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泥棒じいさんと泥棒ばあさん。

全身黒ずくめの、まるで泥棒のような恰好をしたおじいさんとおばあさんがベンチに座っていた。

地元の河川敷。真上にあった太陽が、いつのまにか目の前の家々に隠れそうな頃。

肌寒いからか、それとも盗んできたものを誰の目に触れさせることなく見せ合っているからなのか、ふたりはぴたりとカラダをくっつけ、穏やかに流れる川と向きあうように座っていた。

あんなに仲のよさそうなふたりにも、お互いには言えない間柄の、異性の存在があったりするのだろうか。

先日「マチネの終わりに」を読んだぼくは、仲良し泥棒が座るななめ後ろのベンチで、ふとそんなことを思った。

本書に登場する人物は、ひとを惹き付ける重力マシーンのようなものがひとりひとりに備えつけられていたかのごとく個性的だったと記憶している。

作中で語られるコトバにはどれも深く考えさせられた。「ある男」も、その辺りは同じだったような気がする。

「結婚しても、大恋愛をした相手のことは忘れられない」

そんなことを問いかけられるマチネの終わりに、目のまえの泥棒老夫婦を重ねてみる。

もしかすると、泥棒じいさんには泥棒ばあさんの知らない、忘れたくても忘れられない泥棒ばあさんがいるのかもしれない。それは、泥棒ばあさんではなく、泥棒おばさんか、あるいは、泥棒ねえさんかもしれない。

泥棒じいさんの心をホントの意味で盗み出しているのは誰なのか。どんな人の手にゆだねられているのか。それは、推測こそできるが、いくら考えたところで泥棒じいさんにしか分からない…


それは、とても恐ろしいことに思えた。

結婚したのだから、お付き合いをはじめたのだから、相手は自分のことをパートナーとして一番の存在だと思ってくれている。しかし、実際はそうでないことが、現実の世界にもあるのかもしれない。

そう思うと、とても怖くなった。ちょうど、ぼくの母を同窓会に行かせたくない典型的昭和人間の父のきもちが、少し分かってしまうほどに。


しかし、だからこそ、信じることが大切なのだろう。

自分の想いとはズレがあるかもしれないけど、そんなことはどうであれ、自分がその人を大切にしたいなら、たとえ裏切られることになろうと信じる。


人間関係に、普遍的な絶対はない。そのことだけは、普遍的な絶対である。

どんなに身近なひとであろうと、自分には見えない部分が必ずあること。そして、そのひとの心や想いを、永遠にホールドするすべはないこと。

考えれば考えるほど、恐ろしく思う。

しかし、だからこそ、「信じる」ことが大切なのだ。相手の心がどうであれ、自分が大切だと思うなら、信じる。

ぼくたちが大切な人にできることなんて、相手を信じることと、自分を信じてもらえるよう、人知を尽くすことぐらいしかないのだから。


泥棒老夫婦は未だに体をくっつけている。

しかし、今ではさっきと違い、大切な人に大切だと伝えるよう、それはそれはもう、ぴたりと体を寄せ合っている。


大切な人を大切に、ぼくはできているだろうか?

一先ずケーキでも買って帰るとしよう。



我に缶ビールを。