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白薔薇園の憂鬱

おじいちゃんの作品を取り戻せ!
大好きだったマイナー芸術家のおじいちゃんの作品は、全て生活費のために父に売られてしまった。独りになった今、幸せだったあの頃を取り戻したい。


§1『宇宙色のカップ』 第1章 

 鼻先1㎝まで、そのカップに顔を近づける。
触れることは決して許されていない。
高さ20㎝の、縄文土器を思わせるぐるぐると波打つように渦巻いた文様と取っ手のついた円錐状のカップは、『宇宙(そら)の青』と称されるまだらに入った青のグラデーションの中に、キラキラと無数の星の輝きを放つ細かな結晶がちりばめられている。

 値札に付けられたエスティメートは26万~48万円。
一般事務職の私にはとてつもなく厳しい価格帯だが、それでも手を出そうと思えば出せない範囲ってわけじゃない。
このためにずっと生活費を切り詰めてお金貯めてきたんだから、チャンスを逃したくない。
下ろした貯金ほぼ全額の50万円を元手に、いつも以上に気合いが入っている。
今回の勝算は高い。

 本来ならもっと評価されていい作品だ。
フンと荒い鼻息を吹き飛ばし、華やかな展示会場を通り抜ける。
他の作品には一切興味はない。
てゆーか、興味の持ちようがない。
真っ白な絨毯の敷き詰められた広々とした会場にゴトゴトと置かれる陶器の数々は、ちらりと見ただけでついている0の数にめまいがする。
特に会場中央に置かれた今回の目玉作品の、このランプの作者は知ってる。
美術の教科書に名前が載ってたような人だ。

 ぼんやりとオレンジ色に内側から照らされる光が、磨りガラスのような材質の上に焼き付けられた美しい花柄を浮かび上がらせている。
倒せば壊れてしまうような繊細な作品であることは間違いないのに、温かで柔らかな光が、気持ちまで緩やかにしてしまう。
きれい。

 美しい作品を見れば、いつだって心を奪われる。
その作品を手がけた人のことを、それを贈られた人物のことを思う。
こんな美しいランプの明かりだけを灯した部屋で、ゆっくり珈琲でも飲んで過ごす夜はどれだ……。
現代アート作家だけど250万? へー。

 一気に目が覚めた。
私には生涯無縁なものだ。
だけどせっかく間近に見られたんだから、拝んでおこう。
必勝祈願だ。
私はそのランプの前で手を合わせると、パンパンと威勢よく拍手を打つ。
どうぞ今回のオークションが上手く行きますように。

 ここはほぼ毎月定期的に開かれている、日本では有名大手のデイリーオークションだ。
気合いを入れ直し、オークションルームにはいる。

 どこのオークション会場でもそうだけど、こういう所に集まる人々は、やっぱりお上品でお洒落な方々が多い。
もちろんラフな格好で来ておられる方もいらっしゃるけど、超個性的なお金持ちっていう感じだ。
私は自分の持っている一張羅、といってもリクルートスーツなんだけど、それを着込んで戦に臨んでいる。

 会場で浮かないようにと、ブランドのお洋服を買おうかとも思ったけど、値段を見てあっさりあきらめた。
私が欲しいのは、きれいなお洋服なんかじゃない。
競り落とされる作品自身だ。
着ている服なんかに無駄遣いしている場合じゃない。

 生まれついてから今の今まで、ちゃんと『お嬢さま』である人たちと争っても勝ち目はないから、勝てないと分かってる勝負なんてやらない。
自分が傷つくだけだし。
だけどそれでもわずかに残っている自尊心が、私は個人バイヤーですよー、お仕事ですよー、趣味で来てるわけじゃないですよーっていう、雰囲気をかもし出したくて、ぴったりとなでつけた髪に、後ろで一つにまとめたお団子ヘアにさせている。
その上にこのリクルートスーツだ。
完璧。
どう見たって営業の下請けにしか見えないに決まっている。
就活と入社式以外で着ることはないのにと、泣き泣き買ったダッサいスーツが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
着回し最強。

 とにかく、大金持ちのおじさまから、お仕事として委託を受けました的雰囲気で、会場の椅子に座る。
オークションでの競り勝負は一瞬だ。
低価格帯から始まるテンポのよい高速オークションに、一瞬の気も抜けない。
今回のお目当ての品は、ロット番号8番。
ライバルも少ない。
きっと大丈夫。
オークションが始まった。

「ロット番号1番。2万円、2万5千円、3万……、いらっしゃいませんか?」

 オークショニアの声が、ぎゅうぎゅうの会場で静かに響き渡る。
ダンッ! という落札が決まった時にならされるハンマーの、心地よくも緊迫感のある音が、腹の底を掻きむしる。
とにかく私は、今いつになく真剣なのだ。

「ロット番号1番、5万円で落札されました。続きまして2番、8万円からのスタートです」

 会場に写し出された作品案内画面のなかの、ロット番号が2番に切り替わった。
1ロットの競りにかかる時間は2、3分しかない。
すぐにお目当ての8番がやって来る。
今回の私のパドルは27番だった。
この番号札を上げて落札に挑む。

「ロット番号7番、32万円で落札されました。続きまして、8番、15万円から」

 来た! 
三上恭平、全盛期の秀作といわれる陶芸作品! 
さっと27番のパドルを上げる。

「15万円! 他にいらっしゃいませんか?」

 よし! このまま落札だ! 
これであのカップは私のも……。

「17万円」

 は? 
誰だ、こんなマニアックな作品に札を上げた奴。
私以外他にいるの? 
あのカップを欲しがってる人が?

「20万」

 仕方なく、もう一度札を上げる。
これでハンマープライスだ。

「25万」

 あ? ちょっと待て。
会場を見渡す。
私以外に、まだ複数のパドルが上がっていた。

「28万」

 くそ。こうなったら意地だ。
せっかくの掘り出しモノ、ここであきらめるワケにはいかない。
札を上げた私の後に続いて、すぐ他の札が上げられる。

「30万!」

 誰だ? 
昔ちょっと流行っただけの、マイナー作家の迷作をこんな高値で買い付けようっていうバカは! 
そういう私もパッパパッパと札を上げまくっているけど、そろそろ本気でお終いにしたい。

「40万! 50万円! もういらっしゃいませんか?」

 場内がざわつき始める。
最高落札価格48万円だったものが、50万を越えた。
お願い、もうあきらめて! 
手数料とか税金とか、色々追加したらもうこれ以上は無理!

「50万! 50万円! いらっしゃいませんか?」

 残ったのは私ともう一人。
前方の席に座る若い男性だ。
くっそ。
高そうないい仕立てのお洒落スーツ着てるじゃないか、勘弁してくれ。
私は泣きながらもう一度札を上げた。

「53万!」

 相手はまだ下りない。
札を上げ続ける私は、もはや涙目だ。
このあたりで勘弁してほしい。

「55万、57万! 58万。もういらっしゃいませんか?」

 ダメだ。
そもそも今回の軍資金は、私の全財産である50万円。
次の給料日までを考えても、これ以上はムリ。

「8番、58万円で落札されました!」

 オークショニアの興奮した声に、無慈悲なハンマーの音が響く。
ここは、より多くのお金を出せる者だけが勝利する世界。
ボロボロと勢いよく流れ落ちる涙を誤魔化す余裕なんて、私のどこにも残っていなかった。
どよめく会場の中を、ガタリと大きな音を上げて立ち上がる。

 派手な音なんて、たてるつもりは全然なかった。
だけどそうなってしまったものは、仕方ないじゃない。
会場の注目が一身に集まる。
私を泣かせた男は、ちらりとこちらに視線を投げた。
それに後を追われるように、会場を抜け出す。
欲しかった。
どうしても自分の手で取り戻したかった。
大切なおじいちゃんとの思い出のカップ。

 試作品としていくつか作っていたものだ。
今はもう撤去されてしまった自宅の窯で焼いていた。
沢山作った中で残っていた、出来の悪いものだ。
おじいちゃんがまだ幼かった私のおもちゃ代わりにと、割ってしまうくらいならとままごと道具にくれた。
私が捨てないで、壊さないであげてって頼んだからだ。
庭の草をむしって入れたり、ビー玉を入れて遊んだ。
その思い出が目の前をすり抜けていく。
もう二度と私の手には戻ってこないだろう。

 チラリと冷ややかな視線を投げた男には、見覚えがあった。
なんだよ、お前か。
初めて生で本物を見た。
絶対にかなわない相手だ。
まぁ、あの人の手に渡るのなら、大事にしてくれるかな。
少なくとも転売や投機目的ではなさそうだ。
大切に使ったり飾ったりしてくれるんなら、私が遊んでいたあのカップも本望に違いない。
悔しいけど、悔やんだところでどうにかなる世界ではないのだ。

 文字通り会場から逃げ去り、飛び出してきたビルの外は、さんさんと明るい太陽の光が降りそそいでいた。
春だ。
桜の花びらがどこからか飛んできて宙を舞っている。
流れる涙をぬぐい、思いっきり鼻水をかんだ。
ひらひらと地面に落ちた花びらは、投げ捨てられたゴミと一緒になって、歩道の隅に掃き寄せられている。
桜の花びらも、本当はこんなふうになりたかったわけじゃなかったよね。
ずっときれいなままで、誰からも賞賛され美しく咲き誇る花でありたかったんだよね。
分かるよ。
私も同じ気持ちだから。
だからもう、おうちに帰ろう。




第2章


 オークション会場の最寄り駅から電車に乗って、帰路につく。
超高級住宅街から高級住宅街に変わって、今では普通の賃貸マンションなんかも建ち並ぶようになった街の改札を抜けた。
だらだらと続く緩やかな坂道を、のろのろと歩く。
坂を上りきったところにある、かつてはモダンでお洒落だった古い洋館に、私は一人で住んでいた。
今となっては広すぎるその家には、長い時間に蓄積された淡い思い出がゼリーのように詰まっていて、ここだけ時が止まっているみたい。

「あ、あれ? もう帰って来たの? 早くない?」

 その声に顔をあげると、買い物袋を両手にぶら下げた卓己が門の前に立っていた。

「オークションどうだった? うまくいったの?」

 ひょろ長い背丈にぼさぼさしたクセの強い髪。
長すぎる前髪は顔を半分ほど覆っていて、よくこれでどこにもぶつからず外が歩けるなと、いつも思う。

「オークション? 何それ。知らない」
「え? だ、だって、僕言ったよね? 恭平さんのカップが出てるって……」
「はぁ~……!」

 特大のため息をぶつけ、イライラと卓己の前を横切った。
半分ほど朽ち、若干傾いている木製の扉を押し開ける。
卓己はそんな私の態度に驚いたようだ。

「こ、今回は、紗和ちゃん、すっごい気合い入ってたから……さ。お、お祝いの準備を、して、おこうか、と、思ったんだ」

 彼は必死で私の後を追いかけてくる。
ペンキの剥げまくった白い木製の押戸をくぐると、手入れの余り行き届いていない庭に入った。
テラスに置かれた錆び錆びの丸テーブルの上に、持っていたバックをドサリと投げる。
卓己は両手に持ったビニール袋を掲げ、もう一度私に見せた。

「ほら、ね。さ、紗和ちゃんの好きな、も、桃のお酒、買って来たんだ。このお酒、い、いいことがあった日、にしか、飲まないって、決めてたんでしょ?」

 彼は今月出たばかりの最新式のスマホを取り出すと、それを高速でタップする。

「ネットでさ、オ、オークションが、始まったなーって思って。ロットが早かったから、は、早いだろうとは、思って、た、けど……」

 そこで卓己はようやく、私の手に何もないことに気づいたらしい。

「あ、あれ? 恭平さんのカップ、郵送にしたの? 持ち帰りにはしなかったんだ」
「あんたには関係ないでしょ」
「……。か、関係! なくは、ない……。と、思うよ」

 オロオロとする彼を尻目に、卓己の持って来た買い物袋の中を漁る。

「何買ってきたの」

 卓己とは小学校入学前からの幼なじみだ。
この庭で一緒によく遊んだ。

「あ、えっとね。だから、紗和ちゃんの好きな、桃のお酒でしょ? それと、ナッツとかさきイカとか色々……」
「卓己はお酒飲めないのに?」
「え? あ、だけど、僕は紗和ちゃんのお祝いがしたくて……」

 絵の才能が全くなかった私は普通の会社員になり、芸術家だったおじいちゃんの目にとまった卓己は、彼のためにとおじいちゃんが開いた絵画教室でメキメキと腕を伸ばし、今や現代アートを代表する人気作家の一人だ。

「……。こ、ここで、一緒にお祝い、しちゃ、ダメ? ぼ、僕はジュースでいいから……」

 卓己の必死の形相に、逆にこっちが責められているような気分になる。

「……。あのカップね、落札、できなかった」
「……。え! ど、どうして? だって紗和ちゃんが……」
「競り負けたの!」

 春先のまだ冷たい風が、この庭をぐるりと囲む常緑樹の固い葉を揺らした。
卓己の邪魔くさい前髪の奥で、おどおどした目がより一層おどおどしている。

「な……。だって、あのカップは……。や、やっぱり僕が……」
「は? なに?」

 ギロリとにらみ上げた私の視線に、慌てて言葉を飲み込んだ。

「ご、ごめん」
「卓己の手助けは、一切いらないって言ったよね。そんなことしたら、取り戻す意味がないからって!」
「わ、分かってるよ。だってもう、な、何度も……紗和ちゃんに、お、怒られたし……」

 地位も名誉もお金も手に入れた彼と、おじいちゃんの孫という肩書きだけしかない私。
卓己に頼れば簡単にカタはつくのかもしれないけど、それだとますます私が惨めになるだけじゃない。
もうこれ以上、自分のことも卓己のことも、嫌いになりたくはない。

「さ……、紗和ちゃんが、あんなに欲しがってたのに……。ざ、残念、だったね……」
「そう。だから今、一人ですっごく泣きたい気分なの。もう帰ってくれる?」
「わ、分かった……」

 彼は錆びついたぼろぼろの丸テーブルに置かれた袋を、持ち帰ろうととして、すぐにその手を下ろした。

「だ、だけどさ。こ、これはやっぱり、置いていくね。き、気が向いたら、お酒もつまみも、か、勝手にた、食べてくれて、いいから……」

 私の体が、ぶるっと震えた。
それは春先の夜の始まりの、寒さのせいなのか、怒りのせいなのか、惨めさなのか分からない。
きっとリクルートスーツだけで暮れ始めた屋外に立っているのが、寒すぎただけだ。
私がほんのちょっと身震いしただけでも、卓己はそれを決して見過ごしたりなんかしない。
すぐに自分着ていた薄手のコートを脱いで、私にかけようとする。

「そんなものいらないから! もう家の中に入るし。余計な心配するくらいなら、さっさと帰って」
「で、でも、紗和ちゃんが……」

 しつこく渋る卓己の背をぐいぐい押して、やっと門のところまで追いやった。

「差し入れはありがたく受け取っておくから、もう帰って」
「……。う、うん。じゃあ……。元気でね。また来るから」
「はいはい」

 それでもまだ、じっと悲しむように沈んだ目で私を見下ろす。

「紗和ちゃん……。本当に困ったことができたら、ちゃんとすぐに連絡して」
「はいはい」
「約束だよ!」
「分かってる!」
「ちゃんと僕にだよ!」
「はいはい」

 卓己はようやく、朽ちかけた門から外に出た。
何度も何度も振り返り、手を振る彼を寒さに震えながら見送る。
角を曲がって見えなくなるまで待っていないと、次に会った時にとてつもなく機嫌が悪くて、相手をするのに面倒くさくなるからだ。
そんなに不機嫌になるなら、だったら私になんて会いに来なければいいのにと、いつも思う。
卓己のことは嫌いじゃないけど、どうしても好きにはなれない。
彼の気持ちを知っていながら、ずっと気づかぬフリをしている。

 すっかり日の暮れた空に、立て付けの悪くなった門を閉める。
体は完全に冷え切っていた。
荒れた庭の丸テーブルには、卓己の持って来た差し入れの、食べ物がぎゅうぎゅうに詰まった袋が残されている。
こんなもの、卓己からもらったって何一つ嬉しくなんか……。

「あぁ、変なこと考えちゃダメ」

 食べ物に罪はない。
重たい袋を抱え、テラスから部屋に入った。
しっかりと雨戸を下ろし、施錠もしたから大丈夫。
もうこの家に、誰も入っては来られない。

 私は卓己の持って来た袋の中から、桃のスパークリングワインを取り出すと、その瓶を開けグッと飲み干した。
ツンとした炭酸の刺激と甘い香りに、一度は我慢したはずの涙が再びあふれはじめた。




第3章


 オークションに負けた土曜の夜は思いきり泣いて、日曜日の一日をかけて目の腫れを引かせ、月曜には何事もなかったように会社へ出勤する。
満員電車に揺られ、社畜とまではいないが、ちゃんと仕事はする。
だっておじいちゃんの作品を自分の手で取り戻すためには、お金が必要だから。

 7つの時に母が亡くなって、その3年後に有名画家だったおじいちゃんが死んだ。
病気がちで体の弱かった父は、生活費と私の将来の学費のためにと、おじいちゃんの作品を次々と売り飛ばした。
美術には全く興味がなく、祖父との折り合いも悪かった父が、作品の価値をどれだけ理解し、どう判断していたのかは、今となってはもう分からない。
そうやって作品を売り払うことで、この家と土地を残すことが出来たらしい。
相続税だとかなんとかっていうことは、大人になってから知った。
そんな父も闘病生活の末、私の高校入学を見届けた直後に、この世を去った。

「おはようございます!」

 始業時間の20分前には、オフィスに入るようにしている。
早くもなければ遅くもない時間だ。
自社ビルを所有する有名商社に入れたのは、高校、大学と真面目に過ごしてきたおかげ。
人生には安定が一番。
足元のおぼつかない不安定なアーティストなんて、もってのほかだ。
私は堅実に生きる。
そしてお金を貯めて、少しでもいいからおじいちゃんの作品を取り戻す。

 広々としたオフィスにはずらりとデスクが並び、それぞれの塊で部署が分かれていた。
有名商社勤務といっても、はっきり言って私の仕事は雑用係。
非常勤の契約社員で入社というのが正しい採用で、一年ごとの契約更新を続けたところで、この会社に正社員採用実績は……ない!

「データ整理終わりました。印刷しますか?」
「あ、印刷はいいよ。クラウドに共有しといて。こっちの伝票整理と入力遅れてるみたいだから、手伝ってもらえる?」
「はい。分かりました」

 正社員である中年男性から、大きさも書式も全く整っていない紙の束をドサリと渡される。
これ、本当はアンタがやらなきゃいけなかった仕事じゃない? 
なんて、そんなことを思いながらも、何一つ表情を変えることなく、全てを事務的に受け取った。
目標は無期雇用転換。
正社員になれなくて結構。
安定安心で末永く。
もし解雇を言い渡されたって、ここで付けた有名企業の社名という肩書きは、次の転職にもきっと役に立つはずだから。

 午後からもひたすら細かい数字の入力と、書類の書式統一、フォントの修正作業を延々続けている。
やってもやっても減らないどころか、さらに追加されていく紙の束とお願いメールにうんざりしていた。
ペーパーレス社会って、どこの国の話? 
だから最初っからデータ収集をデジタル入力しておけば……。
あぁ、デジタル社会って、別次元の異世界を指す言葉だった。
私はきっと、冒険と夢のファンタジーな世界から、この現実に異世界転生してきた不幸なヒロインなんだ。
いつかきっと元の世界に戻れるって信じてる。
その時には出来れば魔法使いか、お城の伯爵令嬢か何かに……なんて、いつものように妄想で現実逃避しながら働いていたら、急にフロアがざわつき始めた。
何事かと顔を上げる。

 シックな色合いのキリッとしまった黒のスーツ。
皆同じような格好をしているのに、どうしてこんなに格差が出来るんだろうと思う。
身長とスタイルのせい? 
きっちりとセットした髪で、堂々とオフィスに侵入してきたのは、うちのCMOだ。
新しい案件を次々と取り付け、新規事業開拓に成功しているマーケットの分析官であり、新進気鋭の若き経営戦略家。

 彼は周囲のどよめきが聞こえていないのか、迷うことなくオフィスを突き進む。
何しに来た? 
と思う間もなく、彼は資料の山に埋もれた私のすぐ真横に立ち止まると、真っ黒いストレートな前髪をかき上げた。

「あなたですか。先日泣きながら三上恭平氏の作品を、俺と競り合っていたのは」

 ビクリと体が震える。
何事かと思えば、そっちか。
なんだ。
私に用があるんじゃなくて、やっぱりおじいちゃんの方だった。
すらりとした身長に端正な顔立ちと立ち居振る舞いから、悪ぶってはいても育ちの良さは隠しきれていない。
代々続く名家の血統を受け継ぎ、名実ともにお坊ちゃま中のお坊ちゃまである彼が、じっと見下ろす。
なんだ。
仕事でとんでもないミスを犯して、叱りつけに来たのかと思った。
なんだ。
でもよかった。
私は気合いを入れ直し、過去最大級の対外用防衛スマイルを放出する。

「えーっと。申し訳ございません。お話が全く見えないのですが……」
「俺の顔が分からないって、本気か?」

 彼の後ろで、うちの部長が何事かとおろおろ慌てふためいている。
メディアへの露出もそれなりにある、経済界ではそこそこ名のあるCMOだ。

「いえ、佐山CMOのことは存じ上げておりますが、社外のことはちょっと分かりかねます」
「あっそう。土曜日の恨みは、もうすっかり忘れたっていうわけですか?」

 彼はニヤリといたずらな笑みを浮かべた。
確かに会場でこの人を見かけたけど、わずかに目があったくらいだ。
それなのにわざわざオフィスまで足を運んで来るほど、私のことを以前から知っていたとは思えない。
そりゃあオークショニアたちの間で私の素性はバレてるし、おじいちゃんの作品を買い集めようとして連敗続きなのが、業界では有名だって知ってる。
それでも個人情報をもらすほど、迂闊で信用のない人たちではない。
なのにどうして……。

「不思議そうな顔をしているね。どうして分かったのかって? まぁ、そんな話しも色々としたいから、俺の名刺を渡しておくよ」

 そう言うと彼は、勝手に私の机に名刺を置いた。

「今日は直接会って、本当にあの会場にいた本人かどうかを、確かめたかっただけなんだ。また後で連絡する。その時にはちゃんと、連絡に応じるように」

 パチリと軽薄なウインクを残し、足早に立ち去っていく。
なんて自由な人だ。
確か私より6つは年上の32くらいだったはず。
しかし彼のそんな行動が、職場の人たちにどれだけ巨大な猜疑心と好奇心を残し、どれだけ多大な迷惑を私にかけているのか、きっと一生気づきもしなければ考えもしないタイプなのだろう。

「えー! 三上さん、どういうことなんですかぁ! 佐山CMOと知り合いだったなんて!」
「その名刺、私に下さい! いや、画像撮らせて下さい!」

 彼の姿が見えなくなったとたん、あっという間に囲まれてしまった。
困った。
ようやく手に入れた平穏で穏やかな日々を失いたくない。

 高校までの間は、いつだって「芸術家三上恭平の孫」としか見られなかった。
それにふさわしい人間になろうとして、なれなかった。
近所の噂話なんて、どれもこれも聞き飽きた。
大学に入ってからは、たった一人で生きていくために、とにかく勉強していい会社に入ることしか考えていなかった。
社会人になって、ようやく「私」のことを誰も知らない人たちに囲まれて、生まれ変われた気がしていたのに。
「私」は初めて「自分」になれたのに。
それを今更壊されたくない。

「いや。この間、本当たまたま偶然なんだけどさ、CMOのデート現場に遭遇しちゃって……。バレないように接したつもりだったんだけど、ヘタな言い分けしてたら、それでうちの社員だって、バレたみたいで……」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる社員たちに、しっかりと関わりのないことを表明しておく。
いつまでもいらない誤解と疑念を持たせたまま、不必要な嫉妬心ややっかみを買いたくない。

「なんですか、それ!」
「どういうこと?」
「多分、余計な事をしゃべらないようにって、口止めしに来たんだと思うよ。だからあんまり、詳しいことは話せないかも……」
「えー!」

 最大限に困った表情を作って、顔面に固定しておく。
そう。
あのオークション会場でCMOを見かけた時、隣にはきれいで素敵なお嬢さまがしっかりと脇を固めていた。
嘘はついてない。

「そのデート相手のお顔に、私は全くの心当たりがないんだけど。まぁ、彼女? なんだろうね、きっと」
「どんな感じの人でした? 女優とかアイドルみたいな感じ?」
「いやいや、しっかりした上品な感じのお嬢さまだったよ」
「なんだー」
「つまんな~い」
「アイドルとかと噂になったら面白いのにねー」

