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あのねのね。

小学1年生の頃、担任の先生に日報を提出する宿題があった。日報というか、その日起きたこと、思ったことを自由に書いて先生からお返事をもらう、交換日記みたいなもの。

そのタイトルが「あのねのね。」。

幼いながらにこのタイトルの響きが可愛くて大好きで、毎日この宿題だけは楽しみにしていた。自分が書くのも、先生にお返事をもらうのも、お母さんに見せるのも。多分、言葉を綴ることが好きなのはその頃から。

大人になってから、特に就職してからは、自分の気持ちや考えを日記に落とすことはしなくなっていた。忙しいって理由づけしてたけど、実際のところ、日記の書き方がよくわからなくなっていた。書こうとしても、日記というより「1日のタスク報告」になってしまって。淡々と事実だけ書いてあるノートが出来上がって、なんだかひどく事務的でつまらない作業だなと感じた気がする。

それでも、何か悩み事にぶつかったり精神的にしんどくなった時にはノートに向かう癖ができていた。真っ白な紙のノートに、ボールペンでとにかく思ったことを書き殴る。そうすると、なぜだか終わった時にはホッとする。所狭しと書かれた言葉を眺めると、悩みが解決したような気持ちになったし、数ヶ月後にそのページを開いても「面白いな」と思える。


多分、前者と後者の違いは「事実の叙述」か「感情の吐露」か。


私は、自分でも気づいた時は思いがけなかったのだけど、自分の感情を認識することが苦手だから日記は上手に書けない。なんかこう、上手く書かなきゃいけない気がして、感情より頭で書いちゃう。時系列に沿って、とか、綺麗な言葉で、とか、矛盾がないように、とか。そうすると結局、誰が書いても同じようなつまらない記録しか出来上がらない。起きた、出かけた、寝た。みたいな。

でも悩みまくってる時や、精神的に参ってる時にノートに書きなぐるのって、感情だったんだよね。想像すると笑えるしちょっとおっかないけど、文章の体裁を考える余裕もなくとにかく吐き出したい一心で書きなぐるから、時系列もバラバラ、文法もしっちゃかめっちゃか、矛盾だらけ。

でも、そうして綴られる言葉には紛れもなく「私」がいる。

幼い頃は、そうやって言葉に「私」を吹き込むことがとても自然にできていたんだと思う。大人になって器用に立ち振る舞ったり、うまく感情の動きを交わす技術が身についていたんだと思う。多分私だけじゃなくて、大人になるとみんなそうなんじゃないかな。良い悪いじゃなくて、当たり前のように成長過程で起こることだと思うの。

だけどやっぱり、言葉に私を吹き込むことは楽しいから。

このnoteは小学生の頃に書いていた「あのねのね。」のように、自由な気持ちで思ったことを徒然に書いていきたいと思う。先生との交換日記ではなく、自分自身との交換日記のような気持ちで。

私は出来事に対してこう思ってる。こんな気持ちになった。こうしていきたい。

そんな素直な感情を、良い悪いのジャッジは一旦隅において、言葉に落としていければ。

多分お仕事と女の行き方とか恋愛の話、心理学的な話が多くなる気がしていますが笑、そこはご容赦ください。


あのねのね。たくさん言葉にしていきます!

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