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ゲームをあそび始める瞬間はいつか?

あそぶ前にかならず選んでいる

文春文庫から出ている『罪と罰を読まない』という対談本がある。難解なことで有名なドストエフスキーの表題作を、本好きの作家4人が意地でも読まずに語り合うコンセプトが面白い。ここから教わるのは、本は読まなくても楽しむことができるってこと。書店で平積みされている表紙を見て、裏表紙のあらすじを読んで、評判を確かめて。僕らは読む前から想像を膨らませることができる。

それと同じ楽しみが、実はゲームにもある。平成の時代、小学生だった僕らはファミコンショップに並ぶパッケージを見て、その内容にできる限りの想像を馳せていた。1本数千円〜1万円近くするゲームソフトは小学生にとって高い。欲しいソフトが全部買えたのは大富豪のおぼっちゃま君ぐらいだろう。パッケージに描かれたイラストや裏面のわずかな説明文から、クラスメイトの評判から、時にはファミ通やVジャンプのレビューから。そのゲームを遊ぶ未来の自分の姿をイメージしながら、勇気を出して「ここぞの1本」を選ぶ必要があった。それでも失敗してクソゲーを摑まされることは多々あったけれど。

任天堂のゲームソフト『ポケットモンスター』は、初代の『赤/緑』をはじめ、『金/銀』『ルビー/サファイア』など、毎回異なる2つのバージョンが存在するソフトだ。すなわち購入する段階で、どちらかを「選ぶ」行為が生じるゲームだともいえる。ポケモンの革新性といえば、モンスターを集めて図鑑を完成させる冒険の目的や、通信ケーブルの使い方ばかりが語られがちだが、この二本同時発売、というか二者択一システムを採用したことも忘れてはならない。

発売当時のポスターでもちゃんと訴求されていた


コンバトラーが廃棄されるべき理由

選ぶということは、すごく「ゲームらしい」行為だ。近年のゲームは行き過ぎた親切心からか、極端なトレードオフとなる選択を避ける傾向があるが、ゲームとは本来選択の連続だった。

東の国を救うか/西の国を開拓するか
目的地まで陸路で行くか/海路で行くか
貯めたお金を武器に使うか/防具に使うか
結婚するのはビアンカか/フローラか
世界に必要なのは秩序か/混沌か
たたかうか/にげるか
ヒトカゲと冒険するか/フシギダネと冒険するか

主人公の選択によってストーリーが進んでいくRPGがわかりやすい例である一方、アクション系のゲームもまた然り。格闘ゲームはどの局面でどの技を繰り出すかの選択の連続だし、シューティングゲームは瞬間瞬間の判断のような選択で自機を動かす。スポーツゲームだって現実の試合に近い無数の選択を繰り替えしている。プレイヤー自身の選択によって運命が変わるリスクとリターンこそ、ゲームがもつ他のメディアにはない楽しみであったと思う。「どっちかを選ばなきゃいけない」ってことは意外と大事なことなんである。

だから、どのルートを通ってもアイテムや仲間やイベントをコンプリートできるようでは台無し。むしろ選択次第でコンプ「できない」ことにこそ、ゲームがゲームである意味がある。最新のリメイクで容量の問題が解決されたとしても、冥術を得たいならサラマンダーは滅びなければいけないし、ダンクーガを残すならコンバトラーVは廃棄されなければいけないのだ。

容量の都合でどちらかを捨てる理不尽は強く記憶に残る
『第四次スーパーロボット大戦』より


電源を入れる前にある二者択一

その点ポケモンシリーズは、ゲームを始める「前から」二者拓一を迫っているところが、とてもゲームらしくて素晴らしい。その徹底っぷりは、同時期に流行ったJ-POPの2枚同時発売ベストアルバムみたいなタイトルからも見て取れる。

『サン/ムーン』『ソード/シールド』『Black/White』『X/Y』そして最新作の『スカーレット/ヴァイオレット』(ポケモン)

『赤盤/青盤』『Ark/Ray』『ミクロ/マクロ』『青/春』『Sky/Flower』『宇宙/空中』『Treasure/Pleasure』『めまい/しびれ』『Soft DISK/HARD DISK』(ベストアルバム)

言葉としても、概念としても、いずれも美しく均衡が保たれた見事な対比である。どちらを選べばいいか迷わせるためには、2本の存在は対等でなければいけない。中でも究極の硬度を持つ『ダイヤモンド』と究極の真円である『パール』の対比なんかは特にぐっとくるし、『ハートゴールド』と『ソウルシルバー』はB’zの新しい2枚組ベストアルバムだよ!って言われたらまんまと騙されてしまう(なんの話だ)。

じゃあ実際に売れた本数も対等だったのか?  気になって調べてみたところ、特に初期作品はなんと「赤50.9%:緑49.1% 金49.2%:銀50.8%  ルビー49.4%:サファイア50.6%」(ポケモン知識を深めるブログ『じゃらの箱』より)と、見事にほぼ半々!  グラフが見たことないほど美しい半円を描いていて驚く。


ちなみに、そんなポケモンの美しい対比を象徴するものとして、ネットには定期的にこんなスレッドが建てられる。

人生は何かを得ようと思ったら、何かを捨てなければいけない。大喜利的に生まれたネットミームが、図らずも本質的なことを表してしまっているのが面白い。ポケモンの対比は単なる二本立てではなく二者択一。タイトルが表しているのは、もう一つの選択をしていたifなる自分の姿だ。光と影。セシルとカイン。アムロとカミーユ。選ばなかった方のパッケージに、われわれはあり得たかもしれない未来を見ている。


両方買ってしまっては意味がない

さて、当時大流行した初代ポケモン。わが家はどのように遊んだかというと、僕が『緑』で、二つ年下の弟が『赤』と、兄弟で片方ずつを買って仲良くモンスターを交換しながらコンプリートを目指すこととなった。ところが時は流れ、兄弟で一緒に遊ぶことも少なくなった中高生時代。僕よりもゲーム好きでコレクター癖のある弟は、あろうことか『緑』(と追加発売された『青』)も買って「両方揃えてしまった」のだ。当時は何とも思わなかったが、これではゲームが始まる前に起こる「最初のイベント」を逃してしまっていたのではないかと、今になって思う。

ポケモンはゲームならではの選ぶ楽しみを大切にしたタイトルだ。そして前述のスパロボのように選択の結果コンプリートの可能性を閉ざしてしまうのではなく、友達との「交換」を救済にあてがっているところも素晴らしいゲームデザインだと思う。そう考えていくと、最初にソフトのバージョン(=相棒モンスター)を選ぶというゲーム外に設置された「イベント」は、大人買いができるようになってしまった大人には味わえない。「ゲーム界のモスキート音」みたいなものだったのかもしれない。

ゲームが始まる瞬間とは、電源を入れた瞬間では決してない。新作が出るたび、断片的な情報を片手に想像する。「こっちのバージョンにしかいないモンスターはどれだろう」「ポケモン博士のデザインはあっちの方が好みだな」そんなことを考え始めた人は、すでに任天堂の術中にいる。おもちゃ屋で、アマゾンで、ヨドバシカメラで。パッケージを見つめる瞬間、われわれはすでにポケモンを「遊んでいる」のである。


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