 複数の舌打ちと、好き勝手な妄想の渦が嵐のように吹き荒れる。
私はほっと胸をなで下ろした。
よかった。
興味の対象が自分から逸れた。
自分の理想と世間の想像から遠く離れてしまった私は、素姓をあまり人には知られたくない。
そんな好奇心に巻き込まれ噂のネタにされることには、もう充分すぎるほどうんざりしている。
部長の「おしゃべりはやめて、仕事しよ」の一言で、ようやく解散となった。
それでいつもの風景が戻ってきたはずだったのに、就業時間間際になって、本当に佐山CMOから社内メールが送られてくる。
金曜の夜に食事に誘う内容で、私はあきらめて了解の返事を機械的に打った。
この人には私が三上恭平の孫だってことも、きっとバレちゃってるんだろうな。
じゃなきゃ、こんなお誘いがあるわけない。
だったらさっさと終わらせて、彼の好奇心を満足させるだけだ。
一日おもちゃになれば、この関係も終わる。
そうして出来れば自分が三上恭平の孫であることを、社内では公にしないようお願いもしておきたい。
もうこれ以上、自分ではない誰かの付属品扱いは受けたくない。

 待ち合わせに指定されたのは、会社からほど近いイタリアン。
添付された店のHPを開いて確認する。
ん? 
看板とか出てないし、これ一見普通のただの壁みたいじゃない? 
これが店の入り口? 
てか、HPなのに、どこを見ても料理の値段が載ってない。
金曜の夜の約束だから、仕事終わりということになる。
お店の格に合わせたお洒落をしていかなければならないんだけど、一度帰宅すれば予約の時間に間に合わない。
変にドレスアップして会社に行けば、絶対周囲からなにか言われるの、分かってるのに……。
服だけはどうしようもないから、黒のスタンダードなキャミワンピースに、白のインナーを合わせて行こう。
それくらいなら会社に行っても注目を浴びることはないだろう。
普段よりちょっと背伸びはしてるけど、特段気合いが感じられるわけでもない、当たり障りのない及第ラインだ。
メイクとアクセサリーは、駅のトイレで何とかするとして……。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、急に疲労感に襲われ、大きなため息をつく。
断れるものなら断りたい。
こんなこと面倒なだけ。
だけど、断れないものならば、さっさと終わらせてしまえばいい。

 迎えた金曜は朝から憂鬱で、いつも以上に目立たぬよう、そつなく仕事を片付ける。
オフィスを出なければいけない時間が来て、細心の注意を払い、さりげなく抜け出すことに成功した。
予定通りお店の最寄り駅トイレでメイクを直し、ゴールドの緩やかなスパイラルバーのピアスをさす。
ネックレスはいつもの鞄に入れるには邪魔になりそうだったから、やめた。

 スマホの地図を頼りに、すっかり日の暮れた通りを進む。
落ち着いた雰囲気の街中に、その店を見つけた。
HPに載っていたのと同じ白い壁の前に、ネットには載っていなかったオーケストラの指揮者の譜面台みたいなものが置かれている。
その脇には、ピッタリとした黒服の男性が立っていた。

「いらっしゃいませ。ご予約の三上さまですか?」

 黒髪のオールバックの男性が、これ以上ないくらい爽やかな笑顔を浮かべる。

「あ、私が予約したんじゃないんですけど……」
「佐山さまとご一緒ですね。お待ちしておりました。お入りください」

 心臓をバクバクさせながら、照明を落としたレストランの、靴が沈み込むほどふかふかの赤茶けたカーペットを進む。
店に入った瞬間、私は佐山CMOに身バレしたことを、はっきりと確信した。
完全個室のレストランは、どう考えたって全部で5部屋くらいしかない。
通された個室からはガラス張りの向こうに、ライトアップされた庭が見える。
都会の真ん中にあるのに、ここの周囲には高層ビルの建ち並んでいるはずなのに、窓からは庭の木々と空しか見えないって、どういうこと? 
しかも、もしかしてこの個室から庭に下りていける系? 
部屋の配置と垣根の様子から、隣のお部屋からも絶対見えない仕組みだよね。

 席に着いたとたん、細長いシャンパングラスに水が注がれる。
この水もきっと、タダの水ではないはずだ。
きっと一口300円くらいするに違いない。
本当にこんなところに座ってて大丈夫なの? 
もし佐山CMOがこなかったら、私はどうなるの? 
人生で経験したことのない高級店に、いつでも逃げ出せるようビクビクしながら座っていたら、ようやくノックの音が聞こえた。

「佐山颯斗です。よかった。来てくれてた」

 深い紺色のスラックスと白Tの上に、軽やかなライトブルーのジャケットを羽織っているその姿は、清爽感ハンパない。
私は約束の時間より少し早めに来ていた。
彼の到着だって、5分は早い。
佐山CMOの到着に、私は勢いよく立ち上がった。

「先日はお見苦しいところをお見せして、大変申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる。
一度も染めたことのない私の髪が、肩からさらさらと流れ落ちた。
指先までぴっしり伸ばした手を体の前で合わせ、腰の角度は90度に固定する。

「あぁ! いや、そういうつもりじゃなかったんだけどな。まぁ座ってよ」

 困惑した様子を見せた彼は、それでもにっこり微笑んで席に着く。
私はビジネスマナーに則り、上司である彼が席についてから、さっと素早く腰を下ろした。

「三上恭平のお孫さんが、まさかうちの社にいるとは思わなかったものでね」
「そのことですが……」
「内緒にしとけって? 分かったよ」

 絵に描いたようなイケメンだ。
白い肌と繊細に伸びた高い鼻。
整った眉と目は、立体造形されたフィギュアみたいだ。
出されたおしぼりで手を拭くと、彼は爽快な笑みを私に投げつける。

「で、なぜあのカップを欲しがったのです?」

 佐山CMOが席についたとたん、すぐに前菜が運ばれてきた。
彼は私にアレルギーとお酒の可否を確認してから、何かのワインを頼む。

「祖父との、思い出の品だったので」

 オークションで競り落とし、ちゃんとお金を出して買ったのはこの人だ。
私が何か口出しできる立場にはない。

「大切にしていただけると、祖父も喜ぶと思います」
「あぁ、それなんだけどね。実は失くしなくしちゃったんだ」
「は?」

 失くした? おじいちゃんのカップを? こんな短期間で?

「え、どういうことですか」
「カップは、あの時一緒に来てた女の子にプレゼントしたんだ」
「はぁ」

 それは見た。
この人の隣には、ちゃんとした清楚なお嬢さまが座っていた。

「で、なくしちゃったんだって」

 佐山CMOの整い過ぎた顔が、無邪気に微笑む。
私はガタリと立ち上がった。

「ちょ、それって! あ……。くっ……」

 言いたいことは山ほどあるが、無理矢理飲み込んで座り直す。
持ち主は私じゃない。
持ち主は私じゃないんだから、何も文句は言えない。

「酷い話だと思わないか。安くはないプレゼントなのにさ。買ってすぐに失くすなんて、彼女として失格だよね」

 彼はにっこり微笑んで、肘をつき組んだ手の上に顎を乗せる。

「あ……。そ……、くっ」

 私は怒りに震える手を、テーブルクロスの下で握りしめた。
怒っちゃダメ怒っちゃダメ怒っちゃダ……。

「だからさ、もう彼女とは別れようと思ってるんだ」

 彼はアンティパストのサーモンを、器用にフォークで畳むとパクリと口に放り込んだ。

「で、もし別れるのに協力してくれたら、あのカップを君にあげようかと思って」
「は!?」

 ガタリと立ち上がる。
驚いた顔で見上げる彼に気づいて、すぐにストンと腰を落とした。

「もう飽きちゃってるんだよねー、あの子のこと。だから別れたくてさ。だって実際酷くない? マジであげて速攻失くすとか。だけどこれは、逆にいい口実が出来たと思って」

 彼は何一つ曇りのない透き通ったグラスを手に取ると、そこに注がれたワインを口に含んだ。
ゴクリと飲み込んでから、爽やかな笑顔を浮かべる。

「どうする? 君が俺の新しい彼女のフリしてくれたら、すぐに話がつくと思うんだけど。成功報酬は、君が泣くほど欲しがっていた、あのおじいちゃんのカップってことで。どう?」
「そ……そんなんで、簡単に別れてもらえるんですか? 相手が本当にあなたのことが好きだったら、浮気の一つや二つ、目をつぶるくらいはするんじゃないですか?」

 佐山CMOは筋金入りのお坊ちゃまだ。
お金持ちで将来性も確実だし。
そもそもそういうこと以前に、人の物に手を出すとか、いくらなんでも頼まれたって嫌だ。
彼は眉間にしわを寄せ、沈痛な面持ちで大きく息を吐き出す。

「はぁ……。俺って、常に自由でいたいタイプなんだよね。縛られたくないってゆうか……。特定の何かに囚われると、自由な発想まで奪われてしまう気がしない? それにさ、俺自身がまだ、真実の愛を交わす運命の女性と、出会えていない気がしてるんだ。心を激しく揺り動かすような何かが、彼女には足りなくて……」

 彼は本当にうんざりとした表情でまたため息をつき、手にしたフォークをぶらぶらと揺らしている。
クズだ。
正真正銘のクズだ。
こんなセリフ、本気で言っている人、生まれて初めて見た。

「で、どうするの? 君が断るなら、他の人に頼むけど」
「あ、えっと……」

 お、落ち着け私! 
これはチャンスだ。考えろ! 
ぐるぐるぐるぐる混乱する頭を抱えたまま、一生懸命言葉を探す。

「だ、だけど、失くしちゃったものを報酬にするって、おかしくないですか? 無いものなんですよね。無いものをあげるって言われても……」
「そこなんだよ」

 彼はキラリと目を輝かた。

「おかしな話だと思わないか? 失くしたのは、彼女の自宅だって言うんだ。だから俺に家まで探しに来いと」
「それは……」

 それは暗に、佐山CMOに自分の家に来てほしいってことなんじゃ……。

「なんで俺が彼女の家に? そちゃ一人暮らしの彼女の家ならすぐにでも飛んで行くけど、あの子、実家暮らしなんだよねー。そんなとこ、行きたくなくない?」
「くっ……」

 さらに強く拳を握りしめる。
落ち着け、落ち着け私。
人様の恋愛観とか、私には関係ないし!

「だからさ、俺と一緒に彼女の実家に行って、俺の代わりにカップを探してほしいんだ」
「ご、ご自分では探されないのですか?」
「は? ヤだよ。そんなの面倒くさい。やる気ないし」

 スープカップに入ったミネストローネが運ばれてきた。
まだ一切手をつけていない、私の分のアンティパストの皿の横に置かれる。

「紗和子さんは、食べないの?」
「食べます! 食べますとも!」

 俄然食欲が湧いてきた。
もうこんなもの、遠慮もクソも必要ない。
丁寧に並べられたフォークとナイフをわしづかみにすると、大きな皿にちょこまかと飾られた食材を5秒で平らげる。

「わーお。こんな豪快に食べる女の子初めて」

 紅茶のティーカップに毛が生えた程度のスープを一気に飲み干し、ガチャンと皿に戻した。

「つまり、彼女の家に一緒に行って、カップを探せってことですね」
「まぁ、そういうことかな」
「いいですよ。やりましょう」
「え、本当に! やったぁ。ノリがよくて助かる~」

 私は口の周りについた極上のスープを、グイッと手の甲でぬぐい取った。

「それで、本当にカップはいただけるんでしょうね」
「もちろん。そこは約束しよう」
「交渉成立です」

 分かった。
彼女のためにも、こんな男とはさっさと別れた方がいい。
グッと手を差し出したら、彼はにっこりと微笑んでそれを握り返した。
金持ちとか家柄とか、そういう問題じゃない。
単なるクズだ。

「はは。よかった。それじゃあこれから、作戦会議に入ろうじゃないか。面倒なことは一度で済ませたいからね。よろしく頼むよ」
「同感です。一度で済ませましょう」

 気持ちを切り替えよう。
これはビジネスだ。
仕事だ。
おじいちゃんのカップが私のものになるのなら、なんだってやる!

 それから、二人で練り上げた計画はこうだ。
佐山CMOの彼女こと宇野詩織さんのご実家に、私は三上恭平の孫として同席する。
詩織さんも会場で私のことを見ているはずだし、そこはすぐに信じてもらえるだろう。
ぜひもう一度あのカップを間近で拝見したいと私から佐山CMOに申し出たところ、彼から紛失したとのことを聞かされ、探すのを手伝いに彼女の家まで来た。

「紗和子さんは、俺の彼女のフリはしてくれないの?」
「彼女との関係は、ご自分で何とかしてください」

 佐山CMOはとてもわざとらしく、やれやれと残念そうに私をみつめるが、そんなことは気にしない。
恋人のフリなんて、絶対したくない。
非常識にも程がある。
そもそもこれ以上面倒に巻き込まれるのは絶対に嫌だ。
ノックが聞こえ、次の料理が運ばれてくる。
今が旬のアスパラガスの、さっぱりとしたペンネだ。
こんな話をしながらだと、せっかくのお料理も楽しめない。

「自分が三上恭平の孫だということを伏せておいてくれって言ったのに。俺の彼女って紹介されるより、そっちの方がいいんだ」
「恥はもう十分かいてきているので、今更平気です。そんなことより、佐山CMOの恋人だと誤解される方が厄介です」
「別に大丈夫じゃない? 今更彼女の一人や二人、増えたり減ったりしたところで、誰も気にしないと思うけど」
「私が気にするので嫌です」
「あ、そうなんだ」

 彼は本当にあどけない顔で、「ははは」と声に出して笑った。
その見た目だけは、無邪気な少年みたいだ。
実際に接してみれば、想像以上にヘンな人だったけど。

 詩織さん宅へ行く計画の合間に雑談を交わしながら、佐山CMOが大変な美術品好きだということはよく分かった。
そうじゃなきゃ、おじいちゃんみたいなマイナー作家のことなんて、知ってるわけないし。
私だって大好きなおじいちゃんのことを褒められ続ければ、気分の悪くなりようがない。
骨付き肉の食べ方が分からない私を見て、丁寧に取り方を教えてくれる彼に、少しはドキリとしている。
気づけば最後のドルチェであるラズベリーパイと表面がカッチカチのクリームブリュレも終わり、濃いめの珈琲も飲み干していた。

「実は彼女の自宅に、来週末に誘われてるんだよね。急なんだけど、行ける?」
「あ、はい。大丈夫です」

 そう即答しておいて、ハッと我に返る。
少しくらい、忙しいフリをすればよかったかな。
せめてスマホを取りだして、予定を確認するくらいすればよかった。

「よかった。じゃあ自宅まで送っていこう」

 彼が立ち上がるの見て、慌てて鞄を手に私も立ち上がった。

「あ、大丈夫です。電車で帰れますので」
「いやいや。これから大切な仕事を頼むビジネスパートナーなんだから。それくらいはさせてくれ」

 店を出たら、すでにタクシーが用意されていた。
乗車席の扉が開き、奥に押し込められる。

「あ、あの!」

 これじゃ、家に着いてもすぐに降りられない。

「大丈夫ですよ。俺が怪しい人間じゃないってことは、よく知ってるでしょ? ちゃんと送り届けつから」

 にこっと微笑むその笑顔に、ぐっと押し黙る。
確かに彼はうちの会社のCMOだし、私の上司だ。
もちろんおかしなことになるなんて、疑ってはいない。
だけど……。

 いつも渋滞している賑やかな繁華街を、タクシーはのろのろと進む。
夜の闇を照らす眩しいほどの街明かりが、車内にまで入り込んで来ていた。
車に乗り込んでから、佐山CMOは一言もしゃべっていない。
何か話題でも振った方がいいのかと思ったとき、私の鞄の中でスマホが振動した
。それにCMOが反応する。

「もしかして彼氏から? だから恋人のふりはダメとか」
「そんな人いません」
「あぁ、いや。もしそんな人がいるんだったら、申し訳ないと思ってね」
「それは大丈夫です」

 彼にそんなことを言われ、何となくスマホを無視して座り直す。
ツンと横を向いた私を見て、CMOはようやく笑った。

「はは。なら安心だ。心配して損した」

 そこからは、普段家で何をしているかとか、ずっとそこに住んでいるのかとか、他愛のない話が続く。
モテる人っていうか、仕事の出来る人っていうのか、こんなに気遣いが出来る人に接するのは、初めてかもしれない。
簡単なおしゃべりが適度に進み、タクシーは自宅前に止まった。
真っ先に彼が車から降りると、暗がりに広がる生け垣と古びた洋館を見上げた。

「あぁ、ここがあの名画『白薔薇園の憂鬱』のモデルとなったお庭ですか!」

 その言葉に、なんとなく分かってはいたけど、自分の胸がチクリと痛む。
家まで送りたかったのは、この庭が見たかっただけで、やっぱり私なんかが目的じゃない。
外壁の塗装は所々剥がれおち、今にも崩れ落ちそうな三角屋根の洋館は、廃墟そのものだ。

「えぇ、そうですよ。よくご存じですね」
「もちろんですよ。三上恭平の名を有名にした、一番の傑作ですからね」

 感嘆の息をもらしたかと思うと、そわそわと中をのぞき込もうとしている。
もう遅い時間だけど、そのためにわざわざここまで、私について来たんだもんね。

「中に入ってみますか? 少しだけなら、いいですよ」
「あぁ、それはとてもありがたい申し出だけど、今夜は遠慮しておきます」

 彼は私の予想に反してそう言うと、にこっと微笑んでタクシーのドアに手をかけた。

「また改めて、お邪魔させてください。今夜はもう遅いので、帰ります」
「はぁ……」

 ぼんやりと立ち尽くす私に、彼は不意に小指を差し出した。

「また来ます。必ず。約束」

 その屈託のない無邪気な仕草に、仕方なく小指を絡める。
彼は満足したように微笑むと、その指を解いた。

「それではお休みなさい。また連絡します」
「はい。お休みなさい」

 タクシーを見送った後で、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。
しまった。
「お休みなさい」じゃなくて「お疲れさまでした」の方が正解だったんじゃない? 
そうやって言ってきたのは向こうの方だったけど、私からの返事としては、間違ってたんじゃないのかな。
どうしよう。
ヘンって思われてたら、イヤだな。
失敗した。

 夜風に体を震わせる。
後悔したってもう遅い。
家に入ろうと門に手をかけた時、植え込みの影に誰かがうずくまっていることに気づいた。

「卓己? なにやってんの?」

 グレーのような緑のような、夜の闇に紛れやすいコートを着ているから、全然気づかなかった。
彼は両手に買い物袋をぶら下げたまま、もそもそと立ち上がる。

「紗和ちゃんこそ、なにやってたの」
「は?」
「何度も連絡したのに、返事なくて心配した」

 そう言われ、ハッと気づいてスマホを取り出す。
タクシーで鳴っていたのは、卓己からの電話だった。

「あぁ、ゴメン。人と会ってたから」
「人って、さっきの人?」

 立ち上がった卓己が、どんよりとうつむいている。

「そうだよ。仕事の話だったから、送ってもらっただけ」
「ほんとに?」
「本当だよ!」

 嘘はついてない。
キッとひょろ長い卓己をにらみ上げる。
だけどどうして、私がそんな言い訳なんかしなくちゃいけないんだろう。
クセのあるうねうねした前髪で半分隠れた目が、どんよりと私を見下ろす。

「仕事の話って、恭平さんのこと、会社じゃ内緒にしてるんじゃなかったの?」
「そうだよ。絶対に内緒だよ。それと今の話が、何か関係ある?」

 おじいちゃんの一番弟子として有名な卓己には、会社に来るなと言ってある。
そうでなくても新進気鋭のアーティストとして知られている彼といるところを誰かに見られたら、私はまた誰かの付属品なだけの存在になってしまう。

「じゃあなんで、さっきの人は庭を見に来たの。紗和ちゃんが恭平さんの孫だって分かってなきゃ……」
「し、知らないよ! 仕事の話ってのは、本当なんだから! そんなことあんたに関係ないでしょ」
「ぼ……、僕はずっと、紗和ちゃんから連絡が来るのを待ってたのに」
「そんなの頼んでもないし、約束もしてない!」
「……。そうだよね。紗和ちゃんがまだ落ち込んでるかと思って、勝手に様子を見に来ただけだから」

 そう言って、両手にぶら下げていた水炊きのセットらしい買い物袋を突き出す。
聞き取れるか聞き取れないか、聴力の限界のような声で卓己はつぶやいた。

「……。お休み」
「おやすみ!」

 袋を受け取ったら、卓己はふらりと背を向け、ふらふらと足元のおぼつかない様子で歩き出す。
なにそれ。
なんで私があんたなんかに、罪悪感を感じないといけないの? 
離れていく卓己にも聞こえるよう、私は立て付けの悪い扉を力任せにバタンと閉めた。




第4章


 約束の日曜になった。
のどかなお昼過ぎ、待ち合わせ場所の駅前に、一台の車が滑り込んで来る。
佐山CMOとの待ち合わせを、自宅前から少し離れた駅に変更してもらっていた。
出かけるところを卓己に見つかりでもしたら、何を言われるか分からない。
なんでこんなことに私が気を遣わなくちゃいけないのか分からないけど、とにかく大事な仕事の前に、イライラさせられることは避けておきたかった。

 車の窓が開き、後部座席から彼が手招きするのを見て、急いで駆け寄る。
そこへするりと乗り込んだとたん、車は静かに走り出した。

「待たせたね」
「そ、そんなことはないです……」

 彼は淡い空色のスーツにネクタイを結んでいた。
セミフォーマルで来るようにとは聞いていたので、私は紺色のしっかりめなワンピースを選んでいる。
気取ったオークション会場や展覧会に侵入しても浮かないようにと、リクルートスーツ以外では唯一のフォーマルワンピだ。
座席についた私を、彼は頭の先からつま先までじっくりと観察する。

「なるほど」
「な、なにか問題でも?」
「いや。何でもない」

 お、怒ってるのかな? 
口元に手をあて難しい顔をしたまま、佐山CMOは窓の方を向いてしまった。

「え、えっと……。本日は、よろしくお願いします」
「あぁ。こちらこそよろしく頼む」

 そうだ。
佐山CMOのことを気にしている場合なんかじゃない。
私の今日の任務は、おじいちゃんのカップを探し出すことだ。
最愛の彼を自分の家に呼びよせるための口実なんでしょ? 
そんなの楽勝じゃない。
多分彼が家についた瞬間、失くしたものも、あっさり出てくるから! 

 車は郊外の住宅地を進み、大きなお屋敷の前で止まった。
運転手が車を降りインターホンを鳴らすと、大きな門がゆっくりと自動で開く。
うちの傾いた木製の門とは大違いだ。
車寄せからエントランスへ向かうと、分厚い両開きの扉が私たちを待ち構えていた。
想像していたよりも、ずっと立派で見上げるほど大きなお屋敷だ。
私はゴクリと唾を飲み込む。

 もう一度整理をしておこう。
佐山CMOの恋人である宇野詩織さんは、私より二つ年下の24歳。
大学を卒業したのち、父の経営する大手保険会社に入社し、経理の仕事を手伝っている。
その会社はうちの会社とも関係のある、大事な取引先だ。

 重たそうな扉がゆっくりと開き始めた。
これから大仕事が待っている。
緊張に身を固めた瞬間、私の肩がグイッと抱き寄せられた。

「ちょ! 待って。なにこれ。佐山CMO、やめてください!」
「まぁいいじゃないか。今更照れることもないんじゃ……」
「いやいや、そういう問題じゃなくて!」

 押しのけようとしたら、さらに強く引き寄せられる。
このまま扉が開ききってしまったら、ヘンにいちゃついているように見られてしまう! 
私は肩に乗せられた佐山CMOの手を必死で下ろそうとするのに、彼はそうはさせまいとめちゃくちゃ力を込め抵抗している。

「だからこれじゃあ、彼女に誤解され……」

 扉が開いた。

「颯斗さん。いらっしゃ……い」

 ほらぁ! 
出迎えに来た詩織さんがめっちゃ驚いている。
佐山CMOに、後ろから半分抱きかかえられるようにされている私は、どうみたって彼といちゃついているようにしか見えない。

「ち、違うんです! これは佐山CMOが勝手に!」
「どうぞ。父がお待ちしております」

 彼女はにこりともせず、気持ちばかりの会釈をして、ふっと背中を向けた。
え? 詩織さん、反応薄くない? 
彼女なのに? 
嘘ついてまで自宅に呼び寄せた彼氏が、他の女と出会い頭に玄関でいちゃついてんのに? 

