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夫と釣りに出かけた日の金赤

今まで相性の良かった薬が合わなくなって、それから新月を迎えて月経が来て、近ごろは体調もメンタルもズタズタだった。

晴れの日の太陽が憂鬱で、ずっと目を閉じていたかった。
つくづく、【うつ】というものは気まぐれだなと思う。我が家の猫並みかそれ以上に。
どうしても起き上がれなくて、なおさんのお弁当を作ることができない日があった。前日の夜に研いで朝炊けるようにセットしたお米、たまご焼きを作るためにしんどい中頑張って買ってきた卵……。
思うように動けない鬱々と、思い通りにできない腹立たしさと虚しさで、死にたくなった。

「そんなことで」と笑ってくれてもいい。けれど「そんなこと」で簡単に死を夢見てしまうのは事実だ。
なおさんは心配こそすれ怒らない。「今は色んなしんどいタイミングが重なってるんだから仕方ないよ」とわたしをなだめて、その日の昼は施設内のお弁当屋さんで適当に買って食べたという。
最近夫婦でハマっている配信者さんの釣り中継を見ながら気持ちは少しずつなだらかになっていって、昼過ぎにようやく起き上がる。

ひとの心を救うのは身近な家族や友人だけではない。この配信者さんや、コメントでコミュニケーションをとってくれる視聴者さんに感謝しながら、その日は無理せず夫の帰りを待つことにした。
猫も「母ちゃん、今日はぼくとずっとのんびりしよう。元気になるためには、たくさんのんびりするんが大事なんやで」ってお腹を上にしてごろごろしながらあくびをかましているのだし。


お弁当を作れなかった分、夜はなおさんの好きなお刺身を用意したくて、暗くなってから少しだけ外に出た。まだ熱を持つアスファルトの上。自転車を転がしながら、目的のものだけを買って帰った。
疲れるかと思ったけれど、朝の最悪に比べたらとても楽だった。
ああ、明日はなおさんの釣りに付いていきたいなぁ。
叶うかわからない希望が、気持ちの片隅に生まれていく。


「いいよ、行こうか」
帰宅したなおさんは悩みもせずに頷いてくれた。
「いいの?」
「いいよ、俺も一緒に釣り行きたいし、無理のない程度にリハビリにもなるんやない」
けど、明日体調が良かったらね。と優しく付け加えてから、彼はテーブルの上のお刺身に喜んでくれる。
陽の光を浴びることは投薬以外での大切な治療のひとつだと、心療内科の先生には何度も言われている。けれど何かきっかけや理由がないとなかなか外に出られないのが【うつ】の現状で、ここ数日は夜になってやっと玄関の扉を開けるばかりだった。
なおさんは考えてくれていたのだ。その打開策として「釣りに連れていく」ことを。

夕飯を一緒に食べながら話をする時間はすごく大切で、サークルでくつろぐかわいい猫をちらちら見てふたりで悶絶しながら会話したり、ハマっている配信者さんの過去動画を見たりしながら過ごす。
「お弁当作れなくてごめんね。わたしのせいでルアー1個分のお金がお弁当屋さん代になっちゃった」
悔いを告げると夫は声を出して笑う。
「ルアー1個分もせんかったから。そこ気にするとこちゃうからね。ルアーたくさんあるし」
「でもまた買うやろ?」
買うけど、と言いながらまだ笑っている。まあでも、この頃になると気持ちもだいぶ浮上していたので、たまにはわたしのお弁当より美味しいものを食べてもらうのもいいか、と思い直していた。

買ってきたお刺身と、それだけでは寂しいからと作った赤だしのお味噌汁とニラ玉。今朝お弁当に詰める予定だったご飯をおかわりして、彼は「全部美味い」と食べてくれた。


朝マヅメは夜明け前後、夕マヅメは夕暮れの時間帯に釣行することらしい。
これまでも夫の釣りに散歩がてら付いていったことはあるけれど、ナイトゲームが比較的多かったかな。けれどわたし的には夜の水辺は怖いので控えようと思ってはいる。

翌日の早朝は曇りで、薄白い光が雲を透過して照らすくらい。太陽は見えなかった。
偏頭痛持ちには気だるいはずの曇り空が、この朝方は「楽しい」が勝っていたので気にならない。
ちょうど月経も終わって体がふっと楽になったところもある。
体調を心配するなおさんに「行けるよ!」と言うと、彼は嬉しそうに釣竿を2本準備しはじめていた。

