可愛くなりたい、という永遠の欲求。

誰のための欲求なんだろう。

この前、久しぶりにファッション誌を買った。
私は昔からファッション誌が大好きな女の子だった。
アパレル関係のお仕事をしている家族が多いこともあって、
実家にはいつも雑誌や美容本がたくさん置いてあった。

私もキッズモデルの経験があったからか、余計に
紙面でキラキラ輝くモデルさんに憧れていた。
同時に自分の外見にコンプレックスがたくさんあった。

可愛くなりたい、綺麗になりたい

そんなことを、幼い頃から寝ても覚めても毎秒願っていた気がする。

大人になってからも、その想いは変わらない。
お仕事や日々の生活など、他のことの優先度が上がって
可愛くなりたい欲は少し影が薄くなっていた気がするけれど
ふとした時にものすごい強さで前面に現れる。

特に恋した時とか。
自分に自信が欲しい時とか。
前を向きたい時にも。

とにかく、自分の背中を押してくれる「あとひとつ」を
私はずっと「可愛さ」とか「綺麗さ」に求めている気がする。
でもそのくせ「可愛くなりたい」と堂々というのは恥ずかしかった。

根底には、
今のままの私じゃダメだから、
今のままの私じゃ好きになってもらえないから、
今のままじゃ人前に立つのが怖いから、
もう少し可愛ければ。

なんて、ネガティブな自己否定や変身願望があったせい。
多分それで、ファッション誌を見ると
自己否定や劣等感が加速するような居心地の悪さを感じて
最近は買わなくなっていたのかも。


でも久しぶりに買ったの。
恋したわけでもなく、
誰かに会う予定もない、この時期に。
おうちにこもって、日々の仕事をこなすだけの今。


別に誰に見せるわけでもないけど
可愛くなって男の人に愛されたいわけでもなく
人前に立つわけでもないけど

ただおうちにいて、自分の時間を過ごす日々の中で
自分に可愛いね、と言ってあげたいのだと思う。
大好きな可愛いものを身にまとって、
自分をご機嫌でいさせてあげたいのだと思う。

そう思うと、この欲求は自分のためのものだ。


誰かに愛されるため
何かに認められるために
可愛くなろうとするのは、確かに効力を発揮するけれど。
(恋した女の人が可愛くなる速度って本当に目を見張るものがあるもん。)
実はその「誰か」や「何か」を失った時に
同じくらいの速さで可愛さのメッキが剥がれることもある。
私はそうだった。

可愛いお洋服とメイクで隠した自己否定や劣等感が
私を可愛いと認めてくれた誰かを失った瞬間に、
誰かの言葉を信じられなくなった瞬間に、
溢れて止まらなかった時があった。
誰かを引き留めるために、誰かの言葉を信じるために、
もっと可愛く、もっと綺麗になりたい、と
欲求が止まらず、欲求に自分自身が食い殺されそうな時があった。

それに比べて、

自分のために可愛くなりたい

っていう欲求は、なんだかすごく心地いい。
ゆるやかにじわじわと、でも確かに効いてくる感じがする。
そうやって手に入れた可愛さは、
自分が自分である限り、永遠に崩れない自信になってくれる気がする。

誤解されないように言うと、私は決して、
誰かのために可愛くなることが悪いって言いたいんじゃなくて、
自己否定や変身願望がいけないって言いたいわけでもないのだけど、
ただその欲求に自分の首を絞められそうな時には
立ち止まって、誰のためのものなのか?なんのための欲求なのか?
を考えてみてもいいと思う。


私は、今はもうファッション誌を見ても嫌になったりしない。
可愛くなりたい、と口に出すのも恥ずかしくない。
むしろ、可愛くなりたいと願う自分が可愛い。
という変な気持ちまで芽生えている。笑

自分を喜ばせるための欲求は、こんなに心地いいものなんだね。

多分これからもずっと、
おばあちゃんになってもずっとずっと、
私は可愛くなりたい、と願い続けると思う。
それは自分をもっと愛したい、という願いに近い。

だから、この欲求と末長く、仲良く付き合っていけたらいいな。

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