 彼女は腰まで伸びた真っ直ぐな黒髪をハーフアップにして、上品な淡いピンクのワンピースを着ている。
私のワンピより明らかに生地が上等なのは、見ただけで分かる。
デザインは少し地味……というか、古風な感じはするけれど、どうみたって正真正銘の絵に描いたようなお嬢さまだ。
昔のドラマに出てくる清楚なお嬢さまみたい。

「いやぁ! どうしても彼女が僕と一緒に来たいっていうもんだから。ねぇ、紗和子!」
「はい?」

 大きく振り返り、ギロリとにらみかえす。
肩に回された腕をはねのけると、黒褐色のオーク材で整えられた深い色合いの廊下をズカズカ進む。

「だってほら! 君がどうしてここに来たいって言うもんだからさぁ。彼女にも君を紹介したかったし」

 なにそれ。話が違うくない? 
私は恋人役はしないって、はっきり言ったよね。
怒りに任せにキッと振り返った。
佐山CMOの顔は引きつっている。
さっきのセリフだって若干裏返っていたけど、自分がいま事前の約束を反故にして、おかしなことやってるって、ちゃんと分かってるよね!

 肝心の詩織さんは、一度もこちらの様子を気にするころなく、普通に私たちを居間へ案内する。
広々としたバーカウンター付きの広間の向こうには、純日本風庭園が広がっていた。

「やぁ、いらっしゃい。颯斗く……ん?」

 ロマンスグレーのキュッと引き締まった体格のいい初老の男性は、私を見たとたん、明らかな不快の表情に顔を歪めた。
佐山CMOの隣で、私は深々と頭を下げる。

「先日オークション会場で佐山CMOと三上恭平のカップを競い合い、泣いて逃げ出した者です」
「あ? あぁ、そうですか。やぁ颯斗くん。お久しぶりだね」

 詩織さんのお父さまは速攻で私を無視して、佐山CMOににっこにこの笑顔ですり寄った。
だがそんなお父さまにもCMOは負けていない。再び肩に手を乗せると、グイと引き寄せた。

「紗和子さんはうちの社員で、三上氏の実のお孫さんだったんですよ」

 まだ恋人設定を諦めていない往生際の悪さに、思いっきり足を踏んづけておく。

「いった!」
「あの、宇野さん! 突然お邪魔するような形になって、申し訳ございません。あのカップは私と祖父の思いでの品だったので、どうしてももう一度だけ、一目見たいと佐山CMOにお願いして、こちらにお邪魔させていただきました。少しだけでも見せていただければ、すぐに帰ります」
「颯斗くん。最近家に顔出してくれないもんだから、心配していたんだよ。調子はどう? まぁこっちに座ってよ」

 くそ。このオヤジ、私のことは完全無視だ。
ソファに座るよう促されている佐山CMOが、私の手を握り道連れにしようとするのを、ガツンと振り払う。
彼はそのままオヤジに連れられると、愛想笑い全開でゆったりとしたソファに深々と腰を下ろした。
それでいい。
だけど、あれ? 
肝心の詩織さんは? 

 ふと部屋を見渡すと、彼女はバーカウンターの一角で淡々と紅茶を淹れていた。
彼女のお父さまはうきうきで佐山CMOに話しかけているのに、これってどういう状況? 
てゆーか、カップは? 
もしかして佐山CMOを自宅に呼びつけたかったのは、詩織さんの方じゃなくて、このオヤジの方なの?

 華奢なティーカップにいれられた、琥珀色のお茶が爽やかな香りを放っている。
それを詩織さんは佐山CMOとお父さまの前にだけ置くと、自分と私の分はバーカウンターに用意した。

「どうぞ。紗和子さんもこちらへ」

 んんん? 
これは、どう判断すればいいの? 
どうみたって詩織さんの表情は重く暗い。
大好きな彼がうちに遊びにきて、実の父親と談笑しているのを、喜んでいる彼女なんかでは決してない。
詩織さんは、紅茶を用意した席に私が着くのを待つことなく、庭を眺めながら独りで黄昏れている。
もしかして、私の方が佐山CMOに騙されてる? 
詩織さんは退屈そうに、添えられたクッキーを紅茶に浸した。

 彼女と佐山CMOが付き合ってるっていうのは、ウソだ。
女としての直感が、私にそう告げている。
だとしたら、どう振る舞うのが正解? 
申し訳ないが、私の目的は佐山CMOの援護ではなく、カップを探し出すこと。
ただそれだけだ!

「ね~えぇ、颯斗さぁ~ん?」

 作戦変更。
可能な限り、甘ったるい大きな笑顔を作って、佐山CMOをくるりと可憐に振り返る。
驚きを隠せない彼の隣にドサリと無遠慮に腰を下ろすと、その腕に自分の腕を絡めた。

「早くおじいちゃんのカップが見たぁ~い!」

 態度を急変させた私にとまどいつつも、佐山CMOは演技たっぷりの引きつった笑顔をこちらに向ける。

「あぁ、そうだねぇ紗和子! 俺も早くおじいちゃんのカップが見たいなぁ」

 完璧な棒読み。
もうちょっとちゃんとして。

「だよねー、はやと♡」
「ねー紗和子♡」

 私は彼のほっぺたを人差し指でつんとつつく。
この状況なら、佐山CMOとラブラブであることを演出した方が、さっさと隠し場所を白状して私を追い払おうとするに違いない。
案の定、オヤジの態度が変わった。

「あぁ、すみません。三上恭平氏のお孫さんがいらっしゃるとお伺いしていれば、こちらの準備もよかったんですけど」

 やっぱりそうだ。
佐山CMOと詩織さんをくっつけたいのは、お父さんだ。

「いえ。紗和子と一緒に突然押しかけたのは、こちらの方ですから。お気になさらず」

 そう言つつも、佐山CMOは私の頬ゆっくりと撫でた。
私はうっとりと目を細めてみせる。

「では、彼女の分の食事も用意をさせますので、もう少しお待ち下さいね」

 は? 食事? そんなの聞いてない。
絡めた腕の下から見えないように、ぎゅっと添えた手に力を込める。
佐山CMOの眉がわずかに歪んだけれども、そんなことは気にしない。

「カップをなくされたってお聞きしたんですけど」
「えぇ、そうなんです」

 オヤジは圧倒的な威圧感で、私を見下ろした。

「せっかく颯斗くんから詩織にといただいたのに、申し訳なくて。詩織と一生懸命探しているんだけど、どうしても見つからないんだ。せっかくの颯斗くんから詩織にとプレゼントされたものなのに。それで颯斗くん、詩織と一緒に以前話した……」

 詩織さんのお父さまこと、孝良氏は、佐山CMO相手に延々とおしゃべりを始める。
このオヤジ、最後までカップを見せないつもりか? 
どれだけ長居しても、カップが出てこないことには、ここに来た意味がない。
初手から佐山CMOに夢中のお父さまは、継続して私を無視しているので、私も気にせず無視してソファから立ち上がる。
ガラスの引き戸越しに庭を眺めるふりをしながら、カップの隠し場所を予測してみた。

 大きなお屋敷だ。
隠してあるのは家の中として、部屋数はいくつあるのだろう。
建物自体が小さな図書館か美術館並だ。
まずはこの部屋、リビングルームから。
バーカウンターの中にいくつかグラスが並んでいるが、そこにもちろんカップはない。
部屋の中央に大きなソファとローテーブルが置かれ、本棚とテレビが壁際に並んでいるが、この部屋のパッと見える位置にカップは置かれていない。
部屋から庭に接続する部分は一部が板張りになっていて、全ての部屋をつなぐ廊下のようになっていた。
ちらりとのぞいた続き部屋となっている隣のダイニングルームでは、専門のケータリング業者でも頼んだのか、制服っぽい服を着た人たちが、慌てふためいて調理を始めている。
急に人数が増えたせいだ。
ごめんなさい。
突然私なんかがお邪魔して……。

「そうだ!」

 私はくるりと振り返った。

「よかったら、詩織さんのお部屋を見せてくれない? 本物のお嬢さまのお部屋って、すっごい興味ある~!」

 空になったカップの前で、庭を眺め黄昏れていた詩織さんが、不思議そうな視線を私に向けた。
ごめんなさい。
本当はあなたのお部屋にあまり興味はないけど、カップを隠しているのなら、彼女の部屋の可能性が一番高い。

「ねぇ、行ってみたいなぁ。いい? ダメ?」

 潤んだ瞳で、キラキラと見上げてみる。

「あぁ。まぁ、いいけど」

 彼女は意外にも、あっさりと許可してくれた。

「どうぞ。こちらです」
「あ、ありがとう」

 佐山CMOは「俺を残していくつもりか」と恨めしそうにちらりと見上げてきたけど、お父さまと自分のことは、自分で頑張ってほしい。

 古風で清楚なお嬢さまに連れられ、リビングを出る。
廊下を進み階段を上ると、二階は北側に長い廊下が一本通っており、南に面して複数の部屋が並んでいた。
当然扉は全て閉じられている。キョロキョロと物珍しそうに見回すのも失礼と思いながらも、そうすることがやめられない。
これだけ広いお屋敷のなかでカップを捜索しなければならないことに、心が折れそうだ。

「すっご~い。とっても広いお屋敷ね」
「私の部屋はここよ」

 ニスのきいた焦げ茶色に光る重そうな扉を、彼女が開けてくれている。中に入った。

「え? え……っと、わ……わぁ! かわいいお部屋!」

 ひ、広い! 
一部屋で20畳はありそうだ。
女の子らしい少女趣味なピンクばかりの部屋に、ウォークインクローゼット、壁際に勉強机と本棚が二つ、大きなベッド。
可愛らしい飾り戸棚まで3つもある。
中央に敷かれたカーペットには、これまた可愛らしい小さな丸テーブルが直置きされていた。
可愛いけど、全体的にちょっと趣味はわる……独特なレトロ感がある部屋だ。

「ねぇ、色々とお部屋の様子を見せてもらってもいい?」
「えぇ、いいわよ」

 部屋のいびつな様子は多少気になるが、それにかまっている場合ではない。
カップだ。まずはこの部屋から、しらみつぶしに捜索していかないと。

 とりあえず、ゆっくりと室内を一周する。
パッと目につくところには置いていなさそうだ。
となるとクローゼットの中か、勉強机の引き出し、本棚の奥に隠されているか……、ベッドの下とか?

 ふと見ると、彼女は床の丸テーブルにじっと肘を置いたまま両手の指を組み、微動だにしていなかった。
何かじっと考え込んでいる様子で、まるで私に意識がない。
何を考えているんだろう。

「ねぇ、引き出しの中って、やっぱり見ちゃダメだよね?」
「別に。見たかったら、見てもいいですよ。どうぞご自由に」

 は? マジか。普通嫌がらない? 
だけどまぁ、許可ももらったことだし、遠慮なく。
戸惑いつつもガバリと勢いよく開けた引き出した中は、文房具とかノート、何かの小物やキーホルダーとかで、特に変わったものはない。
それでも唯一、このお嬢様お嬢さました部屋のその中にあって、異質な存在を放つ物体に、私の目は奪われた。

「ねぇ。これって、もしかして……」

 とりだしたのは、黒光りするスタンガン。
なんでこんなものが、こんなところに?

「あぁ、それは……。兄が買ってくれたんです。護身用にって。何ていうか、お守りみたいなものだから」

 彼女はそう言って疲れたような笑顔を見せると、また物思いにふけり始めた。
兄? この家には、お兄さんもいるのか。

 それにしても、詩織さんの様子は、大好きな彼がうちに遊びに来ているっていう雰囲気じゃない。
その彼は今、リビングでお父さまといちゃついている。
本当なら、恋敵である私とこんなことしてる場合じゃなくない? 

「ねぇ、この部屋の趣味、紗和子さんはどう思う?」
「え? なにが?」
「この部屋の中、全部父と叔父が選んで置いたものばかりなの」
「へ、へぇ~。そうなんだ」

 だからか。
昭和くさいというか、オヤジくさいというか。
完全に今を生きる女の子の部屋じゃない。

「ねぇ、紗和子さんは本当に颯斗さんと……」

 突然、廊下から激しい足音が聞こえたかと思うと、扉が勢いよく開かれた。

「詩織! 佐山颯斗が本当にこの家に来たのか!」

 なんの前触れもなく、いきなり彼女の部屋に飛び込んできたのは、妙なおじさんだった。
若作りをしているが、どうしたって積もる年齢を隠せていない。
飛び出た腹にどんなお洒落な格好も無力だった。
サロンで焼いたのであろう赤茶けた肌に、深く刻まれた皺。
髪は不自然に2色にカラーリングされて、白すぎる歯には違和感しかない。

「叔父さん! 勝手に部屋に入って来ないでって、いつも言ってるでしょ!」

 詩織さんの顔に、明らかな嫌悪の表情が浮かぶ。
しかしそんなことは一切気にする様子もなく、この乱暴なおっさんは、スタンガンを持っていた私を容赦なく怒鳴りつけた。

「なんだそれは! お前は一体、何を持ってる」
「叔父さんには、関係ないから!」

 それまでは、ただただけだるげだった詩織さんが、人の変わったように反発し始めた。
彼女をなだめようとする叔父の手を払いのけ、ヒステリックにわめいている。
叔父の方も負けじと怒鳴りだした。

「なんだ、このクソガキが!」

 叔父の拳が振り上がる。
え? 詩織さんを叩く気? 
体が動いた。

「ちょっと、なにやってんのよ! なにも暴力まで振るうことないでしょう?」

 私はついそこへ割って入っていた。
声を張り上げる。
彼は私の存在を思い出したかのように見下ろした。

「は? 詩織、なんだコイツは!」

 私は彼女を叔父から引き離す。

「三上紗和子。26歳、会社員です!」
「篤弘さん。いいからもう出てって……」

 詩織さんの言葉に、彼は私たちをギロリとにらみつけ、舌打ちを残しようやく出ていった。
乱暴に閉められた扉の音が、バタンと部屋中に響き渡る。
足音が遠のいていくのを確認すると、詩織さんは深く息を吐き出し、ようやく緊張を緩めた。

「ごめんなさいね。変なところを見せちゃって」
「ううん。どうってことないから。平気よ」
「ほんとこんな家、早く出て行きたい」

 そうつぶやいた彼女の目には、あふれんばかりの涙が浮かんでいた。
なんだかワケありな彼女に、つい気持ちを動かされてしまう。
清楚を絵に描いたような美しいお嬢さまだ。
艶やかな黒髪にふわりと結んだリボンが揺れている。

「ねぇ。詩織さんは、佐山CMOのどこが好きなの?」

 彼女の震える肩に、そっと声をかけた。
あんなクズ男でも、ここにいるよりマシなのかもしれない。

「え? あぁ。えっと……」
「詩織さんは、佐山CMOとつき合ってるんじゃないの?」
「あ、あぁ。別につき合ってるとか、そういうわけじゃないんだけどね」

 彼女は困ったように、ふいと顔を背けた。
やっぱり。
この2人は、全然そんな関係じゃなかった。

「でもほら、あんな高額なカップをオークションで競り落としてまで、詩織さんにプレゼントしてくれたんだよ? 愛されてるよねー。私なんて、あの人からそんなことしてもらったことないからぁ~」

 佐山CMOの本命は詩織さんで、私はそのCMOに片思い中ってことにしておけば、ちょっとは本当のことを話してくれる? 
少しでも彼女の力になれることはないのかな。
なんて、そう思っているのに、詩織さんは静かにほほえんだ。

「紗和子さんは、颯斗さんのことが本当に好きなのね」
「ち、ちがっ。べ、別に、好きっていうかぁ~、どうなんだろうってかんじ? あはは。別にほら、私なんか彼のタイプじゃないだろうし」

 笑って誤魔化してみたけど、逆にどういう態度で彼女に接したらいいのかが分からなくなってしまった。
恋する女の子設定というのも、なかなか難しい。

「颯斗さんって、優しいよね。いい人だと思う」
「まぁねー!」

 肩までの髪を指に絡め、くるくる誤魔化す私に、彼女はまた少し笑った。
詩織さんの私に向けたその微笑みは、完全に恋敵に接している人間の態度じゃない。
他人の恋を応援する態度だ。

「そうだ。紗和子さんは、ちょっとここで待ってて。リビングの様子を見てくるから」

 え? 私を一人この部屋に置いていくの? 
彼女はぺこりと頭を下げると、軽快に立ち上がり、バタンと扉を閉め行ってしまった。

 こ、これは、ビッグチャンス到来!? 
扉が閉まったその瞬間、私はパッと部屋を振り返った。
今のうちにクローゼットの中を確認して、本棚や戸棚の中も全部見れれば……とは思うものの、罪悪感の方が勝って、クローゼットに伸ばした手が取っ手まで届かない。
早く。
早くしないと、すぐに彼女が帰ってきちゃうから……。
頭ではそう分かっているのに、体は動かない。
ふとベッドが目に入った瞬間、私はガバリと床に伏せた。
これくらいしかできない! 
覗いたベッドの下には、ほこりひとつ落ちていなかった。
何もない空っぽだ。
すぐさま立ち上がり、瞳孔を最大限に広げ、机の上と飾り戸棚の表面を凝視してみるも、やっぱりカップは見当たらない。
てゆーか、小物や本、ぬいぐるみなんかが置かれているものの、陶器製のそこそこ大きなカップを隠すようなスペースは、パッと見て分かるようなところにはないんだなぁ~。

 取り残された広い部屋で、圧倒的絶望感に襲われている。
きっと私はカップを見つけ出せない。
どう考えたって、初めて来たよそ様の家を漁るなんて無理だ。
私がここに来た事情を彼女に正直に話して、協力してもらった方がいいんじゃないだろうか。
彼女が佐山CMOのことを本当に好きじゃないのなら、助けてくれそうな気がする。
高い買い物だ。
もう自分の手に入らなくたっていい。
そもそも佐山CMOは私にと言ってくれたが、現在の持ち主は詩織さんだ。
最後にひと目だけ、もう一度会ってあのカップにお別れが言いたい。

 廊下を歩く足音が聞こえてきた。
私はとっさに本棚の背表紙を見ているフリをする。

「お待たせ。もうちょっと食事まで時間がかかるみたい。ここで待ってる?」
「う、うん。そうだね」

 彼女は床の丸テーブルに腰を下ろした。
話を切り出すなら今だ。
ちゃんとお願いすれば、彼女なら分かってくれる気がする。
少しだけ、一瞬だけでいいのでカップを見せてください。
そうしたら、また隠してもらってかまいません。
今後一切CMOにも話したりしません。
だからお願いです。
最後にひとめ……。
彼女の前に、意を決して座り込んだ瞬間、壁に設置されたインターホンが鳴った。
詩織さんが立ち上がる。

「もしもし。お父さん? うん、分かった」

 彼女は受話器を壁に戻すと、私を振り返った。

「リビングに集まれだって。行こうか」
「う、うん」

 話を切り出しにくくなっちゃった。
詩織さんに促されるまま部屋を出る。
廊下に出た私たちは、無言のまま階段を下りた。
どうしよう。
本当に家の中でなくしているのかな。
どうやってカップを探しだそう。
カップは今、どこにある?

 呼び出されたリビングには、ここにいる住人全員が集合していた。
詩織さん、詩織さんの父の宇野孝良氏、その弟で、さっき彼女を怒鳴りつけていた叔父の宇野篤広氏と、スタンガンを買い与えたという兄の学さん。
私と佐山CMOだ。

「せっかく颯斗くんからいただいたカップだったのに。なくしたみたいで、本当に申し訳なかったね」

 そう言う父の孝良氏は、にこにこと笑って楽しそうだ。
全く悪びれる様子もない。

「詩織は早くに母を亡くしていてね、男ばかりの家で育った娘には、幸せになって欲しいんですよ」

 そう言うと、彼は私たちに背を向けた。

「颯斗くんから詩織にいただいたカップだけどね……」

 リビングルームの壁一面を埋め尽くす重厚なシェルフの、その戸棚を覆うガラス扉を孝良氏は開いた。
木箱を取りだす。

「実はちゃんと、私が見つけてここに……」

 その木箱を開けた瞬間、彼の顔色がサッと変わった。

「あ、あれ? こ、ここに、確かに入れてあったんだが……」

 明らかにうろたえ始めた父に、詩織さんがすかさず割って入った。

「それが見つからないから、颯斗さんにも探してもらおうって、うちに来てもらったんじゃない」

 彼女はキリッとした顔を上げ、集まっていた全員の顔を見渡した。

「私的には、カップのことなんてどうだっていいんです」
「何を言っているんだ、詩織! お前は突然、なにを言い出すんだ」
「だってあれは、お父さんが!」
「うるさい! 詩織は黙って言うことを聞きなさい」

 え? ちょっと待って。
詩織さんがなんでそんなことを言うの? 
それはもう捨ててしまったとか、処分しちゃったってこと? 
足元がふらつく。
もしかして私は、もう二度とあのカップをこの目で見ることが出来ないの?

「まぁ僕的にも、詩織さんがカップをなくしてしまったこと自体は、特に気にしてないんですけどね」

 一触即発のにらみ合いを始めてしまった父娘二人に、佐山CMOは苦笑いを浮かべる。

「でも、彼女は残念がっているかも。ね?」

 そう言うと佐山CMOは、私の肩を抱き寄せ、髪にチュッとキスをした。
は? なにやってんのこの人! 
そのまま肩に腕を置いて、もたれかかってくる。
確かに父娘喧嘩はその瞬間消えてなくなったけど、また違う衝撃が部屋全体に走ってますけど!? 
だから私にかまうなと、あれほど注意しておいたのに! 
CMOは完全に痴情のもつれに、私を巻き込むつもりだ。
最悪。

「だ、だったら、みんなでカップを探しません? そのために私たちは来たんですもの。ねぇ? 佐山CMO」

 肩から腕を下ろそうとしない佐山CMOを、力ずくで押し退ける。
てゆーか、カップの存在が本気で危うくなっているいま、私は何をしにここまでやってきたのか分からないじゃない。
本気で泣きそう。
その雰囲気をようやく察したのか、佐山CMOが賛同した。

「そうだね。じゃあ紗和子さんと僕は、一緒に探そうか。てゆーか、他の人のお家を探るだなんて失礼だから、僕と君はここで大人しくしていた方がいいんじゃないかな」
「いいえ! 私はカップが見たくて来たんですもの。佐山CMOも真剣に探してください」

 このバカ男! 
佐山CMOじゃなかったら、本気で噛みついてやったのに! 
泣きそうになるのをグッと我慢した私に、詩織さんも味方してくれた。

「そうよね。本来の目的はそれだったんですもの、私はリビングをもう一度探すから、颯斗さんと紗和子さんは、どうぞこの家の中のお好きなところを探してください。ね、お父さん。構わないでしょう?」
「あ、あぁ。詩織がそう言うのなら……」
「お父さんたちは、それぞれご自分のお部屋を。もしかしたら、どこかにうっかり紛れ込んで入ってしまったのかもしれないし。そういうことも、あるでしょう? 自分の部屋の中こそ、他人には見られたくないでしょうから」

 詩織さんと父孝良氏の間に火花が再発する。
叔父の篤広氏はおろおろとし、兄の学さんはやれやれとため息をついた。

「じゃ、僕たちは先に行ってようか!」

 佐山CMOが珍しく空気を読んだのか、それとも読まなすぎるせいなのか、私の腰に腕を回した。
その瞬間、居た全員の視線が一斉に集まる。
彼は硬直する私をリビングから連れ出した。
廊下に出て、背後で扉が閉まった瞬間、彼の腕を振り払う。

「ちょっと! 真面目にカップを探す気あるんですか!」
「はぁ~。それは君の仕事だろ」

 彼はぐったりと疲れ果てた様子でうなだれる。

「俺はもうさっきからずっとお父さんの自慢話を聞かされて、うんざりなんだ。どこかでちょっと休憩しよう。疲れたよ」

 彼は天窓から西日のさす薄暗いリビング前の廊下で、彼はキョロキョロと辺りを見渡す。
そんなことより、カップの行方だ。
本当になくしたの?

