書かないと死にそうだから、自意識なんてくそくらえ。
noteを始めることは結構勇気がいった。
今まで、Twitterでつぶやいたりブログを書くことはあった。鍵アカウントで、こっそり自分の思ってることを呟いてた。日記として。
でもnoteって違う。
人に見られるし、結構みんな自分の身元を開示して書いているイメージ。だから私も、noteを書くなら仕事の話とか、客観的なことかなって思っていた。自分の感情や考えを書いて晒すことに、すごく抵抗があった。
特に私は結構ウェットな人間というか、これはこれ、それはそれ、と割り切るのが上手じゃなくて、感傷的になることも多いし…恋愛のネタも多いし…家族のネタも多いし…そういったことをサラッとかっこよく冷静に、当たり障りなく書ける自信がなかったのだ。
私は、私は、って書くことがすごく不安だった。人からどう思われるんだろう、イタイ女だって思われるんじゃないかって。
まぁ、つまり自意識過剰だったので、noteはハードルが高すぎるなぁと思っていたのだった。
だけど、なぜそう思っていた私が今こんなに私は、私は、とnoteに色々書いているかというと、ひとえに書かないと死にそうだったからである。
日々お仕事をしていたり女として生きていて、思うことがたくさんあり、脳みそがとてもやかましい。
昔からそういうタイプだった。
SNSを見て、ニュースを見て、家族と話していて、仕事をしていて...いろいろ思うことがあるし、たくさん考えて自分の考えやこだわりが結構あるタイプなのに、「いやいや私がここで言っても…」とか「やかましい女だと思われたくないし…」などと考えて口に出せないタイプだった。
だから、よくいろんな人に「ミステリアスだよね」とか、いい感じになった男の子にも「つかみどころがない」と言われていた。「人当たりがいい」とか「常識的」とか「優等生タイプ」とか。
親しい人からすると「えー!あんたがミステリアスってないでしょw」って笑っちゃうと思うけど。
でも、そうやって自分の感情や考えを出さずにいることが限界にきていたのだと思う。
私はこう思ってて。こうしたいと思ってて。これは好きで、あれは苦手で。
人の表情を伺って口をつぐめばつぐむほど、脳内の私はどんどんやかましくなっていく。
同時に、当たり障りのない文章や言葉に意味があるのか?というのも、疑問に思えてきた。いや、そんな文章に価値はないだろう。書き手の想いがのっていない文章に、かつて私は心を動かされたことがあるだろうか?断じてない。
そもそも、言葉は私にとって人間の心そのものなのだから、想いがのっていない文章に価値なんて感じるはずがない。
ならば書けばいい。私の思っていることを。カッコつけずに、私は、私は、って書いてよ。
と、私の中の私が外に出たいと叫んでやかましくて、このままだと死にそうで。
そして、その叫んでいた私が、自意識に見事に勝利して外に出る権利を得た。
これが、私がnoteを書き始めた経緯。
書いてみて思う。
ひとつ、ふたつ、と記事をあげていく度に自意識から解放されていく感覚。
書けば書くほどに、書きたいことが思いつく。
ああ私、こんなにいろいろ書きたいことあったんだ。
自分でもびっくりするくらい、私には「自分の声」がしっかりあった。本当にやかましいくらいの声を持っている女だった。
水を得た魚のようだな、と我ながら思う。心が喜んでいるのがわかる。いろいろ書いて、下手とか上手とか、これ書いたらどう思われるかなとか、うわ私イタイなーとか忖度せずに、気持ちのままに書くのがすごく楽しい。
書くことは、自分を癒す行為。
自分を認める行為。
自分の声に耳をすませる行為。
もう書かない日々には戻れないだろうなと思う。書かないと死んじゃいそうな私が私の中にいる。
…とはいえやっぱり時には自意識が顔を出して、死ぬほど恥ずかしくてやめたくなることもある。
実は今もこの記事を書いていて、読み返してみると結構恥ずかしい...。支離滅裂だし、言葉も綺麗じゃないし、自分のことばっかりだなぁって。
※実際、この記事はいつもの5割増しくらいで脳内をさらけ出しているので本当に恥ずかしい。笑
でもやっぱり、その度に思う。
「公開」のボタンにカーソルを当てる度に、きっと今後も何度も思う。
書かないと死にそうだから、自意識なんてくそくらえ。
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