ちょっと遠いけれど車を走らせれば割とすぐにつくポイント。先客は居なくて、わたしは虫よけスプレーを振りまいて日よけの帽子をかぶり、腰に救命道具をつけてウキウキで歩く。
決して綺麗とは言えない川面も控えめに煌めいていて、それを眺めるだけでも良い療養になっていた。 
わたしの分の釣竿には、ピンク色のかわいいルアーをつけてくれた。比較的新しく買ったものだけど、少し前にド素人のわたしが使ってすでに塗装の剥げがある。でもわたしはこのピンクを気に入っていて、「これをつけて欲しい」と頼んだのだ。

投げるのもたどたどしい。それを少し離れた位置から楽しそうに見守るなおさん。
実は彼の中で「妻の釣り育成計画」が発動していた。釣りを好きになってもらって、今後一緒に釣行に出かける機会を増やしたいのだという。

全く関わってこなかったわけじゃない。
父は釣りが大好きで、道具と母と子供たちを車に乗せて釣りをしながらのカーキャンプに行くことだってよくあったし、釣りのための旅行が本当に多い家族だった。
母も兄弟も魚釣りを楽しんでいて、わたしはそれを近くから眺めているのが好きだった。ただ、みんなよりも興味を持てなかった。魚は食べる係に徹していたと思う。

父となおさんのフィッシングはターゲットも楽しみ方も違うけれど。彼を初めて両親に会わせたとき、「釣りと猫好きに悪いやつはいない」と、ツンデレな父なりの祝福を受けたことは今でも微笑ましく思っている。
わたしは相変わらず上達しないロッドさばきで近くの魚も亀も、鳥も呆れるてんだろうなと思いつつ。そんな風景とリールを巻くわくわく感を楽しみながらのんびり過ごしているだけで、気持ちが辺りの湿気と共に浄化していくのがわかる。

朝焼けは見れなかったしわたしはもちろん釣れなかったけれど、なおさんがキャッチしたシーバスに満足して、まるの朝ご飯の時間に合わせて帰宅した。
こんな時間から外に出かけられている自身を不思議に思う。どれだけ心が闇と霧に侵略されていたかがよくわかった。


「なんで父ちゃんお魚持って帰ってこんかったん?」
首を傾げながらまん丸いアンバーの双眸で見てくる猫。あなた絶対に怖がるでしょうに。
「持って帰ってきてもまるが食べるものちゃうよ。父ちゃん今から昼まで寝るからそっとしといたげてね」
よしよしとご飯をあげると、息子はもうそれにがっつくことに集中しはじめる。素直な子である。
なおさんはこの日、午後からの会議だけ参加しないといけなかったから、それまで休んで。
わたしはその間に掃除等をして、彼が出勤していったあと交代するように布団に転がった。
疲れたけれどだるくない。昨日まで布団で過ごしていた時の心境と全然違うことに嬉しくなった。


西陽がまだ柔らかい時間から、帰ってきた夫と川までドライブ。早朝と違って晴れていて、小さい虫が飛んでいたり花粉の刺激も強めだったけれどいろんな対策をして、なおさんとふたりで同じ道を歩いた。
「つまんなくない?」
わたしが訊くその意図を彼は理解していて、
「楽しいよ。ひとりの時とは違う楽しさがあるからね」
と即答。確かに横顔をのぞくと偏光サングラスの隙間からみえる表情はなんだか嬉しそうだった。
ド素人で体調の変化も激しいわたしを伴うのは、絶対に面倒なはず。ロッドのセッティングもルアーをつけるのも、潮の流れをいちいち説明するのも。その分自身の釣行する時間が削られるわけだし。

けれど彼はそのことよりも楽しさが勝るのだと言ってくれる。右も左もわからず、ただ自分にくっついてくるわたしが面白くて、説明したりアドバイスする楽しさも、ひとり釣行だとできないからなんだろう。
へっぴり腰になりながら竿を振ってルアーを落として、遠くで鯉やボラが跳ねて「わ!」と声を出すわたしも、すぐそばの鉄橋を渡る電車を見ながら「ここは何線?」て聞いてくるわたしも、もうなんでも見ていて楽しいらしい。