「さっきまで私は詩織さんの部屋にいたんですけど、あそこにカップはなさそうですね」
「え? 彼女の部屋を漁ったの?」
「それはさすがに出来ませんでした」
「じゃあ普通に考えて、一番怪しいのは彼女の部屋だろ」
「違います」

 さっきのお父さんと詩織さんのやりとりを見て、確信した。
カップは最初っからなくなったりなんかしていない。
そして今も、なくしてはいないんだ。
誰かが持っている。

「どういうこと?」
「カップを隠したのはお父さんです。佐山CMOをこの家に呼び出すための口実なので、なくなってないことなんて、詩織さんも知っていたんです」
「なるほど。それで彼はさっき俺にカップを見せようとして、本当になくなっていることに気づいた」
「カップの行方を知っているのは、詩織さんです」

 そして彼女の部屋にもない。
私がこの家に来てから、ずっと彼女と一緒だった。
彼女はリビングルームにカップがあることを知っていただろうし、もし彼女の部屋にあるのなら、私をあの部屋に一人で置いたりはしなかっただろう。
そして一度部屋を出て戻って来た彼女は、再び部屋を出るまでにカップを自室に隠したりしていない。

「じゃあ彼女に直接聞くのが、一番手っ取り早いってこと?」

 不意に背後でリビングルームの扉が開いた。
宇野家の男性三人が、それぞれの部屋へと向かう。
結局、詩織さんに全員説得されたらしい。
ブツブツと文句を言いながらも、そこから出て行くことを受け入れたようだ。
素直に立ち去る派手な格好をした叔父と、兄の後ろ姿を見送る。
最後にリビングから出てきたお父さんの厳しい視線を感じて、私はぴったりとくっついていた佐山CMOから、慌てて距離をとった。

「さ、さぁ、佐山CMO! 詩織さんとの愛のために、頑張って大切なカップを探しますよ! 私もお手伝いしますから!」

 お父さまに聞こえるよう、ワザと大きな声を出してアピールしておく。
CMOはムッとしたみたいだけど、私にはカップの方が大事だ。
その佐山CMOが、急にすたすたと歩き出した。
私は慌てて彼を追う。

「ねぇ、どこに行くんですか? 置いていかないでくださいよ」
「さっきは俺を置いて行ったくせに」

 それは仕方ないしょーが! 
彼はダラダラと続く廊下を進み、庭に面した壁の一部がガラス張りになっている、応接間のようなところに来た。
ここは廊下と床が一続きになっていて、視界を遮る扉もない。
ソファとローテーブル、ちょっとした小物入れが置かれているだけだ。

「ほら。ここから庭が見えるんだよ。立派な庭じゃないか」

 砂利の敷かれた庭の所々に、立派な松の木が植えられている。
佐山CMOはソファにドカリと腰を下ろし、動かなくなってしまった。
仕方なく私もその向かいに落ち着く。
カップの行方はきっと、詩織さんが知っている。
ただ見せてもらうだけでいいんだけど。
彼女にとってそれは、佐山CMOと父と自分を繋ぐ、大切なものなのだろう。
それをいくら見つけ出し、佐山CMOからあげると言われていても、欲しいですとはやっぱり言い出せない。

「私が詩織さんの部屋に行っている間、何してたんですか」
「俺? 最終的には、家の中をずっと案内されてた」
「このお屋敷の中を?」
「そう」

 彼はずるずるとソファに飲み込まれるように座り込むと、スマホを取りだしてしまった。
特に何かを見ているといった様子でもなく、つまらなさそうにずっとそれを操作している。
どうしよう。
でもやっぱり私は……。

「ちょっと、家の中を散歩してきます」

 私はふらりとそこから離れた。
日はすっかり西に傾き、春らしい山吹色の西日が松の木を照らしている。
重厚な趣の薄暗い廊下を、行く当てもなく彷徨い始めた。
詩織さんが今カップを持っているだろうというのも、所詮私の憶測でしかない。
もし本当になくなっていたら? 
とっくの昔に壊されて、粉々になっていたら? 
そんな不安がどうしても拭いきれない。
もらえなくたっていい。
大事にされていなくても、無事であってくれればそれでいい。

 あのカップは、本当は私が作ったものだ。
夏休みの宿題か何かで、粘土細工を作ろうとして途中で放り投げてしまったものを、おじいちゃんが作り上げて焼いた。
結局学校へは持っていかなかったけど、きれいな宇宙色のカップは、私の大切なおままごと道具になった。
庭で積んだ草を詰め、ビー玉を転がし入れて遊んだ。
あのカップがもうこの世にないなんて……。

 佐山CMOがすっかり動かなくなってしまった応接間のような空間から、床続きになっていた一階の廊下の奥で行き詰まる。
家の中を好きなように探していいと言われても、どこを探していいのかが分からない。
もし私が隠すとしたら、どこに隠す? 
誰にも見つからないところって、自分の部屋じゃないとしたら、どこになるんだろう。

 二階に上がる。
上りきったとたん、手前から2つ目の扉が開いて、お父さまの孝良氏が出てきた。
私をギロリとひとにらみしてから、詩織さんの部屋の前を通り階段を下りてゆく。
リビングに戻るつもりかな? 
お父さまの部屋にも、多分カップはない。
だって彼は、リビングにそれがあるものと信じていたから。

 二階はどうやら兄の学さんの部屋と、叔父の篤広氏の部屋も横並びになってるみたいだ。
他の部屋は? 
トイレとお風呂になっている。
それと、リネン室っていうのかな? 
脱衣場? 
タオルや替えのシーツ、洗剤とかトイレットペーパーなんかのおいてある倉庫みたいなところがあった。
私は吸い込まれるように、ふらりとリネン室に入り込む。

 こんなところに大切なカップを隠すはずもないだろうけど、何となくチェックしてみる。
棚の隙間やタオルの奥、どこを探してもやっぱり見つからない。
もうあきらめた方がいいのかな。
結局なくしたままにしておいた方が、彼らにとっては都合がいいのかもしれない。
佐山CMOとの繋がりを保つ手段だと考えれば、別に私なんかにわざわざ見せてやる必要もないんだ。
娘の恋敵になんて、どんな気を遣う必要がある? 
どこまでいっても、あのカップが私のものになるなんてことはないのに……。

「あぁ、こんなところにいたんですか」

 突然の声に振り返る。
詩織さんの兄の学さんだ。

「カップ、見つかったみたいですよ」
「え? カップが、本当に見つかったんですか?」
「はい。リビングに行きましょう」

 は? マジか! 
お父さん自身も大騒ぎしていたわりには、ずいぶんあっさりしてない? 
はやる気持ちを抑え、私は学さんと一緒に階段を下りてゆく。
詩織さんによく似た黒髪で落ち着いた面持ちの彼は、心地よい低音ボイスでにこやかに話す。

「紗和子さんは、颯斗さんとずいぶん仲がよろしいんですね」
「いいえ。単なる従業員と上司の関係です」

 愛想笑い全開の笑顔を向ける。
私はあなた方の敵ではないのですよーと、可能な限りアピールしておかねば。

「あれ、そうなんですか?」
「えぇ、当然ですよ。詩織さんという立派な恋人のいる人が、私みたいなのを相手にするワケがないじゃないですかぁ~。あははは!」
「はぁ。そうなんですねぇ」

 必死で誤魔化しながら、長い廊下を移動しリビングに入る。
お父さまの孝良氏が宇宙色のカップを持ち、にこにことそこに立っていた。

「ほら。ちゃんと見つけてあったんですよ、颯斗さんのカップ!」

 あぁ、よかった! カップは無事だった。
捨てられてもなかったし、壊されてもいなかった。
ホッとした瞬間、目に涙がにじむ。

 これであのカップは、私の手に戻ることはなくなってしまった。
元々、自分の物になるだなんて、そんな上手い話があるわけなかったんだ。
それでも最後に一目、このカップに出会えてよかった。
私は持ち主の手にしっかりと握られたカップをしみじみとながめる。
この子とは今日で本当のお別れだ。

「いつ見ても、ステキなカップですね」

 さようなら。私の思い出のカップ。
今度こそ大切に、幸せに愛されてね。

「あぁ。あなたは確か、このカップの制作者のお孫さんだったとか」
「えぇ」
「競りの様子を、詩織から聞きましたよ。まぁ、仕方ないですよねぇ、こればっかりは」

 ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべると、孝良氏はそそくさとカップを木箱に戻し、元の戸棚に片付けてしまった。
ちぇ、もっとじっくり見ていたかったなぁ。
見るくらい、いいじゃないか。
減るもんじゃないし。

 孝良氏は後からやって来た佐山CMOに、大げさな身振り手振りで相変わらず媚びを売っている。
この人たちも大変だな。
お付き合いって難しい。
私だってちょっとはこの人たちに、同情している。
でもこれで、私の役目も終わった。
ほっと息を吐き出す。
目標達成。
早くうちに帰りたい。

「あははー、よかったなぁ! 紗和子さん。カップが見つかって!」

 100%私の気が抜けたことに気づいたのか、CMOは私の肩を掴み、大げさにそれを揺すった。
カップが自分のものにならないとはっきり気がついた今、私はもう帰りたい。
きっと佐山CMOに「あげる」だなんて言われて、舞い上がっていただけなんだ。
やっと冷静になれた。
騙された。
ついてきた私が悪いけど。

「君もうれしいだろう! もっと喜んだらどうだい?」
「ええ、そうですね」

 そんなに肩を揺すられても、もう知らないし、どうでもいい。

「CMO。私、帰りたいです」
「俺を置いてか?」
「関係ないですよね。帰りたいです」
「ちょっと待て。俺はこれからちゃんと……」

 全員が集まったリビングに、お父さまの声が響いた。

「食事の準備が出来たようですから、こちらへどうぞ」

 佐山CMOは、ここぞとばかりに私の耳元にささやく。

「ほら。君のために急遽用意されたんだぞ。わざわざ時間をかけて作り直させたんだ。それを無駄にするつもりか?」
「うっ……」

 私が来たことで、慌てて作り直しているスタッフさんの様子を見ている。
おじいちゃんの作品を買い戻すため、日々の節約は当然食費にも及んでいた。
ここで一食分浮くのは、大変ありがたい。

「ま、まぁ……。た、食べ物を無駄、に、するのは……。私の、思想信条に関わりますので……」
「だろ? だったら、しっかりいただいて帰りなさい」

 再度お父さまの声に促され、ようやく佐山CMOから開放された。
今さらもう、なんだっていい。
食べるものだけ食べたら、帰ろう。

 座席は長いテーブルの一番上座に、佐山CMOと詩織さんが向かい合って座り、佐山CMOの隣に兄の学さん。
詩織さんの隣に父の孝良氏がついた。
テーブル中央には仕切りのように花が飾られていて、そこから私と叔父の篤広氏が向かい会う形になっている。
なんだろう、このあからさまな差別感。
だがそんなことも、もはやどうだっていい。
私に残されているのは、ご飯を食べてさっさと帰ることだけだ。

 テーブルでは佐山CMOサイドに座っているから、兄の学さんを挟んで隣にいるCMOの表情は、ここから全く見えない。
それでもあの人がいま、非常に困っていることだけは分かる。
まぁ確かに、詩織さんはいい子だけど、ここのファミリーはキャラが濃すぎるよな。
あれだけお父さまに猛プッシュされても、距離を置きたくなる気持ちはよく分かる。
佐山CMOは次男だったっけ? 
ここに婿入りするのも、キツいよなぁ~。
だけどそれを助ける義理は私にないので、自分でなんとかしてください。

 食事が始まった。
上座の四人は何やら楽しく談笑を続けている。
会話の内容? 興味ないね。
お皿にちょこっとずつ出てくるお洒落な料理を、一口で放り込んでから、次の皿が出てくるまでの時間をぼーっと天井を見上げて過ごしている。
早く帰りたい。
そもそも私は、お呼ばれしてない邪魔者なんだし。

 ふと視線を戻すと、私の正面で初対面からずっとイライラして全く落ち着きのない叔父の篤広氏が、さらにイライラを募らせていた。
見る限り、明らかに怒りながらご飯を食べている。
あぁ、なんなんだろうな、この人。
見てるだけで疲れる。
こんな叔父が自分と同じ家にずっといるってのも、それだけで気が滅入るのだろうな。
その篤広氏が、突然ギッと私をにらみつけた。

「そう言えば、このお嬢さんはカップが見たくてここに来たんだったよなぁ。それなのに、せっかくのカップが片付けられてしまったままじゃあ、つまんないよなぁ」

 そう言うと彼は立ち上がり、戸棚にしまわれたカップを取りだした。
私の目の前にそれを置く。

「おい、篤広。それは颯斗さんから詩織にいただいた大切なカップなんだから、丁寧に扱えよ」
「兄さんは相変わらず、何にも分かっちゃいないんだよなぁ!」

 今度は兄弟でごちゃごちゃと小競り合いが始まってしまったけど、正直私にはこのファミリーの確執なんて、どうだっていい。
目の前に置かれたおじいちゃんのカップを見ながら、リゾットのようなものを口にする。
あぁ、幸せだ。
もうこれで、思い残すことはなにもない。
家長である孝良氏の心配はよそに、カップは結局そのまま、食事が終わるまで私の目の前に置かれていた。
やがて最後のデザートが運ばれ、食事会は終わる。

「じゃ、カップも見つかったことだし、僕たちはそろそろお暇しようか。ね、紗和子さん」

 ケータリング会社の人たちが、広いダイニングルームに設置されたテーブルを片付け始めた。
目の前にあったカップは、叔父の篤広氏が戸棚に片付けている。
あぁ、さようなら。
私のおじいちゃんのカップ。

「まぁそんなことをおっしゃらずに。颯斗くん、もっとゆっくりしていきなさい」

 帰ろうとした佐山CMOを、父の孝良氏が引き留める。
私は引き留められないので、そのまま帰る。

「じゃ、私はこれで……」

 そそくさと鞄を探す。
えーっと、どこに置いてたっけ。
退散しようとした私の腕を、佐山CMOはガッとつかみ取った。

「は?」

 抗議の視線を思いっきり彼に投げつける。
放してくれ。
私は帰る。
充分にカップも堪能したし、もうこんなところに用はない。

「紗和子さん? ほら、孝良さんもおっしゃっていることだし、もうちょっとここにいなさい」
「やだ」

 逃げようとする私を、佐山CMOは必死で引き留める。

「業務命令だ」
「そんな規約ないです」
「頼むからもうちょっと居てくれないか」
「やですよ。そもそもですけどね……」

 私たちの小競り合いを横目に、その孝良氏が動いた。
ダイニングルームからひと続きになっているリビングのバーカウンターから、何か飲み物を持ってくるつもりらしい。
孝良氏は、カウンターの奥へ入ってしまった。
あぁ、私は本気で、早く帰りたいだけのに。

「放してください」
「まぁそんなこと言うなよ」

 佐山CMOに引きずられ、リビングルーム窓ぎわのソファに無理矢理座らされる。
片付けの終わったケータリング会社の人たちは、今度はカウンターの中に入ると、フルーツやつまみの用意を始めていた。

「この借りは、必ず返してもらいますからね」
「あはは」

 ウイスキーのセットをお盆のせて戻ってきた孝良氏は、私たちの向かいのソファに腰を下ろす。

「本当にお二人は、仲がよろしいんですね」
「えぇ、まぁ」
「いいえ! めっそうもございません。ただの上司と社員ですから!」

 佐山CMOの手が私の肩を抱き寄せるのを、思いっきりつねって払い落とす。
CMOの携帯が鳴った。

「あぁ、ちょっと失礼」

 そう言って、画面をちらりとチェックした彼は、同じ部屋に離れて一人座っていた詩織さんを振り返った。
ただ彼女をチラリと見ただけで、すぐに視線をスマホに戻す。
CMOはその場から動かず、操作することもなく画面をじっと見つめていた。

「詩織もこちらに来なさい!」

 父親からの恫喝に近い呼び声に、彼女は渋々と立ち上がった。
孝良氏は宿敵を前にしたかように私をにらむ。

「詩織は最近の若い子に比べて、遠慮深い子でしてね」

 詩織さんはのろのろと近づいてくると、父親の横に腰掛けた。
その瞬間、再び佐山CMOの携帯が鳴る。
彼はやっぱりそれをチラリと見ただけで、返事も打たずにそのまま背広の内ポケットに片付けてしまった。

「颯斗くんは、詩織の部屋にはもう入りましたっけ? 二人の邪魔はしないので、数時間くらいは大丈夫ですよ」

 孝良氏はいやらしい笑みを浮かべガハハと笑った。
このオヤジは実の娘を前にして、そういう恥ずかしいことを平気で口にするタイプなのだ。
詩織さんに心底同情する。

「いや僕は、まだお邪魔したことはないですよ」

 佐山CMOも困ってるし、詩織さんも呆れてる。
こういう時に奥さんがいたら、このオヤジの暴走を止められたんだろうけどな。
私も早くに母を亡くして父と祖父の三人暮らしだったから、男ばかりが残された家での彼女の状況は、なんとなく理解出来る。
大事にされていることは分かるけど、自分の求めるように理解はされ難い。
それを贅沢だとか我が儘と言われると、なおさら居場所がなくなってしまう。

「詩織は本当に慎ましくて大人しいから。ねぇ、紗和子さんもそう思いませんか?」

 不意にそのお父さまから会話をふられる。
私はキッと顔を上げた。

「はい。私はさっき、詩織さんのお部屋を見せてもらっていますから。佐山CMOも見せてもらえばよろしいんじゃないですかね」

 父孝良氏は初めて私に、パッとした明るい顔を向けた。

「なぁ! やっぱりキミもそう思うだろ?」
「ただし! それを本当に詩織さん自身が望んでいるのでしたらね。ぜひお二人で行ってきてください」

 お父さまは苦々しげに私をにらみ、佐山CMOは長い息を吐き出して天井を見上げた。

「ほら、詩織もちゃんと颯斗さんをお誘いしなさい」
「ですが、それはやはり颯斗さんにはご迷惑なのでは?」

 父娘が押し問答を始めたというのに、この男ときたらリビングのソファから動こうとしない。
内ポケットにしまわれた携帯は、再三にわたって振動を続けている。
彼はついにスマホの電源を落としてしまった。
詩織さんの方も動こうとしないから、二人で部屋に上がらせたい孝良氏と、テコでも動こうとしない詩織さんの根比べが始まっている。
その流れを変えたのは、叔父の篤広氏だった。

「おい。お前らなにをやってんだ!」

 このよく分からない人は、もうずっと機嫌が悪くて、ずっと怒っていて、なにがしたいのか全く分からない。
食事の後でいつの間にか姿を消していたのに、戻ってきたと思ったらいきなりこれだ。

「まだこんな所にいたのか。詩織もさっさと、颯斗くんを自分の部屋に案内しなさい」

 父親以上にドストレートなセリフに、詩織さんは渋々立ち上がる。
その様子を見て、佐山CMOも立ち上がった。
そう。
私はこの隙に帰ろう。

 叔父の篤広氏に先導されて、リビングを出て行く二人の背中をしっかりと見送る。
私はこのチャンスを逃すまいと立ち上がった。

「今日は本当に、突然お邪魔して申し訳ございませんでした。お食事、とても美味しかったです」

 孝良氏も立ち上がる。
ようやくまともな愛想笑いを私に向けた。
お父さまにとっての一番の邪魔者が自分から帰ると言っているのだ。
引き留めるわけがない。

「私は先に失礼させていただきます。佐山CMOには、よろしくお伝え下さい」
「えぇ、分かりました」

 互いに今日一番の、心からのにっこにこの笑顔。
おっしゃ。これで帰れる。

「祖父のカップ、大切にしてくださいね」
「もちろんです。今日は来てくれてありがとう」

 えぇっと、私の持ってきた鞄はどこかな? 
周囲を見渡す。
あぁ、あったあった。
それはリビングの入り口に近い、ソファの後ろに置かれていた。
さぁ帰ろう。
私が鞄に手を伸ばした瞬間、廊下を走ってくる足音が聞こえた。
その乱暴な足音に、開け放しにされていたドアを見上げる。
飛び込んで来たのは、詩織さんだ。

「詩織! お前、何やってんだ! 早く自分の部屋に戻って、颯斗くんの相手をしなさい!」
「イヤよ! どうして私がそんなことしなくちゃいけないの!」

 娘のこれまで以上の剣幕に、父孝良氏も慌てふためいている。

「お前にとって、これ以上いい結婚相手はいないだろうが!」
「そんなの、お父さんが決めることじゃない! 私は颯斗さんを、そんなふうに見たことないから!」

 あぁ、やっぱりな。
そりゃそうだよね。
そりゃ佐山CMOはイケメンでお金持ちだけど、それだけで結婚って言われても、難しいよねぇ。
佐山CMO、性格にクセありそうだし。

「とにかく早くこのカップを持って、彼に謝りに行きなさい!」

 この父娘は、再び大げんかを始めてしまった。
父の孝良氏はカップの入っている木箱をシェルフから取りだす。
あぁもう、さっき大事にしてって言ったばっかりなのに。
そんな乱暴な扱いをして……。

「そんなバカみたいな作戦を勝手に立てて、あの人を呼び出したのは、お父さんでしょ!」

 彼女は今まで見せたことのない強い意志で、自分の父親を見上げた。

「私、颯斗さんに言われてここに来たの。僕のことは大丈夫だから、ちゃんとお父さんと話し合ってきなさいって」
「なんだそれは! そんなことを彼に言われたくらいでどうする!」
「お父さんは、いつだって私のことをちゃんと見てくれてないじゃない。現にいまだって……」

 この父娘のことは気になるけど、これ以上ここにいても帰りが遅くなるだけだ。
私は置かれてあった鞄を手に取ると、こっそりと廊下に抜け出した。

「いいからカップを持って、早く部屋に戻りなさい!」

 孝良氏の声が廊下の外まで響いてくいる。
おじいちゃんの大切なカップが、こんなことのための道具にされるなんて思わなかったし、知りたくもなかった。
悲しいけど、どうしようもない。

 私は玄関に向かって、小走りに廊下を駆け抜けた。
背後のリビングからは、父娘の怒鳴り合う声がずっと響いている。
お嬢さまをやるのも大変だ。
それでも一つ屋根の下に暮らす家族のいることにうらやましいと思い、なに不自由のない生活を妬ましくも思う。
結局ないものねだりなんだ。
立派なお家の立派な玄関には、場違いなほどみすぼらしい自分の靴がちょこんと端っこに置かれていた。
いいんです。
なんだって。
これは単なる事実なのですから。
立派なお家も喧嘩出来る家族も素敵な恋人も、私には縁のないもの。
思い出の品だって、買い戻すお金も力も持っていない。
来るんじゃなかった。

 ドスン!

 片方の靴に足を突っ込んだ瞬間、二階から大きな物音が聞こえた。
何事!? 
振り返ると、物音に驚いた詩織さんと孝良氏も廊下に飛び出している。
二階から学さんの声が聞こえた。

「颯斗さん! 大丈夫ですか?」

 孝良氏は弾かれたように階段を駆け上がる。
不安そうに潤ませた詩織さんの瞳と、私はうっかり目を合わせてしまった。

「あ、紗和子さん……。もう帰る……んで……。あ、いや。なんでもないです」

 詩織さんの美しい横顔が、痛々しくうつむく。
そんな姿を見せられたら、どうしようもないじゃないか。

「一緒に様子、見に行きますか?」

 詩織さんはすがるようにパッと顔を上げた。

「お、お願いします!」

 この場に彼女を残してでは、さすがの私だって帰りづらい。
手にしていた鞄をリビング入り口すぐの脇に戻すと、詩織さんと共に二階へ向った。
階段を上がると、彼女の部屋の入り口付近で佐山CMOは倒れていて、それを学さんが助け起こしていた。

「くっそ、あの野郎……」

 佐山CMOは苦しそうに脇腹を触っている。
叔父の篤広氏も部屋から出てきた。

「立てますか?」

 学さんに支えられ、佐山CMOはようやく立ち上がった。

「こんなもてなしのされ方をするのは、生まれて初めてですよ」

 怒りに満ちあふれた彼に、孝良氏の顔色は変わった。




第5章


 宇野家にとって、大切な取引先であり一人娘の恋人候補である私の会社の上司、佐山CMOこと佐山颯斗氏が邸宅内で襲われた。
命に関わるような大けがとかでもなんでもなくて、かすり傷一つついてないんだけど、とにかく佐山CMOは怒っている。
それは宇野家にとって、大問題だった。

 その瞬間、家にいたのは私と佐山CMO、宇野家の家長である孝良氏と、その弟の篤広氏、孝良氏の息子である学さんと娘の詩織さんだ。
全員がリビングに集まる。

「詩織、お前がやったのか!」

 最初に口を開いたのは叔父の篤広氏だった。

「お前はずっと嫌がってたもな! こいつとお付き合いするのを!」

 え~、さすがにそれはないわぁ~と思ってたら、やっぱり佐山CMOが口を開いた。

「……いや、襲ったのはあなたですよね。すっとぼけてますけど。あなたはバレてないつもりかもしれないけど、普通にバレてますから」

 リビングのソファによこになり、額に乗せられていた冷たいおしぼりを外しながら、彼は体を起こした。

「詩織さんが部屋から出て行ってすぐに、突然部屋の明かりが消えました。真っ暗な部屋の中でも簡単に移動が出来たのは、あなたが彼女の部屋をよく知っていたからではないのですか?」

 佐山CMOは、ゆっくりと視線を詩織さんに向ける。

「女性が護身用のスタンガンを持つ場合、普通なら外出時に携帯するはずだ。安全なはずの家の中では、使う必要がないからね。それなのによく使う鞄の中ではなく、机の引き出しに入れてあったということは、家庭内に身の危険を感じる場面があった……。ということではないですか?」
「叔父の度重なる身勝手なセクハラ行為には、心底嫌気がさしていました」
「詩織、お前は何を言ってるんだ! 小さいときから、あれほどかわいがってやったのに! あんなのはセクハラじゃない、単なる接触だ、スキンシップだ、常識の範囲内だろ!」

 それで詩織さんの恋人候補になっている佐山CMOに焼きもちをやいて、スタンガンで襲ったってこと? キンモっ!

