小説という虚構にこそ、真実があったりするんじゃないかな。


所詮、小説はフィクションだから。

そう言われたぼくは、率直にむっとした。自分の好きなものをバカにされた気がしたからだ。大切にしていたおもちゃをゴミ箱に投げ込まれた。そんな気持ちにさせられたからだ。

確かに、小説の多くはフィクションだ。家に帰るとガネーシャと名乗る神がいて、どうしようもない自分を救ってくれた。そんな新事実が新聞の一面に踊ったことは今日まで一度もないだろう。

一目惚れした相手が、実は自分の世界とは異なるひとだった。それどころか、自分の生きる世界と相手の生きる世界の時間軸は真逆で、同じように歳を重ねることすらできない。そんな「ぼくは明日、昨日の君とデートする」みたいなツイートを現実で見かけたこともない。

でも、その物語全てがまるっとフィクションだと、果たして言い切れるのだろうか。言い切って良いのだろうか。

仮に小説は全てフィクションだと言い切るなら、現実の世界は全てが真実で彩られているのだろうか。小説は所詮フィクションだからというそこの君は、今まで一度だってウソをついたことがないのだろうか。虚構の出来事をつくって事実をすり替えたことはないのだろうか。

ぼくはある。誇れることではないけれど、ぼくは今までたくさんのウソをついてきた。

熱があると言って学校をズル休みしたこと。「もうお風呂入った?」と聞かれて、めんどくさいから「入った」と母ちゃんに言ってはテレビゲームを続けたこと。当時付き合っていた彼女に、「あんた昨日女の子と遊んでたやろ?」と言われ、慌てふためいたぼくは「違う。昨日の昨日やで」と、曜日のことを言うてんとちゃうねんという最低のウソにウソを重ねたウソをついたこともあった。

これが偽りのないぼくだ。そして、多くのひとにとっても、大なり小なりそういったことがあるのではないだろうか。なかには墓場まで持っていかなければならないウソが一つや二つはある、というひともいるのではないか。

小説がフィクションであることは事実だ。でも、現実世界にだって多くのフィクションがあるだろう。であるなら、フィクションの中にも真実があると考えるほうが自然ではないだろうか。

小説は、ひとが書いたものだ。ひとが書いたものには、そのひとの体験や、その体験を経て得た哲学が含まれているもの。それは即ち、その人の現実とも言えるのではないだろうか。

フィクションの世界にだって、ノンフィクションはあるのだ。それこそ、現実世界では気づくことができない大切な事実が隠れている場合も往々にしてあるのだ。一冊の本に、一節の文章に、一言のコトバに、現実で生きるぼくたちにとって、生きることに希望をあてる大切な真実があるのだ。


そもそも、真実であれ虚構であれ、そこにひとのこころを動かす何かがあるのなら、そんなものはどちらでもいいのではないか、というのがぼくの基本的なスタンスだった。でも、今日は自分の好きなものをバカにされた気がして、少し熱くなってしまった。

そのせいで言わなくていい過去の自分までさらけ出してしまった気がするけど、まあ、あれは全てフィクションだから関係ないか。いや、半分は本当のことだっけな。いや、全部本当だったか?

真実と虚構なんてそんなもの。

所詮というなら、どちらも所詮だよ。





我に缶ビールを。