わたしの調子が悪化して引きこもっていた数日の間に、ずいぶんと日が長くなっていたみたいで。
しばらく釣りの練習に集中していたけれど、ふと川のカーブあたりの水面がオレンジに光っているのが視界に入った。
「……わあ、」
顔を上げる。金赤の丸い太陽が川の向こうの町並みの、そのまた向こうの山へ帰ろうとしていた。それはもうひどく美しくて、優しいのに力強くて、わたしはそのありふれた河川のいつもの事であろう光景にしばらく魅入ってしまうのだ。
買い物帰りとかでもなく、今は釣人として見ている。
「なおさん見て、めっちゃきれい」
釣りに没頭していた彼はサングラスをずらして、
「ほんまや、すごいな」
と同じ方向を眺めた。

ああそうか、いつも見るきれいな夕日も好きだけど、今の特別感はこのひとと一緒に見ているからだ。
夫の好きなことを共にやって、シーバスをひっかけてバラして「今のでかかったかもなぁ」って悔しそうに笑う彼を見守って、竿の扱いが少しずつ上達するわたしを彼が見守って、さらに落ちてくる夕陽に川面と一緒に照らされながら。

今日はひとりじゃないから、「きれいやね」って言うと「そうやね」って返ってくる。
そうか、こんな幸せもあるんだね。
釣り自体の楽しさだけじゃなくて、こういう素敵なオプションもあるんだということを、なおさんはわたしに教えたかったんだね。

山際を美しく縁取りながら金赤の夕陽が眠りにつく頃まで、ふたりで釣行を楽しんだ。誰かがロストした有名なメーカーのルアーを、錆びて使えないのに拾って持ち帰る彼。ゴミ拾いの一貫として、それから「釣りしてるときと違って魚が飲み込んでも針がはずれなくて、魚が死んじゃうのを防ぐため」とも言っていた。
わたしたちが好きな配信者さんもルアーを拾って持ち帰っていた。何をするにもそれに伴うマナーがあるのだなと思う。
近年アングラーが増える一方でマナーを守らない釣人も比例して増えているようで、釣り禁止の場所が多くなっていると、夫も父も言っていた。
危険なゴミと、自分たちの釣り糸の切りくずもしっかりバッグに入れて、わたしたちは夕マヅメを終えた。

「体調大丈夫?」
「うん、なおさんあのね」
「うん?」
「帰る前にルアー買いに行きたい」
竿を解体して車に入れ終わる頃には辺りは暗くなっていて、橋を滑る電車はぼやけたシルエットの中に灯りを点々と並べていた。
釣りにやっと興味を持ちはじめて、自分の練習用のルアーが欲しいと初めて思えたわたしを、なおさんはそれはもう嬉しそうに見る。
彼の中での「妻の釣り育成計画」は少しずつだけれど、ちゃんと進行しているみたいだった。

夜は怖いし、やっぱりひとりで釣行する楽しさもあると思う。だから時々でいいから、また連れて行って欲しい。朝の清々しい空気を肺いっぱいに吸うのも、川向こうの空に低く浮かぶ夕陽を見ながら竿を投げるのも、なかなか良いものなのだなあと思えたから。

帰り道は遠回りしていつもの釣具屋さんに行って、低価格帯でわたしでも使いやすそうなルアーをふたつ選んだ。なおさんに見てもらいつつ、カラーは完全にわたしがビビッときたものだからそれで釣れるのかは全然わからないけれど。
「ルアーケースいる?バッグ欲しい?タモ買う?」ちょっと気持ちが速まる彼を抑えながら、わたしはわくわくな気分でレジに向かう。

これはねなおさん、約束事に近いものだよ。
「また朝か夕方、一緒に連れて行ってね」
そのためのわたしのルアーなんだ。

『夫と釣りに出かけた日の金赤』

「父ちゃん、なんでまた魚持って帰ってこんかったんや!」
「ごめんな〜まる、夕方は釣れへんかった」
帰ってわたしが夕飯の準備をしている中、なおさんはまると遊んでくれていてとても助かる。
竿の形をしたおもちゃではこんなに簡単に猫が釣れるというのに、魚釣りは難しいのだなと改めて思った。


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