「次に私の嫌がることをしたら、そのスタンガンで抵抗するつもりでした。本気で嫌がっているんだってことを分かってほしくて」

 詩織さんの細い肩が怒りと恐怖に震えている。

「いつか一線を越えられるような気がして、恐ろしくて……。彼に相談したら、それを用意してくれました。私が自分のことを安心して相談出来るような相手は、あの人しかいません」
「あの男か!」

 今度は父の孝良氏が大声をあげた。

「あの男はダメだって言っただろ!」
「もう子供じゃないんだから、私の好きにさせてよ!」
「詩織!」

 孝良氏は突然、私を怒鳴りつけた。

「お前が黒幕か! 詩織と颯斗くんの仲を引き裂こうとしているのは?」
「えぇ~? なんでわたしぃー!」
「そうじゃなきゃ、こんな所にまでのこのこやってきて、余計なことをしたりしないだろ!」
「余計なことなんて、なんにもしていません!」

 飛んだとばっちりだ。
他に攻撃できる相手がいないからって、いくらなんでも酷すぎる。
孝良氏はぎりぎりと歯を食いしばった。

「じゃあどうして、詩織からカップを奪うようなことをさせたんだ」
「は? カップを奪う? 私が詩織さんに? なにそれ意味分かんない。そんなことしてません!」
「分かったぞ、お前と詩織がグルになってるんだ。詩織はあの男に騙されている。お前は颯斗くんに近づきたいがためにカップを口実にした。お前が詩織を言いくるめてカップを奪い取り、それで二人の仲を引き裂こうとしたんだ!」

 あぁ、どうしてこう、自分に都合のいいようにしか物事を見ようとしないんだろう。
だから詩織さんがこれだけ苦悩していることに、全く気がつかないんだ。

「私はカップなんか奪ってません。実際見つかったじゃないですか。現にほら。あそこに今も、カップは置いてあるんでしょう?」

 私はシェルフにしまわれた木箱を指差す。
おじいちゃんのカップは、そこに片付けられている。
お父さまはすかさずその木箱を取りだし、私たちに見せた。

「どこにあるんだ、そのカップが! なくなってるじゃないか!」
「えぇ! なんで? どうして? どこにいったんですか!」

 あるはずのものが入ってない。空っぽだ!

「その行き先を知ってるのは、お前なんじゃないのか?」
「知りません!」

 私の大切なおじいちゃんのカップ、さっきまでここにあったのに!

「あのカップを、お前はとても欲しがっていたそうじゃないか。詩織と共謀して、いや、詩織を騙して、自分のものにしようとした。違うのか?」
「そんなこと、してませんって!」

 どういうこと? 
カップはまたなくなったってこと? 
混乱した頭でぐるぐる考える。
呆然と立ちすくむ私を見て、詩織さんがぼそりとつぶやいた。

「お父さん……。私、私がやったのよ」

 彼女は全身を小刻みに震わせていた。

「紗和子さんが……、本当に欲しがっていたから。あのオークション会場で泣いていた、彼女の姿が忘れられなくて。どうせならこの人が持っていた方がいいと思ったの。それに、せっかくのプレゼントを簡単に失くしてしまうような人なら、颯斗さんの気持ちも私から離れるんじゃないかって……」

 彼女は佐山CMOを見上げた。

「携帯のメッセージでは、あんなに楽しそうにカップのことを話してくれていたのに?」
「それ、打っていたのは私じゃなく、父です」
「はい?」

 詩織さんの携帯は、家では常にお父さんが管理しているらしい。
帰宅すると一番にスマホを父親に提出し、中身を全てチェックされていた。
佐山CMOとの関係を全く進展させる気のない詩織さんに代わって、彼とメッセージのやり取りをしていたのは、父の孝良氏だったんだって。

「僕は、お父さんと毎日メッセージをやりとりしていたのか!」
「ぶっ!」

 思わず吹きだした口元を、私は慌てて抑える。
ダメよ私。
ここは笑っちゃいけないところ。
詩織さんは続けた。

「だから私が勝手に……。その、食事会が始まる前に、戸棚にしまってあったカップをこっそり紗和子さんの鞄に入れたの。彼女の鞄がリビングに置きっぱなしになっていたから。後で話そうと思ってた。お父さんは、それを見ていたのね」
「あぁ、そうだよ。それを無事に取り戻して、お披露目となったんだ。さぁ詩織! 今度はどこに隠したんだ。言ってみなさい。あのカップを、さっさと戻しなさい!」
「イヤよ! あのカップは、私がもらったものなのよ。どうしようが私の勝手じゃない!」
「お前は騙されているんだ!」
「違う! あの人と紗和子さんは、全く関係ないって!」

 あの人? あの人って誰だ? 
さっきからちょこちょこ出てきてるけど、佐山CMOのことじゃないよね。
罵りあいを始めた泥沼の父娘対決を止めに入ったのは、兄の学さんだった。

「詩織。じゃあなくなったそのカップは、今どこにあるんだ? お前が本当に紗和子さんに騙されていないというんなら、そのカップを今お前がここに出してこないと、説得力がないじゃないか」

 学さんはリビングをゆっくりと歩き始める。

「ま、なにか事情があるんではないかと思って黙っていたんだが、これではっきりしたようだ」

 立ち止まったその先で、床に置かれていた鞄を持ちあげた。

「あ、それ私の鞄です」
「そうか。ではなぜこれが入ってるんだ?」

 彼はそこから、おじいちゃんのカップを取りだした。

「え! なんで?」
「紗和子さん。君が本当に詩織を騙していない、詩織が一人で勝手にやったと言うんなら、このカップは今、詩織が持っていないとおかしいじゃないか。この鞄の中に、もう一度このカップを入れたのは、詩織。お前なのか?」
「そ、それは……。ち、違います……」
「私も違います! カップを自分の鞄になんて、入れていません!」

 え? どうして? なんで?

「違うったって、現にいま、君の鞄からカップを取りだしたんだが? 僕はマジシャンでも何でもないしね」

 お父さまも牙をむく。

「やっぱり! だから急いで帰ろうとしていたんだな! この泥棒猫め!」
「違いますって!」

 なんで? いつの間に私の鞄に入ったの?

「私は盗っていません!」
「じゃあなんでお前が持っているんだ!」

 孝良氏が私に詰めよる。

「やっぱりお前が黒幕じゃないか! 詩織! お前は本当に騙されているんだよ!」
「紗和子……さん……?」

 詩織さんまで、私に疑いの目を向け始めた。

「ちょっと待って! 確かに私は、このカップが欲しくてここまで来ました。だけどそれは……」

 佐山CMOを振り返る。
彼はやれやれと首を横に振ると、深くため息をついた。
その態度に、父の孝良氏が勢いづく。

「ほら、やっぱりそうじゃないか。白状したな。このカップが欲しくてここに来たって!」
「違うのに~!!」
「何が違うんだ、いい加減にしろ!」

 頭がちゃんと動いていない。
どうして? いつの間に私の鞄に入った?

「カップが本当になくなったって気づいたのは、いつですか?」
「今だよ、今! お前が盗った時だろ!」

 このお父さまは人の話しを冷静に聞こうという気が、全然全くない。

「待って下さい、ちょっと冷静になって。もう一度ちゃんと考えましょうよ」
「下らん! さっさと謝って認めた方が、結局は自分のためだぞ!」
「一番最初に私たちがここに来た時には、シェルフにカップはありませんでしたよね?」

 そうだ。
最初にリビングに通された時、お父さんが取りだした木箱の中には、カップは入っていなかった。

「何を今更蒸し返そうとしてるんだ。そこからしておかしいじゃないか。お前が詩織を騙してそうさせたんだろう?」
「孝良さんは、その木箱の中に、カップがあると思っていたんですか?」
「当たり前だ! 私がそこに入れておいたからな!」

 そう。
佐山CMOを呼び出すために、カップを失くしたなんていうのは、最初からこのお父さんが考えたヘタな嘘だった。

「いただいたカップをなくすわけがないだろう! ちゃんと最初から、ずっとそこに置いてあったんだよ」
「だけど、私たちに見せようとした時には、ありませんでしたよね? それで、みんなで探しましょうよって提案したのは……あぁ、私だ」
「ずうずうしい!」

 孝良氏の興奮を制するように、詩織さんが口を開く。

「その時に、カップを紗和子さんの鞄に入れたのは、私です」

 再びみんなの視線が、詩織さんに集まる。

「ここにいらっしゃってすぐに、颯斗さんと父の話が盛り上がっていました。紗和子さんに部屋を見せてほしいと言われ、私は彼女と一緒に部屋を移動しました」

 そうだ。
それで私は二階の部屋に、一人取り残されていた。

「紗和子さんは、颯斗さんのことが本当に好きなんだと思って。二人にこそ仲良くなってもらおうと思い、私はカップを彼女に返すことを、その時に決意したんです」

 ありがたいけど、迷惑な話だ。

「紗和子さんが急遽うちに来たことで、食事の準備が遅れました。彼女を私の部屋に残したまま、下の様子を見てくるといって、リビングに下りたんです。カップのありかはシェルフの中と分かっていたので、いつ紗和子さんに渡そうかと考えていたんです。みんなで家のなかをもう一度捜そうってなった時に、他の全員をこの部屋から追い出した私は、紗和子さんの鞄へカップを移しました」
「それを父さんと俺が、偶然見てたんだよ」

 詩織さんと入れ替わるように、学さんが口を開く。

「何をやってるんだ詩織はって、そう思って。最初から見ていた父さんが、カップを元に戻したんだ」
「バカなことを! 私が元に戻さなかったら、そのままこのカップは、この女のものになってたんだぞ!」

 お父さまは相変わらず自分のことしか考えてなくて、私はその怒鳴り声に抗いながら、必死で記憶を辿る。

「それで、全員がリビングに戻って、食事が始まりましたよね。その時は、カップはみんなの目の前にあった」

 そう。
私は目の前に置かれたカップを眺めながら、最後の別れを惜しんだんだ。

「そのカップを片付けたのは……」
「俺だよ、俺!」

 次に声を上げたのは、叔父の篤広氏だ。

「俺はな、手塩にかけて育てた詩織を、他の男に取られるのが我慢ならなかったんだ! だから、そのカップでコイツを叩き割ってやろうと思ってな。食事の後、片付けるフリをして、カップを詩織の部屋に持ってあがったんだ」

 なんて野郎だ! よかったカップが無事で!!

「詩織の携帯は置き場所が決まってるんだ。それで俺が何度も詩織のフリをして、佐山に部屋に来るように誘ったのに、コイツは一向に上がって来やしない」

 この叔父の篤広氏は、まともに相手をしてはいけないタイプの人だ。
佐山CMOは冷静に返事を返す。

「だって、僕に部屋まで来いという熱烈なラブコールが入るわりには、目の前にいる詩織さんは、一向に動こうとしないんですよ? それなのに、僕が先に上がるわけにも行かないでしょう」
「だから軟弱なお前に変わって、俺が呼びに行ってやったんだ!」

 叔父さん、確かに二人を呼びに来てたな。
詩織さんは篤広氏を激しい嫌悪の目でにらみつける。

「だからなのね、一緒に部屋に入ってこようとしたのは」
「お前だって、この男との交際を嫌がってたじゃないか。だから俺は、お前と一緒に何とかしてやろうと思ったんだよ!」
「何とかって、なによ!」
「詩織がもらったカップでコイツを殴りつけたら、この男もお前にあきらめがつくだろ!」

 なんて野郎だ! よかったカップが無事で!!

「でも僕は、詩織さんが下へ降りた瞬間スタンガンで急襲はされましたけど、殴られはしませんでしたよ」

 そこだ。

「用意してあったはずのカップが、なくなってたんだ!」

 じゃあ、本当にカップが失くなったのは……。
ドタバタと乱暴な足音が聞こえた。
開け放されたままのリビングの入り口から、大学生くらいの男の子が飛び込んでくる。

「詩織!」
「透さん!」

 二人は目を合わすなり、ガッと抱き合った。
絵に描いたような熱い抱擁。
互いの腕を相手の背に回し、強力な磁石同士でくっついていてビクともしない感じ。
映画とかテレビドラマみたいなのよくあるやつを、初めて生で見た。
孝良氏は血相を変える。

「まだお前は詩織につきまとっていたのか! 勝手に入ってくるんじゃない! 出て行け!」
「えぇ、もちろん出て行くわ!」

 詩織さんはその男の子としっかりと手を繋ぐ。
テーブルに置かれたカップを手にすると、それを私に渡した。

「紗和子さん。私、このカップはいりません。あなたにあげる」
「え?」

 彼女は毅然と父親を仰ぎ見た。

「お父さん。私は自分の本当に好きな人と、透さんと幸せになります!」
「許さん! あれほどこの男とは、もう連絡をとるなと言ったのに!」
「お父さん。私はね、もう子供じゃないのよ」

 詩織さんはポケットから携帯を取りだすと、それを高々と空に掲げた。

「大学を卒業して社会人となったいま、自分でスマホも契約できるようになったんだから!」
「なんだって!?」

 透さんは、最愛の彼女である詩織さんの手をしっかりと握り返す。

「行こう! 詩織!」
「お父さん、ごめんなさい!」

 二人は勢いよくリビングから走り去った。

「待ちなさい! 詩織!!」
「兄さん、あの二人を追いかけよう!」

 篤広氏が走りだし、孝良氏も慌てて後を追いかけた。
ドタバタの喧騒は廊下の奥から玄関の外へ移行し、賑やかな声はやがて聞こえなくなる……。

 あーびっくりした。なんだあれ。
走り出したおっさん二人の背に、私は何とも言い難い哀愁を感じてしまう。
自我のある大人になった娘を、いつまでも幼い自分の所有物だと思っている困ったおじさん達だ。
若い娘が父と叔父さんに自分の携帯をいいように勝手に扱われて、大人しく黙っているワケがない。
そんな気持ち悪い携帯なんか、自分の携帯じゃない。

 詩織さんの掲げたそのスマホが、父から買い与えられた高性能最新機種ではなく、一世代前の古い機種だったことに、彼女の本気度がうかがえる。
彼女は自分で契約した携帯で、本当に好きな人と連絡をとりあっていたんだね。
よかった。
彼女がただ弱いだけの、泣いてばかりの女の子じゃなくて。

「えーっと。どうしましょうか」

 佐山CMOが、部屋の雰囲気を戻すように口を開いた。
てゆーか、どさくさに紛れて、あの叔父さんは逃げたな。
申し訳なさそうな顔で、残された兄の学さんが頭を下げる。

「お二人には、大変なご迷惑をおかけしましたね。そのカップを、最終的に紗和子さんの鞄に入れたのは僕です」
「あなた方の叔父さんはこっそりカップを持って二階にあがり、そのまま僕と詩織さんが上がって来るのを待っていた」
「その時僕は、二階の自分の部屋にいました」

 学さんは申し訳なさそうに私を見る。

「颯斗くんと詩織、叔父の篤広が二階に上がって行くのを見送って、紗和子さんが父とお別れの挨拶をしていた時です。叔父がカップを持って詩織の部屋に入ったのを見て、下に降りて行った隙にそれを取り戻しました。今思うと、叔父はそのカップを割ってしまおうと思っていたのですね」

 学さんは大きく息を吐き出した。

「なんでこんなものを二階に持って上がったんだろう。なくなったってまた大騒ぎするのにと、一階へ戻しに下りてきたのはいいものの、どこに置こうか迷ったあげく、すぐ目の前にあった鞄に……。それが、紗和子さんのものと知りつつ中に突っ込んでしまいました。僕もこれでも一応、妹の心配はしていたんです。詩織があなたの鞄に最初にカップを入れたとき、僕も父と一緒に見ていたんです。どうして詩織はそんなことをするんだろうって思いましたよ。父は怒ってカップを元の木箱に戻しましたが、僕は詩織には詩織の考えがあって、そうしたんだと思ったんです」

 彼は手の平でごしごしと額をこすった。

「だから事情はどうあれ、一番最初の詩織の望み通りに、元に戻しておこうと思ったんです」
「私の鞄にカップが入っていたことを知っていたから、あなたはすぐにカップを取りだしたんですね」
「まぁ、うちの家族のしたことを誤魔化そうとしたのも事実です。他に隠し場所も見当たらなかったし。とっさにって感じですかね。詩織が本当に、紗和子さんに言いくるめられて動いているのではないという、確信もなかったですし」

 そんなことで、私は悪者にされようとしていたの? 
カップが欲しかったのは事実だけど、そんな風に思われていたなんて。

「私は……。詩織さんと話したのは、今日が初めてです」

 この人達にとっては、私も詩織さんも、所詮都合のいい道具に過ぎないんだ。
学さんはもう一度私に頭を下げた。

「すみませんでした。紗和子さんを信じますよ。僕はもう、あなたを疑ったりなんかしていません」
「そ……んな。だ、だからって……」

 悔しくて言葉が出ない。
私の代わりに、佐山CMOは宇宙色のカップを手に取った。

「では詩織さんの望み通り、このカップは彼女に譲ります。僕もそうしたいと思っていますし、学さんもそれでよろしいですね?」
「はい。そのカップは、紗和子さんにお譲りします。それでお詫びになるのなら」

 佐山CMOは鞄にカップを入れると、私の腰に手を回した。

「さぁ、一緒に帰ろう」

 学さんの見送りをうけながら、廊下を進む。
とにかくここを出るまではと、こぼれ落ちそうな涙をぐっと我慢して、背筋はしっかりと伸ばす。
真っ直ぐに前を向いて歩いた。
私は誰にも恥じることなく、一番正々堂々としているべきだ。
玄関を出ようとしたとき、学さんは何も言わずもう一度深く頭を下げた。
佐山CMOの用意した車に、すぐに乗り込む。
車が屋敷の門を抜けたところで、ずっと我慢していた涙があふれ出した。

「全く。君にはとんでもなく不快な思いをさせてしまったね」
「いいんです。カップが手に入りましたから」

 こぼれる涙をぬぐいながら、改めてそれを眺める。
大好きだった、私のおじいちゃんのカップ。

「本当に私が、これをもらっちゃっていいんですよね」
「もちろんだよ」

 あぁ、よかった。
私はカップに額をすり寄る。
今度はうれしすぎて涙が止まらない。

「だけどさ、俺をおいて一人で帰ろうだなんて、そっちも結構酷くない?」

 私は鞄からティッシュを取り出すと、思いっきり鼻水をかんだ。
この人の前では、もう泣き止まないと。

「知りませんよ。自分でまいた種じゃないですか。巻き込まれたのは、私の方です。大体、佐山CMOの恋愛問題に巻き込まないで下さいねって、最初にお願いしておきましたよね。だけど最初から、巻き込む気満々だったじゃないですか」
「だって詩織さんが本当に俺に本気なんだと思ってたんだから、仕方ないじゃないか」
「は? そんなことも気づかなかったんですか」
「女性は大概、俺のことをみんな好きだからね」

 なんて奴だ。やっぱり最低だ。

「そういうのって結構、普通のまともな女の子からは嫌われるので、止めた方がいいですよ」
「今まで誰からも嫌がられたことないんだけど」
「いま。私が。面と向かって嫌だって言ってますよね?」

 そう言うと、佐山CMOはフッと笑みを浮かべた。

「俺ってこうみえて、結構モテるんだけど」
「愛想笑いって、知ってます? 気を遣ってるんです。マナーですマナー。対人マナー」
「全てがそうだとは限らないだろ」
「そんなんだから、変なおじさんたちに目をつけられるんですってば」

 ムッとしたらしい彼は組んだ足をぶらぶらさせながら、視線を窓の外に向けた。
多分CMOのご機嫌を損ねたんだろうけど、そんなことは気にしない。
この人と私がこの先関わる可能性は、限りなくゼロに近いんだから。

「それにしても、佐山CMOはどうやってあのお父さまからカップを取り戻すつもりだったんですか?」
「ん? 別れて欲しくなかったら、カップを返せって」
「ひど」
「だけど、絶対返すと思わない?」
「まぁ、あのお父さまならそうするだろうけど……」

 だとすると、詩織さんは?

「彼女のことは、まぁ後日なんとでもなっただろうし」

 なんて奴だ。やっぱり最低だ。

「詩織さんには幸せになってもらいたいです。大変だろうけど」
「『透さん!』には、びっくりしたな!」

 佐山CMOが、その瞬間を大げさに再現してみせた。
その仕草に思わず私が笑ったら、彼も同じように微笑んだ。

「俺、あんなドラマティックな展開、生で見たの初めてだった」
「私もです!」

 飛び出してきた二人が、ラグビーのタックルを組むようにガッツリ抱き合った瞬間は、ちょっぴり笑っちゃったけど、正直憧れる。

「紗和子さんに、恋人はいないの?」
「は? なにそれ。喧嘩売ってるんですか? いるわけないじゃないですか」
「だからなんでそれが、喧嘩を売ることになるのか、よく分からないんだけど」
「いませんよ彼氏だなんて。じゃあ佐山CMOはどうなんですか?」
「俺も今はフリーだよ。詩織さんにフラれたばかりだからね」

 何を言ってんだか。そんなの絶対ウソ。
佐山CMO自身が、そう言いながらにこにこ笑ってるくせに。
本人にその気がなくても、彼を狙ってる女の子は山ほどいるんだから。

「ま、詩織さんのお父さまとのメッセージに、胸がときめいていたくらいですからね。レベルが違いますよね」
「それを言うな!」
「あはは」

 気づけば、私はすっかり泣き止んでいた。
もしかしてこれは、佐山CMOのおかげ? 
車内では賑やかなおしゃべりが続く。
大変だったけど、楽しかった。
きっとこれもいい思い出になる。
私とおじいちゃんのカップに、新しい思い出が加わったんだ。

 快適に走っていた車が、急に減速を始めた。
家の少し手前で止まる。

「あの、紗和子さんのお宅の前に、誰かいらっしゃるようですが」

 運転手さんに言われて、シートの隙間から前方をのぞき込む。
門の前に、誰かがうずくまっていた。

「卓己? もしかして、卓己かも」
「お知り合いですか?」
「えぇ、そうです。大丈夫です。そのまま目の前で止めてください」

 車が近づくと、うずくまっていた人物が顔を上げた。
やっぱり卓己だ。
私は車を降りる。

「卓己! あんた、こんなところでなにやってんの?」
「あぁ、紗和ちゃんお帰り。やっと帰ってきた」

 ずいぶん温かくなった春先とはいえ、夜はまだ寒い。

「いつからここに座ってたのよ」
「あ……。紗和ちゃん……?」

 彼は立ち上がると、私を頭の先から靴の先までをゆっくりとながめる。

「紗和ちゃん。そんなきれいな格好して、どこ行ってたの」
「え? どこって、えっと……」

 彼はいつものように、両手に大きな買い物袋をぶら下げている。

「しかもタクシー? 使って? 終電、まだあるのに?」
「あ、そうだ!」

 私は鞄の中から、おじいちゃんのカップを取りだした。

「ほら! 見てこれ! このカップ、私のものになったのよ。カップがもらえたの!」
「え? どういうこと? こんな時間まで、紗和ちゃんは、それをもらいに行ってたの?」
「そうなの! 凄くない?」

 私は宇宙色のカップを春の夜空に高く掲げる。

「このカップが、うちに戻ってきたのよ!」

 私はうれしすぎて、その場でくるりと一回転した。
卓己は混乱したまま、立ち尽くしている。

「戻ってきたって、そのカップはオークションで……」

 バタンと車のドアの閉まる大きな音が、夜空に響いた。

「あー! 思い出した! 安藤卓己! 超有名な、現代アーティストじゃないですか!」

 車から降りた佐山CMOは、興奮したように卓己に駆け寄る。

「いやぁ~、初めまして! 僕は佐山商事の佐山颯斗と申します!」

 彼は卓己の手にあった牛丼屋のお持ち帰り袋を奪いとると、それを私に押しつける。

「僕、あなたのだいっファンなんですよ! この間も、雑誌に記事が載ってましたよね! それ読んで、すごく感動しました! 僕、いつも安藤さんの会社のポートフォリオサイト、見てるんですよ!」
「あぁ、ありがとうございます」

