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曲がったわたしと真っ直ぐな彼


実家の母から画像が届いた。
「あんたのアガパンサス、今年もきれいに咲いたよ」

10年くらい前まで、地元のガソリンスタンドでアルバイトをしていた。
フルサービスだから灰皿交換や窓拭き、当時は支払いもセルフじゃなくて、意外と暇じゃない。夏は熱くて冬は寒くてしんどい時もあったけれど、わたしはそこでのアルバイトを約7年続けていた。

そのアガパンサスは、バイト先で仲良くしていたお客様から分けてもらった花らしい。
「らしい」というのは後に諸々あって記憶が一部欠損して覚えていない。ということなんだけれど、毎年親から吹き込まれていた「あんたがもらってきた花」は、少し前から「あんたの花」に言い変わっていた。

母は花を見るのがすきで、父は庭いじりや日曜大工なんかがすきだ。父がアガパンサスを植えたのは、玄関から小さな庭に続く石畳のちょっとした小路の脇。ちなみにその石畳も父作だ。
多年草で強いからか、咲く度に元気に花を増やしていった。今年も梅雨入り少し前に蕾をほころばせたようで、10年の時を経ても立派に茎を伸ばし咲いている。
そういえば近くの道沿いや家々の玄関先でも見かけるようになった、アフリカンリリーの控えめなのに印象的な青紫。
わたしはこの花が昔からすきだった。

「誠実な愛」だとか、恋や愛の字が多く並ぶアガパンサスの花言葉だけれど、その中に「実直」というフレーズがひっそりと紛れている。
根を強く張るから、梅雨時の土が崩れにくいように斜面に植えることもある頑丈な花。育てやすく初心者にも優しい花。
この季節の断続的な雨にうたれても、長い茎を折らないよう耐えながら咲いてみせる。どんよりと淀んで湿度が重みを感じさせる、この季節ならではの空模様の下でも凛と美しく微笑む。
そんな真っ直ぐで強い花に与えられた「実直」という花言葉。
本当は、この花みたいな人間になりたかった。

「まる、見て。母ちゃんの花やで」
夏に向けて買った接触冷感のペットマットの上で寝転びながら、肉球のお手入れに勤しんでいる猫に画像を見せる。猫はそれを一瞥してから、関心が無いようにまた肉球のはむはむに戻った。
「なんやの、つまんなそうにして」
「だって母ちゃん、花って食べれないんやろ?」
それはそうなんですけども。
わたしは画面に咲くアガパンサスをもう一度眺めながら、実家の子は庭さんぽをしながら見ているのかも知れないな、とかわいいハチワレ猫の姿を思い浮かべた。

わたしという人間は心根がひん曲がっていて、天邪鬼で脆くて弱くて。「実直」とは程遠くて。表だけ、面だけ良いみたいなそんな「ナニカ」だと思い責めることも少なくなかった。
だからこそ憧れたのかもしれない。探したのかもしれない。

ガソリンスタンドで長年アルバイトをしていたのは、わたしが空っぽだったからだ。
ガソリンスタンドというところが嫌なわけではない。所々忘れてしまっている中でもしっかり覚えているのは、当時「他にやりたいこと」がなかったということだ。
美容師になりたくてヘアサロンに就職した。けれど薬品負けでドクターストップをもらって、別会社の同業種で今度はレセプショニストとして働いた。
このときまだ二十歳前。経験値が低すぎて当たりも強かったかなと思う。こんなに社会問題になるなんて知らなかったパワハラやモラハラを日々受けていた。

仕事内容と給料が見合わなさすぎて、自身のワークスペースを蹴ってくる上司の気持ちもわからなくて、実家から1時間半かけて毎日通う事に意味も意義も感じなくなる。あの上司の顔と名前は忘れられて良かったかも知れないけれど、やられたことと恐怖心と屈辱は今でも心の奥底にある。

もうこの時点でわたしの心は歪みを生じていたかも知れない。
他にも重要な理由かあるのだけれどここでは置いておいて、とにかくそこを辞めてからは「やりたいこと」がわからなくなったのだ。

そんな、何をしたいかもわからずただ生活のために地元のツテを頼って働き続けたアルバイト。仕事自体はフルサービスだったから、ちゃんと接客できるところなのが良かったと思う。接客がやっぱり好きだったから。
お客様の中でも優しくしてくれる人は稀にいて、わたしにアガパンサスをくれたというその方も、きっとわたしのことを気にかけてくれる世話焼きさんだったのかな、と。申し訳ないことに忘れてしまったので勝手にそう思っている。

実は「無」から脱出するタイミングは案外単純で、
「そうだ、子供の頃やりたいと思った仕事をひとまず全部体験してみよう」
とかいう、綿雪みたいな感じでふわっと頭に舞い降りた考えだった。
思い立ったままに行動して、長年お世話になったアルバイト先を躊躇なく去った。ここでアガパンサスと出会えたことは今でも良かったなと言える。


……「実直」という言葉がとてもしっくりくるひとというのが、なおさんだった。

思い立ってから昔やりたいと思ったことのある仕事に色々手を出して、たくさん経験した。それぞれ何年も続けることはなかったけれど、2〜3年くらい。子供心に憧れたりした職業に触れて、婚礼衣装の管理という、接客ではない裏方の仕事もやってみたりして。
生半可とか、中途半端と言われてもわたしは気にしない。自身の中では全部しっかり財産として積まれているのだ。
そんなこんなで紆余曲折あって辿り着いたのが、【うつ】になる前の最後の小売販売店だった。

