撮りをし始めた。「こんな感じでいい?」なんて言いながら。そこに作品は映っているのだろうか。また、作品の前に立ち、自撮りをする人、他人にとってもらう人もいた。作品は作者そのもの。そんな粗末に撮るものだろうか。先述した合わせ鏡の作品では、自分の体全身が鏡に映っていることに興奮しその鏡にカメラを向けている光景もあった。どういうことだろうか。作品を自分を撮るための小道具として扱っているようで憤りを覚えた。しまいにはキャプションを読み「何これ、意味わかんない」とはっきりと申し訳なさもなく周りに聞こえるように話し始める。凛とした空間に繊細に展示された作品たち。どれも胸を刺す、関心を覚える、時には解釈が複雑なものもあるが、それを読み解く時間が有意義な時間。分からないからとすぐにそれを放棄して、そこら辺の客寄せのためのフォトスポットと同じ格に下げる。作品に対して無礼であるし、繊細な緊張感のもと構成された展示を打ち壊している。こんなに作品へ敬意を込めていない客が多い展示は初めてだった。

自分の可愛さを見たいだけならば、家で鏡でも見ていれば良いのに。


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