 佐山CMOは卓己の手を勝手に握りしめると、ぶんぶんとそれを振り回した。

「こないだ初めて、ご自身の作品をデジタルアートのオークションに出しましたよね。その時もすっごい話題になってて! 実はあの時、僕も会場に見に行ってたんですけど……」

 佐山CMOは卓己の手をしっかりと握りしめたまま、一人でずっと勢いよくしゃべり続けている。

「ねぇ、紗和ちゃん。この人、誰?」
「うちの会社のCMO」
「CMOって、偉い人?」
「たぶん」

 彼は宝物を見つけた少年のように目をキラキラさせ、卓己の手をしっかりと握りしめたまま放そうとはしない。
卓己はそんなCMOに圧倒されながらも、早口でしゃべる彼の話に耳を傾けていた。
彼らの長話しになんて、つき合っていられない。

「じゃ、お先に。これはもらっておくね」

 私は佐山CMOから受け取った牛丼の袋を、卓己に掲げて見せる。

「あ、え? ちょ、ちょっと待ってよ。さ、紗和ちゃん。ぼ、僕を置いてい、行かないで……」

 まだまだ興奮冷めやらぬ佐山CMOを卓己の元に残したまま、傾きかけた門を抜ける。

「じゃ。おやすみ」

 中に入ってもまだ、玄関の外から佐山CMOの声が響いていた。
私は二階に上がると、おじいちゃんのアトリエに入る。
いまはもう何もない、空っぽの部屋だ。

 かつてここは、文字通り宝の山だった。
私にとってそれは金銭的な価値を示すものではなく、おもちゃ箱の中にいるみたいな、大きな宝箱の中にすっぽり自分が入り込んでしまったような感覚だった。
その記憶の中にしかなかった思い出が、ようやく戻ってきた。

 私は空っぽの戸棚に、宇宙色のカップをコトリと置く。
おじいちゃんが作り、私が遊んだ大切な思い出。
たった一つだけだ。
私が取り戻せたのは。

 いつの日かまた、この場所を夢の空間にしたい。
いつまでもにこにこと笑って見ていられるような、そこにいるだけで幸せに過ごせるような、楽しかった場所に戻したい。

 ようやく始まった1歩に、私はその決意を新たにした。




§2『対偶のペーパーウエィト』 第1章 


 その日、卓己は朝っぱらからうちに押しかけてきたうえに、非常に機嫌が悪かった。

「だから、なんなの?」

 何を聞いてもじっと黙ったまま答えないから、私は自室のベッドにもぐり込む。
卓己はベッドサイドの椅子に腰掛けたまま、長すぎる足と腕を組んで、とにかくイライラしていた。

 幼稚園入園当時からの幼なじみで、しょっちゅう家に出入りしていた卓己は、一人の男性というより、双子の姉弟みたいなもんだ。
ノーブラ、パジャマ姿で寝起きを見られたって全然平気だし。
たった一人の家族となった父を亡くしてから、卓己の両親が私の親変わりを務めてくれている。
この家の鍵も預けてあった。

「用がないなら、寝るからね」
「……だ、だから、こないだ……は、なん……で、あんなにお、遅くなった……の?」

 彼はもさもさの前髪の奥で視線を泳がしつつ、恐る恐る文句を言う。
卓己はいつだって私に強く当たれない。

「もうその話は、さんざん説明した」

 おじいちゃんのカップを取り戻すためにめちゃくちゃ苦労して、やっと手に入れたんだって。
そんな話を長々として、アトリエに飾ったカップもしっかり見せている。

「だからそれは、あ、あの日にしていたことで、ぼ、僕が聞いてるのは……。だ、だから、なんでって……話!」
「しつこい」
「答えて」

 ベッドでごろりと背を向ける。
これ以上話すことなんて、なにもない。

「……。だ、だって! さ、紗和ちゃんは、僕がいつ誘ったって、い、一緒におでかけしてくれないじゃないか。それなのに、な、なんであの日は……、あ、あんなワンピース、なんか、着て、か、かわい……く……」
「だから、おじいちゃんのカップを取り戻すためだって言ってるでしょ!」
「……。やっぱり、最初から、僕とオークションに、行っておけば……」

 私はガバリと起き上がると、卓己を怒鳴りつけた。

「あんたとは絶対おでかけしない!」
「なんで!」
「なんでも!!」

 ガバッと布団を頭からかぶり、再び閉じこもる。
卓己なんかと出かけたら、先日の佐山CMOみたいになることは分かってる。
卓己ばかりがちやほやされて、すぐに私はおいてけぼりだ。
自分だけを構ってほしいとか、そういうことを思ってるわけじゃない。
本気でなりたかった理想の姿である卓己に、今も激しく嫉妬している。
そんな自分なんて、出来るものなら見たくない。

「……。紗和ちゃん。こ、こないだ、駅前に新しく出来た、カ、カフェのパフェ、食べたいって言ってたよね。ぺ、ペア割り……やるの、知ってる? あの、フルーツ盛り盛りの、でっかい……やつ。単品だと三千円、する、やつが、ペア割りだと、2つ……で、五千円に、なるの」

 え? 何それ安くない? 
私は布団の中で、もぞりと動く。

「そ、それさ、ら、来月の……、だ、第二土曜、だけ、開店、き、記念セール、で、特別にやる……、らしいよ」

 頭まですっぽり被っていた布団から、指の先だけを外に出した。

「ホントに?」
「僕は、紗和ちゃんに嘘なんかつかないよ」

 来月の第二土曜日か。
特に用事はないし、駅前にいくならついでに他の買い物も……。

「さ、そ……。その日は、紗和ちゃんのお誕生日だし……。ぼ、僕がパフェおごる。お、お誕生日プレゼントだから! ……い、いい……でしょ?」

 誕生日? あぁ、そうだったっけ。
もう少しだってことは分かってたけど、第二土曜だったとは知らなかった。

「まぁ、誕生日だしね」
「そうだよ。た、誕生日プレゼント、と、クリスマス、プレゼントは、お、OK、なん、で、しょ?」

 それ以外で、「物」は受け取らないようにしている。
ただし食品は別。
そう決めてから卓己は、いつも食べ物を抱えてうちに来るようになってしまった。

「で……さ。紗和ちゃんに、おねが、お願いしたいこと……が、あるんだ」
「お願い?」

 のそりと布団から顔を出す。

「あのね、こ、今度、うちの事務所のスタッフが、あ……新しく出品したいって、思ってる、展示会があって、そ、そ……そこにさ、一緒に……」

 不意に、枕元に置いてあったスマホが鳴った。
仕方なく布団から顔を出すと、画面に『佐山CMO』と名前が出ている。
部屋の空気がピタリと止まった。
卓己はその画面に、すっかり凍り付いてしまっている。

「あ、あのね、卓己。この人は私と同じ会社の人で、仕事の上司だからね」

 卓己さえいなければ、こんな電話無視したって構わなかったのに。
逆に彼が今ここにいるからこそ、電話に出なくてはならなくなった。

「はい。なんですか?」

 卓己の死んだような視線を一身に受けつつ、仕方なく通話ボタンを押す。

『あぁ、やっと繋がった。メールの返事がないけど』
「見ました」
『見ましたじゃないよ。返事って言ってるんだけど』

 なんて書いてあったっけ。
その内容を思い出す。
あぁそうだ。
前回のお詫びと、卓己によろしくって話だ。

「大丈夫ですよ。私、もう気にしてないので」
『それでさ、これはちょっとした提案なんだけど』
「提案?」

 電話の向こうから、佐山CMOの座る椅子がキュと回る音が聞こえた。

『近々ダダビーズも協賛している、大規模なアートフェスがあるんだよ。主な出品予定のカタログを見ていたらね、三上恭平氏の絵画が、3千万からオークションに出る予定になってたんだ』
「は? なにそれ、本当ですか?」

 そんな珍しい話、めったにあるものじゃない。

『まぁさすがの僕でも、それを君に買ってプレゼントすることは難しいけど、個人収集家の手に渡ってしまったら、本物を目にする機会は極端に失われてしまうだろ? いまのうちに、見ておいた方がいいんじゃないかと思ってね』

 確かにそれはそうだ。
教科書に名前が載るような有名作家なら、どこかの美術館で作品展の開催はあるけど、うちのおじいちゃんみたいなマイナー作家は、一度個人の手に渡ってしまえばよほどのことがない限り、二度と本物にお目にかかることはない。
千載一遇のチャンスとは、このことだ。

『一緒にどうかな?』
「分かりました。行きます。いつですか?」

 メモのためにペンを取ったら、卓己と目があった。
私はそれに構わず、近くにあったティッシュペーパーの箱にペンを走らせる。

「え? 来月の第二土曜日ですか? あぁ、はい。分かりました。大丈夫です」

 私はその日付をメモに書き取ると、ぐるぐると丸でかこんだ。

「はい。ありがとうございます。えぇ、詳しいことはまた後で」

 通話を切る。
私はふーと長く息を吐き出した。
3千万か。
おじいちゃんって、本当に凄い画家だったんだな。
さすがにそれを欲しいとは思わないけど、見られるのなら見られるうちに見ておきたい。
もそもそとベッドから起き上がる。
どんな絵だろう。
誰よりもおじいちゃんの近くで色々な作品を見てきたけど、その全てが記憶に残っているわけではない。
タンスに手を伸ばし着替えようとして、卓己と目があった。

「さ、紗和ちゃん。ぼ、僕との約束は?」
「え? なに? なんかあったっけ」

 そう言った瞬間、フルーツパフェのことを思い出した。

「あ、ご、ゴメン! 他の用事入っちゃった」
「い、一緒に行こうって、言ったのに?」
「まだはっきり返事してたわけじゃなかったし!」

 明らかに卓己の機嫌が悪くなる。
彼はそっぽをむいて、ボソリとつぶやいた。

「あ、あの人と、だったら……、誕生日、でも、すぐにおでかけ……出来るんだ……」
「仕事だから!」

 卓己が面倒くさい。
いつも大概面倒くさいけど、最近は今まで以上に面倒くささが極だっている。
そうでなくても長い前髪で表情が見えにくいのに、ガッツリうつむいてしまうから、ますます顔色がうかがえない。

「仕事……って、なん、の、お仕事……なの?」
「そんなこと、卓己に関係ないじゃない」
「ダダビーズ……、の、アート展?」

 その言葉に、私の怒りモードにスイッチが入る。
だから卓己は嫌いなんだ。

「なんで卓己が知ってんの? もしかして、卓己も行くつもりだったとか?」
「ぼ、僕は行かない! だ、だって、紗和ちゃんが僕と一緒に行くの、い、嫌がるの、知ってるから!」
「そうだよね! 私だって、絶対あんたとそんなとこ行きたくない。アート展だなんて!あんたと行くくらいなら、たとえおじいちゃんの絵だって、全然見に行かなくていいし!」

 卓己が息をのむ。
しまった。言い過ぎた。
卓己はじっと体を強ばらせたまま、私を見つめる。
悪かったとは思うけど、反省はしていない。

「なによ。悪い?」
「パフェより、やっぱそっちだったんだ」
「そりゃそうでしょ」

 着替えを取りだし、服を脱ごうとして、その手を止めた。
さすがにもう、卓己の目の前では着替えられない。

「おじいちゃんの作品が出品されるから、見に行ってくる」
「だって、僕が行くって言ったら、絶対行かないじゃないか」
「そうだよ。卓己となら行かない」

 卓己は今にも泣き出しそうな顔を、横に向ける。

「でも、紗和ちゃんは本当は見たいんでしょ」
「見たいよ。見たいけど、卓己と一緒なら行かない」
「……。い、行ってくれば? その方、が、いいよ。絶対……」

 ふいに彼は立ち上がると、逃げるように出て行ってしまった。
ドタドタと階段を駆け下り、玄関の扉が開いたかと思うと、ガチャリと鍵を掛ける音が聞こえる。
私はパジャマ代わりに着ていた長シャツを脱ぐと、それを思い切りベッドへ叩きつけた。




第2章


 佐山CMOとの約束の日、ずいぶん早い時間に車に乗せられた私は、華やかな大通りに面したセレクトショップに連れこまれていた。

「まぁ、ステキですね。これもよくお似合いですよ」

 なんだかよく分からないまま、お店のお姉さんたちに囲まれ、着せ替え人形にされている。

「いやぁ。これからみんなの前に、俺と一緒に出て行くんだからね。恥はかきたくないだろ?」

 えらく機嫌のいい佐山CMOに対し、私はちょっぴりイラっときてにらみ返す。

「私の着ている服が、気に入らなかったってことですか?」

 そりゃ今試着している服は、私の着ていた服の5倍の値段はしている。
値札の数字がハイパーインフレ状態だ。
絶対に何かがおかしい。
その佐山CMOも、やっぱりどこかのセレクトショップで仕立てた服なのだろう。
春らしい白のスラックスに、やや茶色味のかかったグレーのシャツと濃紺のブレザーは、生地と仕立ての良さが何よりも目につく。

「いや、ほら。今日は君の誕生日でもあるだろ? こないだの借りついでに、誕生日プレゼントにしたいと思ってさ」

 そうやってウインクなんか出来ちゃうところが、この人をうらやましく思うところだ。
私のイヤミも、簡単に受け流してくれる。
大企業の次男坊で、お金も仕事の実績もあるちゃんとある人だ。
誰か対して、何の遠慮も気負いもしたことなんてないのだろう。
強くて自由で、私とは正反対だ。

「よく私の誕生日が分かりましたね」
「社員の履歴書を見たから」

 あぁ、なるほど。

「それに、三上氏の作品がオークションにかけられるのを見に行くんだよ。実のお孫さんが来場するってのに、変な格好はさせられないじゃないか」
「変な格好ですいません」

 そう言うと、彼はにっこりと微笑んだ。

「君は俺の隣に立っていればいいんだ。目立つから。大勢の中で話題を集め注目を浴びることは、とても気持ちがいい」
「それが目的なんですね」
「そう。君といれば、周囲は遠慮するだろう。俺は誰にも邪魔されずに作品を見て回れるし、君もじっくり会場を見て回れる。丁度都合がいいじゃないか」
「そんな風に考えたことないです」
「そうか。それは残念だ。なら俺がこれから教えてあげよう」

 なんだそれ。嫌な人。
だけど、卓己なんかと一緒に行ってずっと気を使われ、劣等感に苛まれながら一日を過ごすより、これくらい割り切ったお付き合いを出来る人の方が、ずっとやりやすい。
私は目の前に並べられた服の中から、黙って一番安い服を探し始めた。

「しかし、君の家に行った時は驚いたよ。三上氏の代表作、『白薔薇園の憂鬱』に描かれた、あの庭とそっくり同じじゃないか! あの絵は、実際に画伯の自宅庭園で描かれたものだってことは、知識としては頭に入っていたけど、まさか本当に今も残っているとは思いもしなかった」
「大変なんですよ。そのバラの管理が」
「いやー、それがとてもうれしくってね。ぜひ一度、薔薇の季節にお邪魔させていただきたい。実は君が本物かどうかを確かめるために自宅まで送っていったんだけどさ、驚いたよ! そこに現れたのが、日本の現代美術を牽引する第一人者、安藤卓己氏の登場だ。安藤氏は三上氏が唯一認めた弟子だってことは、業界でもよく知られている。あの日は興奮して眠れなかったよ、どうしてくれるんだ、僕の貴重な睡眠時間を!」

 これだけ堂々と私ではなくおじいちゃん目当てで近づいたと、はっきり言ってくる人も珍しい。
この人は絵とか美術品、アートの話しになると終わらないので、最後に目に付いた紺のワンピースを持ち上げる。
試着室に入ろうとした時、彼の手がもう一つの別の服を差し出した。

「似たような服を前に着ていたじゃないか。却下。こっちを着てみて」

 総レースの上品な淡い水色のワンピース。
シフォンのヨーロピアンワンピースだ。
ふわっふわ。

「私、こっちの方がいいです」
「買うのは俺だ」

 佐山CMOは最初に私が手にした服を取り上げると、彼の選んだ服を押しつけた。
確かに、自分で選ぶとどうしても似たような服にはなってしまうけど……。
持たされた軽くて肌触りのいい生地がさらさらと肌に触れている。
こんなかわいい服、着たこともないし、もちろん持ってもいない。
それなのに、私が躊躇している間にも、そのまま試着室に押し込められてしまった。
どうしよう。
こんな服、絶対似合わない。

 ブラウスのボタンをひとつずつ外してゆく。
渋々腕を通す真新しいヨーロピアンワンピースのひんやりとした生地が肌に冷たい。
ふわりとしたそれに身に包むと、試着室の大きな鏡の前には、今まで見たこともない自分が立っていた。

「どうですか? 開けて大丈夫です?」

 カーテンの外に出る。
いつの間にか、服に合わせた靴も用意されていた。

「あぁ、いいじゃないか。よく似合ってる」

 彼はそう言うと、ふわりと手を差し出した。
その自然な仕草に、反射的に腕を伸ばす。
彼の手が私の手を掴んだ。

「さぁ、急ごう。オークションが始まる前に、じっくり見ておきたいからね」
「あ、あの! あんまり似合ってないんじゃ……」
「俺の見立てに間違いがあるわけないだろう。来ていた服と靴は自宅に送らせるよう手配しといたから、心配ない」

 向けられた笑顔に、目を細める。
誰かの笑顔がこんなにも眩しいと感じたことなんてなかった。
着なれない服のせいか、隙間から吹き込む風がスースーと冷たい。
手から伝わる彼の体温が、自分の以上に熱く感じた。
胸の鼓動が必要以上にうるさすぎて歩きにくい。
待たせていた車に乗り込むと、すぐに動き始めた。
柔らかなシートに身を沈め、彼の話に相槌を打つ。
何を言ってるのかなんて、内容は全く頭に入ってこなかった。
彼の隣に座っていることが急に恥ずかしくなって、ずっとうつむいている。
夢みたいだ。
こんなことが起こるなんて。

「どうかした? 気分でも悪い?」
「いえ。……ここから会場は、遠いんですか?」
「すぐだよ」

 にこっと微笑む彼の澄んだ目に、私は確信した。
あぁ、そうだ。
これは「夢みたい」じゃなくて、「夢」だ。
着てる不釣り合いな服も大嫌いな自分の姿も、鏡さえ覗かなければ自分じゃ見られない。
それが似合ってないことにも気づけないから、分からない。
嫌なことも知らずにすむ。

だから一日、夢をみて過ごそうと思う。
せっかくの誕生日なんだから、今日だけは許してください。
巨大ビルの車寄せに滑り込むと、私たちは会場へ向かった。




第3章


 巨大な展示会場のほぼ全て貸し切ったアートフェスは、本気で大規模な展示会だった。
アート展らしく会場の入り口の高い天井から太陽と月をモチーフにしたという不思議なオブジェがぶら下がっていて、階段の手すりにツタに埋もれたドラゴンの装飾が巻き付けられている。
床やちょっとした壁の一部にまで、何らかの絵や仕掛けが施されていて、前を横切るとセンサーに反応して動き出すものもあった。
参加ギャラリーごとに個別ブースも設置されていて、会場のあちこちに絵画や骨董品、宝石や彫刻が並んでいる。

「す、凄い!」

 足を踏み入れた瞬間、私は会場の雰囲気にすっかり圧倒されていた。
いつもおじいちゃんのアトリエを遊び場にしていた私にとって、美術品に囲まれることは特別なことではなかった。
それでもこの会場にあふれる真新しいアートの空気が、息をする度に私を生まれ変わらせている感覚が震えるほど分かる。
肌身に染みついた祖父の作品にはない、今を生きるアートの力強さを全身に打ち付けられている。

「紗和子さん。ね、いいだろ? 見に来るだけでもその価値があるって、分かってくれた?」
「はい。なんだか息が苦しくて、ドキドキします」
「はは。それはよかった」

 どれもこれも、初めてみるものばかりだ。
手すりに巻き付けられた焦げ茶色の小さなドラゴンと目が合うと、彼はゆっくりとその精巧な瞳でまばたきをし、あくびする。

 おじいちゃんの作品目当てにオークション会場へ行くときはいつも、わずかなお金を握りしめ、競りという戦いに挑むためのものだった。
勝負とか駆け引きだとか、そんなものをなにも気にしないで、並べられた作品にゆっくりと目を配ることなんて、ずっと忘れていた。

「あ、ありがとうございます。本当に、来てよかったです」

 胸の鼓動が止まらない。
自分にかけられていた呪いから、ゆっくりと解放されてゆくのが分かる。
彼が楽しそうに蘊蓄を語るのを聞きながら、混雑した一般会場を一周し、二階に設置された特設会場に入った。

「ずっと申し訳なく思ってたんだ。紗和子さんを泣かせたこと。俺にとっては、面倒な相手を黙らせるためのものだったのに、誰かにとってそれは、とても大切なものだったんだって」
「もう気にしてませんから」

 佐山CMOが受付で招待状を見せると、私たちに入場許可証が渡された。

「君は有名なんだってね。いつも泣いて会場を後にしてるって。それを聞いて、俺は逆に三上恭平は泣いてるんじゃないかと思ってね。きっとおじいちゃんは、紗和子さんを泣かせるために作品を作ったんじゃない」

 薄暗いトンネルのような通路を抜け、ロビーに出る。
ここからは一般参加者は入場出来ない制限区域だ。
オークションに出品される作品だけを並べた展示室へ入る。

「だから君を泣かせてしまった俺が、今度は笑ってほしくて。泣かせっぱなしじゃ、後味悪いだろ?」

 一番奥に堂々と掲げられた絵の前に立ち止まり、それを見上げる。
深く濃い緑の山々にぼんやりと霧のかかる風景画だ。
力強い岩肌と風雪に耐え真っ直ぐに伸びた木々が大胆に描かれ、そこに浮かぶ柔らかな靄との対比が、とても美しく描かれている。

「これが今回のオークションの目玉の一つ、三上恭平の『山』だね」

 この絵は、私が生まれる前に描かれたものだ。
見たことがない。
だけど確かに、おじいちゃんの作品だと分かる。

「三上恭平といえば、多彩な人だったから。陶芸や彫刻なんかも残しているけど、やっぱり一番は絵画作品だよね」
「えぇ。おかげで絵には、手が出ません」

 そう言うと、佐山CMOは誰に遠慮することなく笑った。

「あはは。まぁ、紗和子さんの気持ちは分かるけどね。だけどさぁ、やっぱり三上恭平の独り占めはよくないと思うよ」

 快活な笑い声に、周囲の注目が集まる。
佐山CMOの存在に気づいた人もチラホラと出てきたようだ。

「CMOは、どうしておじいちゃんの作品が好きなんですか?」

 その質問に、彼は人懐っこいいたずらな笑みを浮かべた。

「ひみつ」

 あどけないその笑顔に、私は耳まで赤くした。
自分より年上の、背の高いその人を見上げる。

「ひみつって、別にいいじゃないですか」
「さあ、他の作品も見てまわろう」

 彼にエスコートされ、フロアを巡回する。
誰もが彼に話しかけようとして、私が隣にいることに遠慮していた。
その視線は嫉妬なのか嫌悪なのかよく分からない。
そりゃ他人のデート現場に足を踏み入れようとは思わないよね。
本当は私と佐山CMOは、全然そんなことないんだけど。

 スッと伸びた背筋に、楽しそうにアートについて語る横顔を見上げる。
こうやって彼は、今までに何人の女性と様々な時を過ごしてきたのだろう。

「佐山CMOは、イヤじゃないのですか」
「なにが?」
「注目されたり、世間の期待に応えていかなきゃって思うこと」

 誰かに聞いてみたくて、だけど決して聞くことの出来なかった問いを、初めて彼に投げてみる。

「別に」
「どうしてですか」

 彼はその端正で整った顔に、これ以上なく穏やかな笑みを浮かべた。

「自分以外に、自分はないから。それに悩んでも仕方なくない?」
「自分に嫌になることはないんですか」
「なることもあるけど、だからってどうしようもないでしょ。それで変われるものでもないし」