なおさんは直属の上司ではないけれど、諸々あってわたしが一時責任者を担い非常にてんやわんやしていたときに、とても気遣ってくれた他店舗の責任者のひとりだ。
後々聞いたところ、わたしに対しての第一印象は「無理しすぎていて心配な人」だったのだそう。

ですよね、と思った。本当に無茶していたから。
別にその会社が悪いとかではないけれど、ちょうど大変な事や繁忙シーズンなんかがタイミング悪く重なっていたのだ。そもそもキャパシティの狭いわたしが忙しなく店内やパソコンの前で泡を吹きそうになっている姿は、きっと滑稽だったんだろうな。
己が上司でも心配するなと納得はしている。

なおさんは20年近く、もうこの会社に一途なひとで、経験と知識と人柄はどこの店舗に行っても信頼されて。更に上の役職の人達からも親しみやすさを持たれるような人材だった。
のんびりしてるという言葉はよく周りから聞いていたけれど、彼へのそれは「怠惰」の意味ではなく「だから話しやすい、頼りやすい」とのことだった。実際にわたし自身も彼のことをそんなふうに思っていた。
わたしと真逆だったのだ。職歴もそのひたむきさも、性格も。
ああ、このひとは「実直」なひとなんだなと、脳裏に梅雨のにおいとあの青紫が浮かんだ。

自分の心に素直で、ひとに真っ直ぐで、仕事や趣味に真摯に向き合う。わたしとは全然違っていて、そう考えると「なんでわたしだったんかな」とか今でもたまに思ったりもするけれど。言葉にしてしまうと彼を悲しませるから、感情の箱の中にしまっておく。
くねくねごちゃごちゃした職歴のことも、なおさんは「すごいよ」と、むしろ敬意を込めて褒めてくれる。「だから色んな分野の知識を持ってるんやね」と言ってくれるのだ。

こんな、こんな不釣り合いそうなわたしのひん曲がった心にも、彼は真っ直ぐ目を見て色んなことを語りかけてくれた。
このひとくらいだと思う。わたしなんかに一生同じように向き合ってくれる他人なんて。


一生、……。あと何十年だろうか。
癖っ毛を、きれいに矯正できることは知っている。手を込んで時間もかけて頭皮や薬品にも気を遣いながら、色んな工程を慎重に施術してやっと、真っすぐで艶のある髪になるんだというのを知っている。
レンタルの婚礼衣装の白無垢にできてしまったシミを、どういう方法で生地にダメージをかけずに丁寧に取るか。ほつれてしまったウエディングドレスのレースやビーズ装飾を、どれくらいの手間と時間をかけて手作業で修正していくかも知っている。

わたしのくねくねでごちゃごちゃな心はどうなんだろう。
目標にはひとまず達した。小さい頃夢見た仕事は、覚えてる限りでは全部体験した。右往左往した年月を無駄にするかしないかは、きっとこれからの自分にかかっているのだと思う。
今はまだ社会復帰に向けて、ようやく小さな小さな歩を踏みはじめたばかりだけれど、さてこれからのわたしはどんな仕事で復帰して、どんなふうに頑張れるんだろう。
長い時を経て、色んなひとの手を借りながら、悩ませたり困らせたりもしながら。それでもいつかは、また新しい目標をみつけて、今より少しでも素直に優しくなっていけるんだろうか。
強く、真摯な心を持てることができるんだろうか。わたしのだいすきな花みたいな。

あの花がずっと羨ましかったのだ。
強い雨に打たれても折れることなく、負けずに誇るように咲く花が。曇天で鬱々とした梅雨のモノクロみたいな風景の中で、ひときわ麗しく涼し気に佇むあの青紫が。


画像を送ってくれた母には「きれいだね!!」と短く返信した。
毎年報告してくれる母も、なおさんとは別ベクトルで真っ直ぐなひとだ。いつもありがとうね、密かに楽しみにしてるんだよ。
猫はいつの間にかサークルで喉を鳴らしながら寝ていて、「まる」と呼んだらしっぽだけぱたりと動いた。レースカーテン越しの空は、薄曇りから降りてくる白く暗い光をリビングに届けている。
雨が降らないうちに、体力づくりのために散歩くらいはして来ようか。角のお宅のアガパンサスはどれくらい花開いているだろうか。
わたしは日焼け止めの下地が入ったポーチをソファ横の棚から取り出した。

なおさんは、わたしにはすごく勿体ないほど優しくて真っ直ぐでいいひとだ。これを言うと「自分を卑下するな」といつも怒られるんだけれど。でも本当にそう思うんだよ。
だからこそ憧れたのかもしれない。見つけることができたのかもしれない。

彼のとなりでなら、まだこんな状態のわたしでも想像したくなるのだ。ひん曲がっていた心が緩やかになって、何かの仕事や未来の生活に真摯に向き合う自身の姿を。
「実直」はまだ遠い憧れだけれど、わたしという面倒くさい人間が素直に生きたいと思える原動力が、今のこの家族だということは曲がりようのない真実だった。

わたしは。
このひとのとなりで、このひとのようになりたいのだと、今年咲いたアガパンサスに気づかされた。

『曲がったわたしと真っ直ぐな彼』


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