 数々の美術品の並ぶ中、彼は人魚姫をモチーフにした大理石の小さな彫刻の前で膝を曲げると、それに視線を合わせた。

「俺が本当になりたかった自分になれてるかって言ったら、そうでもないし」
「えっ」

 嘘だ。
避難の目を向けたら、彼は笑った。

「ね。だから他人から見た自分の評価なんて、意味ないんだって」

 人魚姫の彫刻は、小さな白く滑らかな肌をして柔らかそうに見えるのに、ちゃんと固い。

「自分が成功したと思ってるなら、それは成功だし、そうじゃないのなら、世界中からどれだけの羨望を浴びたって、負けだよね」

 彼は私の腰に手を回すと、それを引き寄せた。

「ま、俺がモテるのは、自分でもちょっと異常だと思ってるけど?」
「詩織さんの一件があっても、まだそう思ってるんですか?」

 私は近づきすぎた彼の体を押し返す。

「え? だって今まで会った女の子から、俺、嫌われたことないんだけど」

 冗談なのか本気なのか、どっちともとれるような顔でフンと鼻をならす。

「ま、それでも本当に好きな人から好かれないと、意味ないんだけどね」
「CMO、好きな人いるんですか? 誰です? 会社の人?」
「ひっみつー!」

 あははって笑って誤魔化すから、どれだけ問い詰めてもそれ以上は答えてもらえない。
じゃあ紗和子さんの好きな人を教えてくれたら教えてあげるよって言われても、そんな人なんていないんだからズルい。

「ほら、紗和子さんもやっぱり、俺のことが気になってきたでしょ?」
「なってません!」
「本当に?」

 私には眩しすぎる、その笑顔を向ける。

「俺は紗和子さんの好きな人がどんな人なのか、気になってるけど?」

 頭に血が上る。
目の前がくらくらするのは、返す言葉が見つからないから。
立ち尽くす私と佐山CMOの前に、おばさま三人組が現れた。

「あら颯斗さん。今日はまたずいぶんとかわいらしい女性を連れていらっしゃるのね」

 にこやかに私たちを取り囲んだのは、ギッタギタの宝飾品で身を固めた、おばさまたちだ。
彼女らがお金持ちなのはよく分かったけど、ファッションにセンスはない。
佐山CMOとおばさま方は仲がいいのか、彼は上機嫌で応えた。

「紹介しますよ。彼女は三上恭平氏の実のお孫さんです。僕が見つけて、連れてきたんですよ。凄いでしょ」
「まぁ! あなた、そうでしたの?」
「それはとっても素敵なことね」

 私は自分の持つ最高の愛嬌でもって、そのまなざしににっこりと微笑む。
彼女たちは大げさなほど私の容姿を「かわいい」などと褒めそやしてくれるけど、聞いてる方はむずがゆくて仕方がない。
いま来ている服は全部佐山CMOが選び着せられたものだ。
あからさまなお世辞にも、彼はまんざらでもないようだ。

「ね。紗和子さんは、かわいいでしょ?」
「えぇ本当に。私の若い頃にそっくり!」

 おばさまたちのおしゃべりは、ぺちゃくちゃと一向に収まる気配はない。
私はそれに適当に返事をしながら、機嫌良く会話を続ける彼の横顔をチラリと見上げた。

 まぁ、そういう紹介になるよね。
三上恭平の孫だって。
楽しそうに話す彼の言葉に、傷ついている自分がいる。
彼に悪気はないことも、十分に分かっている。
得意げに私を自慢する彼にとって、私の役割は黙って彼の隣にいること。
ここに来る前から、そう言ってたじゃない。
自分だって納得した。
彼が私を連れてきた本当の目的は、話題作り以外のなにものでもない。
服も買ってもらったし、私はこの人と一緒じゃなければ、このオークションルームには入れない立場だ。
入場許可証である招待状を持つ人と、その同伴者一人だけがここに入ることが許されている。
おじいちゃんの絵に会いに来るためだもの。
これくらいのことは、何でもない。
こんなことぐらいしか、私には彼に返せるものがないから、その役割をちゃんと果たさなければ……。

「先日、デイリーオークションの会場で女性を泣かせたと、さんざん周囲から怒られましたからね。もうそんなことはしませんよ」

 おばさまたちは笑って、「よかったわね、仲直り出来て」なんて言ってる。
私は「えぇ、そうですね」なんて言いながら微笑んだ。
そういうことだ。
彼は彼の所属する社交の場で、名誉の回復がしたかっただけだ。
決して私を一人の友人とも、ましてや恋人とも紹介はしない。
社員じゃなかっただけ、マシなのかも。

 すぐに別のおじさまがやって来て、おばさま方と一緒になって話し始めた。
佐山CMOのアクセサリー役を引き受けたといっても、さすがにずっとお人形のまま、じっとしてはいられない。
私はじわじわとCMOから距離を取りつつ、ゆっくりとその場を離れた。
広い会場だ。
迷子になったって、携帯ですぐ連絡はとれる。
いつまでも自分じゃない自分を作っているのも疲れるから、悪いけど一旦休憩させて下さい。
そもそも祖父の作品に関する知識しか持っていない私には、彼らの広範囲にわたるアートの話題に、とてもじゃないけど、ついていけない。

 その輪を抜け出し、もう一度おじいちゃんの絵の前に立って、別れを惜しむ。
3千万円。
3千万円からのオークションスタートかぁ~。
額縁の脇に小さく添えられた金額に、複雑な気分になる。
値段が全てではないことは、もちろん分かっている。
だけど、父が最初にこの絵を売った時は、いくらの値をつけていたんだろう。
そしてこれから、どれくらいの値がつけられるのだろう。
祖父との折り合いの悪かった父は、寡黙な人だった。
病弱でいつもベッドに寝込んでいるような人だった。
そんな父は3千万以上の価値を、祖父の作品に見ていたのだろうか。

 自分のものではない作品を見上げる。
背後から、覚えのある声が聞こえた。

「あら。ずいぶんとこの絵を熱心にごらんになっているのね、興味がおありかしら」

 私は瞬間的に身構えると、慎重に声の主を確かめた。
この声は、忘れたくても忘れられない。

「三上恭平の孫が来ているっていうから、冗談かと思ったのに。本当に来ていたのね。驚いた」

 豊橋良子。
おじいちゃんの昔の恋人で、私の父の産みの親だ。
個人で画商みたいなことを始めたとは聞いていたけど、失敗した。
まさかこんなところで鉢合わせするなんて。
これだけの規模のアートフェスだ。
彼女がここにいたって、不思議じゃない。

「聞けば、佐山商事の息子さんと同伴だとか。ずいぶんといいお相手を見つけたものね」

 歳のわりに手入れの行き届いた気持ち悪いほどつるつるした肌で、彼女はにっこりと微笑む。
髪は完全に白髪で、きっちりセットされていた。
キラキラと光るラメ入りの派手な白いスーツに、ぽっちゃりとした身を固めている。

「彼にかわいくお願いして、この絵を競り落としてもらうつもりかしら」
「そんなことしません」
「まぁ! それじゃあ、彼をここに連れてきた意味がないじゃない」

 この人は父の葬儀の後で一度だけ面会した、私の祖母にあたる人だ。
身寄りをなくした私の、扶養義務を負わないということだけを互いに書面で確認して、すぐに別れた。
彼女は17歳の時に、おじいちゃんと道ならぬ恋をして父を産み、その父が3歳の時に子供をおいて家をでた。
元々資産家のお嬢様だったらしいが、とっくの昔に自分の家よりもさらにご立派な資産家一族と再婚し、完全に過去を切り捨てて生きている。

「聞いたわよ。競りで負けて泣いて帰ったって。あんまり恥ずかしいこと、しないでくれる?」
「あなたとは、全く関係ありませんけど」
「あぁ、それもそうだったわね。だけど、三上恭平の孫がお金に苦労してるなんて、あまり聞こえのいい話しじゃないでしょ。いつまでもあの人の名前で金になる男漁りしてるだなんて。恥を知りなさい」
「あなたの価値観だけで、勝手な話をしないでもらえます?」
「やってることを外から見れば、そうだと言ってるのよ。分かってやってんでしょ」

 吐き捨てるように言われ、拳に力が入る。
なんて言い返せば、分かってもらえるのだろう。
そもそも私の存在を自分にとっての害悪としか思っていない相手に、話なんて通じるの?

「あら、怖い顔。やっぱり可愛くないわね。声かけるんじゃなかった」

 彼女の指には他のおばさま方と同様に、ぎったぎたに大粒の宝石をはめた指輪がいくつもつけられていた。
だけど唯一、右手の薬指にだけはなにもつけていないことに、何かが引っかかる。

「ねぇ、どうしてその指にだけ、指輪をしてないの?」
「え? なんですって?」

 急に不機嫌を顕わにした彼女の背後から、見知らぬ若い男女が顔をのぞかせる。

「あら、おばあさま。珍しいのね。誰とお話ししていらっしゃるのかしら」

 現れたのは私より年下の、まだ大学生っぽい二人組だった。
お揃いで仕立てたような白とグレーのスーツを着ている。
おばあさまは私と接触している現場を本気で見られたくなかったのか、それまでと打って変わってにっこりと愛想笑いを浮かべ、私に紹介を始めた。

「彼女は豊橋紅。この子は想よ。よろしくね」

 二人のツンとした雰囲気が、いかにも意地の悪そうな感じだ。
指輪の話、そらされちゃったな。

「二人とも、私のかわいい孫なの」

 そう言うと彼女は、彼らの肩を愛おしそうに抱き寄せた。
目の前に私というもう一人の孫がいるのに、穏やかに微笑んでみせる。
だけど私だって、この人と血のつながりがあることを、他の誰にも言いたくないし、知られるのも不愉快だ。
それは彼女にしても同じ考えだったらしく、私たちは一番大切なことに口をつぐむ。

「紅。この子はね、佐山商事の息子さんと一緒にこの会場に来てるのよ。あなたも少しは見習いなさい」

 紅と呼ばれた女の子は、肩まで伸びた明るい栗色の髪をふわりとなびかせた。

「佐山商事? あぁ、あの軽そうな男か。次男でしょ。会社継ぐわけじゃないし」
「そこから人脈広げなさい。あれくらいの最低ラインは維持してほしいわね」

 紅を一瞥し、おばあさまは立ち去る。
その背中に彼女はボソリとつぶやいた。

「そんなこと、言われなくても分かってるって」

 隣にいた想はフンと鼻で笑う。
イヤな感じ。
いずれにしても、関わりたくない。

「じゃ、私はこれで」

 おじいちゃんの絵を前にして、なんて展開だ。
ムカムカする。
紅と想の姉弟を残して、私も足早にそこを立ち去った。
オークション開始時間には、まだ少し時間がある。
私は入場制限のある特別会場から、一般会場へと足をのばした。
ここなら佐山CMOもいないだろうけど、あのバアさんと孫たちもいない。

 アートフェス一般会場の即売品を、ゆっくりと見て回る。
到底手の出せないような高額品から、手ごろな値段のものまでずらりと並んでいた。
それぞれのギャラリーが取り扱う作品の雰囲気から店の個性や得意分野が分かって、見ているだけでも面白い。

 一階展示場に比べ、人の少ない二階展示場をゆっくりと見て回る。
二階会場は宝石や海外からの出展で、自由に出入り出来るとはいえ、賑やかな一階会場とは随分と雰囲気が異なり落ち着いていた。
ふと視界に入ったギャラリーの受付に、白磁の置きものを見つけた。
丸く平らな作りのペーパーウェイトで、白地に大きく花の模様が型押しされ、鮮やかに彩色されている。

 おじいちゃんの作品だ! それも2つ! 
私は勢いに任せ、それに飛びついた。

「これ! これ、どうしたんですか!」

 受付に座っていた女性は、びっくりして顔をあげた。

「これ! これ下さい。2つともです。青とオレンジの両方、全部! いくらです? 他にも在庫ありますか? いくらで譲っていただけます?」
「あ、あの……。申し訳ございませんが、こちらは売り物ではございませんので……」
「じゃあ、これください。これが欲しいんです。買います。売ってください」

 受付の女性二人は、困ったように顔を見合わせた。

「あの、こちらは売り物ではないので……」
「どなたにお願いすればよろしいですか? どうしてもこれが欲しいんです」

 受付のお姉さんたちが困っているのも分かるし、自分だって無茶言ってるのも分かってる。
だけどここで引き下がってしまえば、もう絶対に手に入らない。
男性の営業マンが間に入って、別の作品をすすめてくれたりしたけど、私だって、簡単に引き下がるわけにはいかない。

「お願いします。どうしてもこれが欲しいんです!」

 作品としては日の目をみることのない代物だ。
しばらく押し問答をくり返していたら、奥から人が出てきた。
あの紅と想だ。

「何を騒いでいるのかと思ったら、一体なんなの」
「ここ、あなたたちのブースだったの?」
「そうよ。ここはおばあさまが趣味で始めたギャラリーなの」

 最悪だ。
冷静さを取り戻した私は、ようやくギャラリーの中を見渡す。
アンティークの雑貨や食器、宝飾品などが並ぶ、よくある店だ。
だけどそれならば、なおさらこの作品は取り戻さねば。
私は背筋をピンと伸ばすと、改めて交渉に入った。

「これが売りものでないんだったら、私にくださらない? どうしても手に入れたい品なの」

 紅はフンと笑うと、髪色と合わせたようなミルクティー色のカラーでネイルされた爪を伸ばし、二つのうちのオレンジが主体で色づけされた方を手に取った。

「ねぇ、あなた。あのおばあさまとどういう関係? あの人、自分の利害と関わりのない人間とは、一切口をきかない主義なのよ。時間の無駄だとか言っちゃって。それなのに自分からわざわざ話しかけにいくなんて、とっても珍しいことなの」
「そうなんだ。悪いけど、理由は分からないわね。あの人の興味があるのは、私の彼氏じゃないの?」
「彼氏って、佐山商事の次男のこと?」

 ピクリと反応した紅に、私は腕組みして、思いっきり上から目線でにらみつける。
こんな年下の小娘に喧嘩売られて、大人しく引き下がるような私じゃない。

「さぁね。私は別にあの人のことなんて、なんとも思ってないんだけど。今日もね、彼に無理矢理誘われて、ここに連れてこられたの。そうそう、今着てるこのワンピースもね、ここにくる直前に、彼にお店に連れていかれて、そのままプレゼントされたものなのよ。ホント、困った人ね」
「あぁ、そうですか。よかったね」

 紅は興味なさげに視線を横に流した。
嘘はついてない、嘘は。

「あなたには、そんな素敵な恋人はいらっしゃらないのかしら?」

 紅はそんな挑発には乗らず、首を傾けた。

「こんなゴミみたいな作品の、どこがいいのかしら。正直言って、出来損ないだわ。三上恭平の名前がついてなければ、せいぜい千円か2千円程度の、どこにでもあるような、ただの重しよ」
「えぇ、そうかもね。あなたの目には、それはゴミのように見えるかもしれないけど、私にとってはそうじゃないの。れっきとした価値のある作品よ」
「自分には、その価値が分かるって言いたいの?」

 紅はオレンジのウェイトを口元に当てると、にやりと笑った。

「じゃあ、あなたはもし、私がこのペーパーウェイトをゴミ箱に捨てたら、あなたはそのゴミを漁って持ち帰るのかしら?」

 隣でずっと退屈そうに聞いていた想が、くすくす笑った。 

「それいいね、紅。捨てちゃえば?」
「だよね」

 紅は受付台のすぐ横に置いてあったゴミ箱に、ウェイトを持った手を大きく振りかざした。

「捨てたければ、捨てればいいじゃない! 例えそれが無名作家の作品であっても、誰かが作った大切な作品をゴミ箱に捨てるような人間は、美術商にはむいてないわ!」

 紅は振り上げた手を下ろすと、ふわりと巻いたミルクティー色の頭を傾け、じっと私を見つめる。

「そうね、分かったわ。あげるわよ。でもね、ただそのままあげるんじゃ、面白くないじゃない? ゲームをしましょう。この会場のどこかに、このペーパーウェイトを隠すのって、どう? 見つけたら、あなたのものよ」

 紅は自分の思いつきに満足したのか、フッと笑った。

「私たちが手に持っている間は、そこから奪いとっちゃダメ。同時に見つけた場合は、先に取った方が勝ち。どう?」
「ずいぶんとあなたたちに有利な条件ね。それをずっと手に持っていたら、意味ないじゃない」
「そんなずるいマネは、さすがにしないわよ。どうする? 私たちは別に、あなたにこれを譲っても譲らなくても、どっちだっていいのよ」

 ここで引き下がったら、もう二度とこのペーパーウェイトは手に入らない。

「わかった。やる」

 姉弟は示し合わせたように目を合わすと、にやりと微笑んだ。

「じゃ、俺はこっちね」

 想はテーブルに置いてあった、もう一つの青を基調としたウェイトを手にとる。
紅と想の二人がおじいちゃんのウェイトを手に、私の前に立ちはだかった。

「目をつぶって、ゆっくり30秒数えてちょうだい。そこからがスタートよ」

 覚悟を決める。
ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと心の中で秒を刻む。
1、2、3……、28、29、30!

 目を開けると、こぢんまりとしたブースに、困惑した表情のままの受付のお姉さんと、従業員らしき数人しか残っていなかった。
私はそこを抜け出すと、二階会場の通路から階下に広がる広大な会場を見渡す。

 ゲームの始まりだ。
あいつらはオークションの行われる特設会場にも入れるし、業者専門の一般参加者立ち入り禁止区域にも入れる。
よく考えてみれば、とんでもなく不利な条件だ。
それでも、やるしかない。
おじいちゃんの作品を撮り戻すためだ。
展示会場ののべ床面積は7万㎡。
壮大な宝探しが始まった!




第4章


 吹き抜けとなっている中央階段脇の二階通路から、階下を見下ろした。
会場の賑わいは、午後に入っても衰えていなかった。
一般展示会場となっている一階会場はもちろん、二階の入場制限のかかったオークションルームと、それをぐるりと取り囲む二階一般会場の通路にもブースがある。
どこをどう探そう。

 一階西側の展示場は、個人商店や、アーティストの団体とか、サークル的な要素の強いブースも並んでいた。
美大や、地方団体の工芸品なんかも展示販売されていて、大変な賑わいだ。
いくらあの生意気そうな姉弟でも、さすがに他人のブースに侵入していくことは考えられない。
ごちゃごちゃと混雑した所に放置したとしても、落とし物として届けられるか、心ない誰かが勝手に持って行ってしまうだろう。
この状況下で、事情を知っている自分たちのブース内に隠すとも思えないし……。

「よし。決めた」

 見下ろす一階会場に背を向ける。
私は捜索場所を、特設会場に絞った。
通路を進み、オークションルームと、その展示場になっている広間へ向かう。
チェックを受け人通りの減った連絡通路の向こうに、くるくると巻いた短い茶髪を見つけた。
弟の想だ! 
見つからないようしっかりと距離を取りながら、こっそり後をつける。
彼はグレーの細身のスーツに、すらっとした足と腕で、軽快な足取りで歩いていた。
抜群にスタイルはいい。
このままバレないよう後をつけ、彼の手からウェイトが離れた瞬間手に入れれば、条件クリアだ!

 想はおじいちゃんの大切な青のウェイトを片手に、ふらふらとあちこちを物色しながら歩き方をしている。
どうやら彼なりに、隠し場所を考えているようだ。
時々立ち止まってウェイトを口元に押しつけたり、手に持ったままぶらぶらと振り回してみたり、とにかくウェイトの扱いが雑な上に危なっかしい。
私は彼の後をつけながら、その様子にずっとハラハラしていた。
割れ物なんだから、もっと大事に扱ってよね!

 その想は展示会場前のロビーで、どうやら知り合いと鉢合わせたようだ。
ウェイトを片手にすっかり話し込んでいる。
想と同級生か、もしくは同じくらいの年齢の男の子たちだ。
私は彼らの視界に入らないよう、おつまみ程度の簡単な軽食と飲み物が振る舞われているロビーで、いつでも動けるよう気を遣いながら、人混みに紛れ想の監視を続けた。

 しばらくして、ようやく彼らと別れ、また一人で歩き始めた。
携帯を取りだし、しゃべり始めたと思ったら、すぐにそれを切ってポケットにしまう。
そこから彼は、特設会場の展示室内でじっと立ち止まったまま、動かなくなってしまった。
何を考えているんだろう。
どうでもいいけど、早く何とか動いてくれ。
私はもう一つの、紅の持つオレンジのウェイトも追いかけなくちゃいけないんだから。

 どうしたものかと思った瞬間、その想がパッと動き出した。
彼は間違いなく、隠し場所に検討をつけた。
足取りが速い。
それまでのふらふらした歩き方とは打って変わって、迷うことなく進む彼は、オークション出品作品の展示場になっている特設会場を抜けだし、自分たちのギャラリーブースへ向かっている。
表の受付は無人となっていたその中に入ると、パーティションの向こうに姿を消した。

 え? ここなの? 
こんなところに、あの手の平サイズのウェイトを隠そうっていうの? 
ちょっとズルくない? 

 白く薄い壁の向こうは、彼ら専用の荷物置き場だ。
パーティションの向こうをのぞき込まなければ、想の様子は分からない。
だけどそんなことをすれば、私が彼の後を追い、ここまで来たことが当然ばれてしまう。
だけど……。

 薄い仕切りの向こうで、ごそごそと何かをしている物音が聞こえる。
奥には他に誰かいるのか、会話をしているのは分かるが、その内容までは聞き取れない。
ここで私が顔をのぞかせれば、彼はいま隠そうとしているウェイトをルールに従い確実に手に取るだろう。
それはこの追いかけっこが、振り出しに戻るということなんだけど……。

 キッと顔を上げる。
覚悟を決めると、奥へと突き進んだ。
そんな所に隠されても、私には絶対に見つけられない。
だったらたとえ嫌がられても、顔を見せるしかない。

「すみません!」

 勇気を振り絞り、その中をのぞき込んだ。
奥の狭い空間は、やはり彼らの荷物置き場になっていた。
他の従業員の上着や鞄などの荷物、文具類や書類、梱包材なんかが並んでいる。
想と荷物番らしき男性が、私を振り返った。

「なんでここが分かったの!」

 想は栗色の髪にくりくりした丸い目で、驚いた顔を上げる。

「なんでって、後をつけてきたのよ」
「なにそれ、ずるくない?」
「ルールには入ってなかったでしょ。それに、こんなところに隠そうってのも、卑怯だと思うけど」

 私がにらみつけたら、想は声を出して笑った。

「あのね、さすがに僕だって、こんなところに隠そうとは思ってないよ」

 彼はにやりと笑って、手に持った青い花柄のウェイトをちらつかせる。

「おばあさまに頼まれてね、ちょっと荷物を取りにきただけなんだ。ほら、ちゃんとまだ手に持ってるでしょ」

 ムッとした私に、彼はにこにこと笑みをこぼす。

「いやだなぁ。そんな怖い目で見ないでよ」

 想は何か言いたげな従業員の男性に、「じゃ」と軽く挨拶を残して、パーティションの奥から抜け出した。
私は慌てて彼の後ろをついて歩く。

「あーどうしようかなぁ! こうやって後をつけられてると分かった今、ウェイトを隠そうにも隠せなくなっちゃったよねー」

 想は私を下から見上げるようにして目を合わせると、人懐こい笑顔を向けた。

「ねぇ、お姉さん。どうせなら二人で並んで、一緒に歩こうよ」

 彼は無邪気な笑顔を浮かべたまま、私の隣に並んだ。
指先が偶然かそうでないのか接触し、手を握られそうになって、それを振り払う。

「ふふ。冷たいなぁ。こう見えて僕も、女の子からは結構モテるんだけどね。まぁ佐山商事の御曹司とつき合ってるんなら、僕なんか目に入らないか」

 今日の私はヒールのある靴を履いているせいか、想と視線の位置はほとんど変わらない。
彼をひとにらみしてから、1歩先に出た。

「彼氏とデートで来たっていうわりには、一緒にいないよね。だって今この瞬間も、どっちかっていうと、僕とデートしてるみたいじゃない?」

 想はワザとなのか天然なのか、幼さの残るあどけない笑みをにっこりと浮かべた。
彼がからかってきてるのなんて、百も承知だ。

「想は、歳はいくつなの?」
「俺? 19」

 じゅ、19か。5つも下じゃないか。

「ねぇ、お姉さんの名前は? なんて呼べばいいの」
「紗和子。紗和子よ」

 勘の鋭いような子には見えないけど、名字は伏せておく。
三上恭平の孫だと知れたら、私とあのバアさんの関係にも、気づかれるかもしれない。

「紗和子ちゃんか。じゃあ、紗和ちゃんでいいよね」

 彼はそれはそれは可愛らしい、屈託のない笑みを見せると、上機嫌で歩き始めた。
この人懐こい感じは、お坊ちゃま特有の性質なんだろうか。
そういえば佐山CMOも、初めからやたらフレンドリーだったな。

「あ。ねぇ、見てこの作品。僕さ、この人の作品、好きなんだー」

 そんなことを言いながら、楽しそうにしゃべってるけど、私は想の好きな作品なんかに興味はない。
おじいちゃんの作品だけだ。
彼の話を完全に無視していたら、想はぷぅっと頬を膨らませた。

「もう、紗和ちゃんったら。そんなに怒ってばっかりじゃつまらないでしょ。せっかくなんだからさ、この状況を楽しもうよ」

 想はにっと笑って、また私を下からのぞき込む。

「それとも、他の男と並んで歩いてるのが見つかったら、カレシに怒られちゃう?」

 彼のワザと誇張した「カレシ」という言い方に、私の方が恥ずかしくなる。

「な、そ、そんなことないって!」
「あはは。紗和ちゃん、おもしろーい」

 想はこれ見よがしにウェイトをチラつかせたまま、一人で私とのデートを楽しみ始めた。
あのおばあさまの孫とだけあって、アートに関する知識は私より豊富だ。
楽しそうに美術品について語る彼を、きっとこんな状況じゃなければ、かわいらしいと思っただろう。
にこにこと笑顔を絶やさず、明るく振る舞うその仕草は、あどけなさの中にもちゃんと知性と教養を感じさせる。
色白のスラリとした抜群のスタイルで、顔も悪くない。
根はいい子、なんだろうな。
そんな想が、不意にクスリと微笑んだ。

「紗和ちゃんってさ、三上恭平の孫なの?」
「え? なにそれ」
「噂になってたよ。佐山の御曹司が連れてきてるって」

 やっぱり見た目だけで、人を判断しちゃいけない。
私は慎重に言葉を選ぶ。

「知らないから」
「僕も聞いたことがあるんだ。この業界じゃ有名だよね。オークション会場に現れては、三上作品の値をつり上げるだけつり上げて、結局落札できないって」

 想はキラキラな笑顔を見せた。

「いや、ギャラリーとしては、ありがたい存在なんだよ。ヤラセで値をつり上げてんじゃないかって思われがちだけど、紗和ちゃんは本気だもんね」

 ギロリとにらみつけた私に、想は相変わらず人懐こい笑みを浮かべる。

「だけどさ、お金持ちの彼氏、捕まえちゃったんだったら、今後はますます仲良くしておいた方がいいよね。三上恭平作品なら、必ずお買い上げしてくれるいいお客さんになるんだから。だからうちのばあさんも、話しかけたんだろ?」
「私はそんな風に、誰かを思ったことないんだけど」
「だって現に今も、コレを欲しがってるじゃないか」

 想はおじいちゃんの青いペーパーウェイトを片手に微笑む。

「コレ、三上恭平作品なんでしょ?」

 分かってやっていたのか。
やっぱり侮れない。
私が黙りこむと、彼はまたにこっと微笑んだ。

「三上恭平の自宅アトリエから作品が放出された時に、出てきたものだって。陶器の焼き加減を確認するための試作品だって言われてるけど、きれいだよね。一見落書きみたいにも見えるけど、丁寧に花が描かれてる。老成に達してもなお、新しい表現を模索していた様子がよく分かる作品だよ。まぁ確かに、値を付けられるような完成度ではないけど。こういうのって、全庫出品セールならではの放出品だよね」

 私は彼をおいて、先を歩き始めた。
最初から分かってやっているなら、彼らにウェイトを譲る気なんてさらさらない。
時間を無駄にして、その分私が傷ついただけ。
彼から離れようと、さらに足を速める。

「あ、ちょっと待ってよ」

 前を向けず、うつむいて歩いていた肩が、誰かとぶつかった。
「すみません」と顔を上げると、それは佐山CMOだった。

「こんなところにいたのか。探したじゃないか」

 私はその場で立ちすくみ、じっと彼を見上げた。
そうやって顔を上げていないと、あふれてくる涙がこぼれ落ちそうだ。

「ん? どうかした?」

 想はそこへ、すかさず割り込んでくる。

「あ、初めまして。僕は『les œuvres heureuses』の豊橋想といいます。祖母の経営するギャラリーの、手伝いをさせてもらっている者です」

 彼は爽やかな笑顔を浮かべ、とても丁寧な挨拶を続けた。

「すみません。偶然三上画伯のお孫さんである紗和子さんとお会いして、うれしくてつい長い間お借りしてしまいました」

 にっこりと笑うその洗練された姿は、どこから見ても好青年だ。

「いえいえ。こちらこそ彼女の相手をさせてしまって申し訳ない。大変だったでしょ?」
「はは。そんなことはありませんでしたよ。とっても素敵な方ですので」

 想の差し出した手を、佐山CMOはすぐに握り返した。

「もうすぐオークションが始まる。想くんは見に行かないの?」
「あぁ、もう時間ですね。行きましょうか」

 先に歩き出した想の背に、気分はずっしりと重くなる。
なにやってんだろ、私。
きっと今日この会場でペーパーウェイトを見かけたことだけで、幸せだったと思わなきゃいけなかったんだ。
奇跡みたいなことなんだから。
結局彼らに振り回されただけで終わってしまった。

「紗和子さん、なにかあった? 大丈夫?」
「平気です。何でもないので」

 彼には頼れない。
自分で立て直さなくちゃ。
想が一瞬だけ振り返り、にこっとしてすぐにまた背を向けた。
そんな彼に、佐山CMOはムッと眉を寄せる。

「紗和子さんが嫌なら、今すぐにでも出て行くけど」
「いいえ。行きましょう。私もおじいちゃんの作品の、行く末がみたいです」

 薄暗い通路を抜け、特設会場のオークションルームに入る。
びっしりと並べられた椅子は、そのほとんどが埋め尽くされていた。
壇上には巨大なスクリーンが設置され、その脇にオークショニアの立つ台と作品の実物を乗せるステージが用意されている。
私は佐山CMOと並んで腰を下ろしたが、想はここからよく見える前方の席に、おばあさまと並んで座った。
オークションが始まる。

「皆さま。本日はご来場いただき……」

 あれ、紅は? 
オレンジの花が絵付けされたウェイトを持っているはずの、紅の姿が見えない。
私はそっと周囲を見渡した。
もしかしたら、想とおばあさまから離れたところに座っているのかもしれない。
そう思ったのに、座ったままチラチラとのぞく程度のことでは、びっしりと埋まった会場で彼女を探し出すことは不可能だった。

「どうかした?」
「いえ……」

 佐山CMOに気をつかわせてしまっている。
私はまっすぐに座り直した。
ここに連れてきてくれたのは、彼なのだから。
今だって私は、この人からプレゼントされた服を着て隣に座っているのに、自分のことばかりで、なにもしていない。

「……。あの、さっき想が言ってた、れぞーぶる・ずるーずって、どういう意味ですか」

 目の前で次々と競り落とされていく作品たちを見ながら、私は佐山CMOに声をかけた。

「あぁ。フランス語で、『幸運な作品』という意味だよ」

 幸運な作品……。
おじいちゃんと駆け落ちまでして産んだ父を捨て、その父から生まれた私を孫と認めない人が扱う作品のギャラリーが、そんな名前だなんて笑える。
おじいちゃんが死んでから、私にとって幸運なんて何一つなかった。
思い出は全てなくなり、残ったのは呪いのようなものだ。

「彼とは、知り合いだったの?」
「いえ。今日ここで初めて、会いました」
「そうなんだ」

 同じあの人の孫なのに……なんて、そんなことを考えても仕方ないのは分かってる。
私には私の人生があるのだから。
きっとあのおばあさまにも、あの人のなりの苦労はあったんだろうと思う。
隣の佐山CMOがもそりと動いた。

「その……。ずいぶんと熱心に、彼を見ているんだね」
「えぇ、まぁ。やっぱり見ちゃいますよね」

 おばあさまの真っ白な髪はくるくると巻いていて、少しぽっちゃりとしているものの、キリッとした表情は彼女の活動的な性格をよく表している。
おじいちゃんはあの人の、どこに惹かれたのだろう。
おじいちゃんと過ごした日々は、あの人にとって「幸運な時間」だったのだろうか……。

「へー、そうなんだ。紗和子さんは、ああいうのが好みなんだ」
「は? 何がですか」
「想くんみたいな、かわいらしい感じの年下」

 すねているような、からかっているような、佐山CMOの言葉に、私は急速に理性を取り戻した。

「違いますよ。なに言ってるんですか」
「俺もさ、結構悪くないと思うんだけど」

 そう言うと、佐山CMOはムスッと顔をそらした。

「なにがですか?」
「いや、俺がモテすぎるから、遠慮しちゃうのは分かるけどね」

 彼は不満そうに愚痴をこぼし始める。

「大体さぁ、俺と一緒に来てんのに、すぐにどっか行っちゃて、そのまま帰ってこないし。探したんだよ? そもそも君が俺と一緒にいてくれないと、邪魔者避けに誘ったのに、意味がないじゃないか」

 CMOは、いなくなった私を探してくれてたのか。
便利な魔除け扱いだとしても。
そう思うと、急に申し訳なくなってくる。

「……そうですね。すみません」
「ちゃんと俺の側にいて」

 ざわついたオークションルームで、ロット番号は進んで行く。
佐山CMOは受け取ったパドルを手に、時折私に作品情報をささやきながら、あーだこーだとしゃべり続けていた。
それに相槌を打ちながらも、私は想のくるくる巻いた栗色頭の動向に注視している。

 その想が不意に体を傾け、おばあさまに何か耳打ちをした。
彼女はそれにウンとうなずくと、想は立ち上がる。
会場を抜け出す気だ。
その気配を察した私は、勢いよく立ち上がった。
せめてもう一度、ちゃんとあのウェイトが欲しいとお願いしてみよう。
ここで逃がしては、もう絶対に手に入らない!

「すいません、ちょっと抜けます」

 動き出した私の腕を、佐山CMOはぐっと掴んだ。

「ちょ、離してください。想を追いかけなくちゃいけないんです」
「僕を残して?」

 ちょっぴり怒っているような、すねたような目で見上げられても、そう簡単に引き下がってはいられない。

「佐山CMOは、オークションを見てればいいじゃなですか」
「ねぇ、ずっと気になってたんだけどさ。仕事で来てるんじゃないんだから、いつまでもそのCMOって呼ぶのやめない?」
「あの、すみません。今めっちゃ急いでます」
「名前で呼んで」

 くっ。今はそんなこと言ってる場合じゃないのに!

「すいませんが颯斗さん。私は彼を追いかけたいので、行ってきます」
「どうしても行っちゃうの? まだ君のおじいさんの、絵の落札結果も見ていないのに? そのために今日は、僕とここへ来たんじゃなかったっけ」

 顔を上げ会場を見渡す。
想のオークションルーム出て行く後ろ姿が見えた。
このままでは、彼を見失ってしまう!

「お願いします、私を行かせて下さい。大事な用が出来たんです」

 私がこれほど焦っているのに、彼は何かを考え、少し間をおいてから言った。

「君は、このアートフェスをちゃんと楽しんでる?」
「もちろんです!」
「ふーん。そうなんだ。なら行ってもいいよ」

 助かった!

「じゃ、ちょっと行ってきます」
「でもさ、なにか困ったことがあったら、いつでも僕に相談することを、約束してくれ。分かった?」
「はい!」

 こんなことをしている間にも、想は行ってしまうのに! 
佐山CMOがのんびり小指を差し出すから、私はすぐに自分の小指を彼の指に絡める。

「約束ね。じゃあ、行ってもいいけど、ちゃんと帰ってきて」
「分かりました!」

 指が離れた瞬間、走り出す。
どこに行った、想! 
そして、おじいちゃんのペーパーウェイト! 
私は彼の後を追って、オークションルームを飛び出した。





第5章


 扉の向こうにすでに想の姿はなく、特設会場の中も閑散としていた。
当然だ。
ここに並んでいたのは、オークション出品予定の作品たちで、それが始まってしまえば、決まった落札者のもとに次々と搬送されてゆく。
空っぽになった会場の中で、いくらちっぽけな手の平サイズのものとはいえ、こんなところにおじいちゃんの作品が残されていれば、目について仕方がない。
ということは、ウェイトを持ったままの想は、一般会場の方だ!

 私は可能な限りの早足で駆けるように廊下を進み、一般会場へと繋がる階段へ向かった。
西側の展示場では、特設会場に入れない一般参加者のために、オークションの様子を配信していて、多くの人々がそれを見上げていた。
今日はフェア最終日。
すでにあちこちで片付けが始まっていた。
どこに行った、想!

 ぐるりと見渡した人混みのなかに、明るい栗色のくるくる頭を見つけた。
アイツだ! 
想はエントランスに向かっている。
アートフェス会場から抜け出す気だ。

「待ちなさい、想!」

 人目も気にせず、私は大声を張り上げる。
ここで逃がすわけにはいかない。
居並ぶ人たちをかき分け走りだした私は、振り返った想の腕にがっしりと抱きついた。

「うわっ、なに!?」
「どこへ行く気?」
「あんたには関係ないだろ」
「じゃあ、あのペーパーウェイトは、どこにやったの!」
「はぁ? あんたもしつこいな」
「どこに置いたのか白状するまで、この手は離さないわよ!」
「えぇ~。直接聞いちゃうとか、そんなのアリ?」

 私を振りほどこうとする想の腕を、放されないよう必死でつかむ。

「ルールには、なかったでしょ!」
「俺、急ぐんだけど」
「私だって急いでるわよ!」

 何かを気にしているのか、想は二階会場を見上げた。
そこにはおばあさまが従業員たちと顔をのぞかせている。

「げっ。あのばあさ……。あぁもう、分かったよ。じゃあそれ貸して!」

 彼は私の持っていたバッグを奪い取った。

「何するの?」
「ほら。もういいから、あげるよ」

 想はポケットからおじいちゃんのペーパーウェイトを取り出すと、それをバッグに突っ込んだ。
おじいちゃんの作った、青いお花の型焼きされたペーパーウェイト。

「ね、これでいいでしょ?」
「ほ、本当にいいの?」
「いいよ。だからもう離して」

 抱きつくように掴んでいた想の腕から、私は手を離す。

「あ、ありがとう」
「じゃ。僕はもう行くから」
「う、うん」

 彼はせわしなく手を振ると、そそくさとエントランスへ向かった。
なんだよアイツ。
終わってみれば、結構いい奴だったじゃないか。
拍子抜けしてしまった私は、そっと小さく彼の背に手を振り返す。
意地悪なだけかと思っていたけど、そうじゃなかった。
からかったりされたのも確かだけど、もしかしてはじめから、私に渡すつもりもあった?

 バッグに加わったわずかな重みが、私の気持ちを軽くしてゆく。
やっぱり諦めずに、最後まで追いかけてきてよかった。
自分の顔がどんどんにやけていくのを止められない。

「やった! やったよ、おじいちゃん!」

 ペーパーウェイトの入った鞄を、鞄ごとぎゅっと抱きしめる。

「ちょっと待ちなさい!」

 突然の声に、ぱっと振り返った。
想と紅の祖母である豊橋良子が、全身の毛を逆立て、怒りに震えながら迫ってくる。

「え、なに?」
「待ちなさい、想!」

 あ、想のことか。
おばあさまの声に、まだエントランスから抜けきっていなかった想は、ビクリとして立ち止まった。

「想! あんた没収した家族会員のクレジットカード、私の鞄から勝手に抜き出したわね!」

 おばあさまはもの凄い勢いで想を追いかけると、慌てふためく彼の腕をがっしりと捕まえた。

「返しなさい! 私はまだ、あんたを許したわけじゃないよ!」
「もういいでしょ。どれだけ我慢させるんだよ、もう一週間だよ」
「あんたがちゃんと反省するまで!」
「反省したって!」
「反省した人間が、どうして黙ってカードを抜き取るの!」

 想は自分の腕を掴んで揺り動かす祖母の手を、突き飛ばすように振り払った。

「俺じゃないって。盗んだのは!」

 よろけた彼女は、すぐにボディガードらしき男性陣に支えられる。

「見張りに立てといた黒田さんから聞いたわよ。あんたが鞄を漁っていったって!」
「違うし」

 想と目があった。
その瞬間、彼の指がビッと私を差す。

「この女に頼まれたんだよ。あんたの大事な指輪をとってこいって!」
「なんですって?」

 え? 突然なに? 大事な指輪って? 
白髪のおばあさまが、私を振り返る。

「こいつ、三上恭平作品を集めてるだろ? だから俺に、あんたのペーパーウェイトを譲れって、しつこく迫ってきたんだ」

 ちょっと待って。
確かに私はあんたにしつこくつきまとってはいたけど、ペーパーウェイトのことしか知らない。

「それでさ、あんたの大事にしてる指輪の話しをしたんだ。そしたら逆にそっちに興味持っちゃってさ。実物を見て鑑定したいから、取ってこいって言うんだ」
「大事な指輪? なにそれ!」

 彼の言葉に、おばあさまの顔色がサッと変わった。

「想。あんたは、あの指輪まで持ち出したの?」
「だから! この女にしつこく頼まれたんだよ。その証拠に、コイツのバックの中に、あんたの大事な指輪とペーパーウェイトが入ってるよ」

 彼女はすかさず、私からバッグを奪い取る。

「ちょ、待って下さい!」

 彼女は乱暴に鞄をあけると、それを逆さにして全てを床にばらまいた。

「やめて!」

 カランと音を立て、おじいちゃんのペーパーウェイトが転げ落ちる。
スマホや化粧品だなんてどうでもいい。
真っ先にそれを拾い上げた。
よかった、割れてない! 
それでもおばあさまは、執拗に鞄を揺すり続けていた。
最後に古ぼけた小さな指輪が、そこから転げ落ちる。

「ほら、ね。俺の言ったこと、嘘じゃないでしょ?」
「ち、違います! 私が盗ったんじゃないんです。想が、想が勝手に私の鞄に入れたんです!」

 あの時だ! 
想が私の鞄にウェイトを入れた時、一緒にこの指輪を忍ばせたんだ! 
彼女は黙って、床に転がった石も入っていない質素な古い指輪を拾い上げる。

「あなた、この指輪に見覚えがあるの?」

 彼女が差し出したそれは、細く繊細な作りで、確かに古い品ではあったけれども、色あせたシルバーの細やかな装飾で絡み合うツタと葉が表現された見事な作品だった。

「見せてもらっても、いいですか」

 彼女は私の手の平に、それを置いた。
初めに指輪の内側を見る。
そこに刻印は何もなかった。
祖父の三上恭平が、宝飾品関係の作品を作っていたなんて話は聞いたことがないし、実際に見たこともない。
少なくともこの指輪は、おじいちゃんのアトリエに置かれていたものではなかった。

「いえ、見覚えはありません」
「そう。ならいいのよ」

 私は彼女の手に、その指輪を返す。
だけどこの作風は、おじいちゃんのものだ。
それだけは私にも分かる。
彼女はその指輪を、ぎゅっと握りしめ目を閉じた。

「はぁ? ばあさん。あんたこの指輪は、三上恭平からもらったって、いつもさんざん自慢してるじゃないか! だったら、コイツに証明してもらったらいいだろ。ちゃんとした鑑定書作ってさぁ! その方が価値も上がるし、売りやすくなるだろうが。それとも、三上恭平からもらったってのは、嘘だってことか?」

 なにそれ。
この人があんな質素な古い指輪を、大切にしてるってこと?

「うるさい。余計なことを言うんじゃない!」

 彼女は想の頬を、思いっきり平手で打ち付けた。 

「持ち出したカードも返しなさい!」
「イヤだね! なんで俺があんたなんかの言うこと聞かなくちゃいけないんだ! じいちゃんが死んだとたん、急にでかい顔しやがって!」

 おばあさまが合図を出す。
すぐ後ろに控えていたボディガードらしき男性二人が、想の両腕をガッチリと掴んだ。
彼は大声で何かをわめきちらしながらも、どこかへと引きずられゆく。
おじいちゃんのかつての恋人だった女性が、私を振り返った。

「見苦しいところを、晒してしまったわね」
「いえ、大丈夫です」

 彼女は自分の手の平に転がる、小さな指輪を見つめた。
これは、おじいちゃんがまだ若かった頃、恋人であったこの人のために作り、贈ったものなんだろうか。

「この指輪の価値を知っているのはね、私とあの人だけなのよ。だから、その価値を知らないあなたが盗み出すなんて、そもそもありえない話なの。想が勝手に盗みだした。どうせ私の目を盗んで、どこかに売りつけるつもりだったのね」

 もし本当にそうだとすると、彼女は太くなった指に入らなくなってしまった古い指輪を、今も大切に持っているということになる。

「私には、その指輪の価値は分かりません」

 彼女はフンと高らかに鼻をならした。

「そうね。それを知らないあなたが盗るなんて、ありえないわ。あの子が私を困らせようとしてやったことよ」
「それでも、あなたがこれを大切にしていることは伝わりました」

 じっとこちらをにらむように見つめる彼女の目から、何を考えているのか何一つとして読み取れるものはなかった。
それでもきっと、この指輪は彼女にとって大切なものなんだと思う。

「迷惑かけたわね。安心して。私もあなたが犯人だなんて、思ってもないわ。あなたが犯人になりえるなんて、ありえないのよ」
「ありがとうございます」

 それは彼女にとってはイヤミのつもりだったのかもしれないけど、私にはそんな風には受け取れなかった。
そんなおばあさまのの視線が、白磁の型押しに移る。

「そのペーパーウェイトは、お詫びに差し上げるわ。あの人の作品なんでしょう? そんなものでよかったら、大切にしてちょうだい」
「あ、ありがとうございます」

 私はそれをぎゅっと握りしめたまま、立ち去る彼女の背を見送る。
彼女だって知らないんだ。
この作品の、本当の価値を。





第6章


 気がつけば私の周囲には、もの凄い人数の人垣が出来上がっていた。
すっかり見世物になってしまっていたことに、急に恥ずかしくなる。
その中をかき分け、佐山CMOが現れた。

「なにこれ、なんの騒ぎだ」
「いえ、別に……」
「あのさ、君に困ったことがあったら、俺に何でも相談しろと言っただろ」

 彼は私の持つペーパーウェイトに気づいて、ため息をつく。

「今度はその作品のために、走り回っていたのか」
「はい。そうなんです。すいませんでした」
「三上恭平絶頂期に作られたもので、対偶のペーパーウェイトと呼ばれているものだけど、謎の多い作品だ。対偶というわりには、5つしかない奇数であるし、画伯の作品にしては、なんというか……。その、ずいぶん稚拙な作品だ。彩色の仕方は斬新なんだけど、なんというか……。まぁ、彼の新境地を目指そうとする実験的な意味合いが、よく現れているものではあるよね」

 彼の語る幅広い知識に、私はついおかしくなって、くすくす笑ってしまう。

「さすが。よくご存じですね」
「カタログで見たんだ。まぁ、この作品自体に、あまり商業的な価値はつけられていない。君にとっては、そんなことは関係ないんだろうけど」
「実はこれ、おじいちゃんが作ったものではないんです」
「えっ、どういうこと?」
「確かに、この押し型をデザインして、型抜きして焼いたのはおじいちゃんですけど、色をつけたのは、おじいちゃんじゃないんです。それに、元々はペーパーウェイトなんかじゃなくて、単なる遊び道具の、おもちゃでした」
「おもちゃ? 置きもの的な?」
「まぁ、そんな感じですね」

 ふいに会場全体の空気が、ぐらりとざわついた。
新たな歓声と人の波がエントランスへ向かっている。

「紗和ちゃん!」

 その中心にいたのは、珍しくドレスアップした卓己だった。
黒に細い白のストラップが入った大きな衿付きのデザイナースーツは、卓己のすらりとしたスタイルの良さを十分に引き出していた。
卓己って、こんなにも手足が長かったっけ? 
いつものぼさぼさな頭は変わらないのに、着ているお洒落過ぎるスーツのおかげで、どこから見ても完璧なアーティストに見える。

「うわー、なにそのスーツ。カッコいい。そんな格好、初めて見た。卓己ってやっぱり、アーティストだったんだねー。しかもネクタイなんかしちゃって。ねぇ、どうしたの?」

 卓己はいつものように、もぞもぞしながら固まってしまった。
卓己の隣には、黒髪ストレートの、キリッとした美女までくっついている。
彼女もきっと、アーティスト仲間なのだろう。
お揃いではないけれども、色合いを合わせた2人の揃いの衣装と立ち居振る舞いからあふれ出るオーラは、明らかに一般参加者のそれとは違っていた。

「そ、そんな……。こ、こ……。紗和ちゃんだって……って。そ、そんな、見たことない服、着ちゃって。な、なんで……」

 卓己はすぐに、私の持つウェイトに気づいた。

「あ、あれ? それ、どうしたの?」
「もらっちゃった」
「誰に?」
「秘密」

 私はそれを丁寧にハンカチで包んでから、再びバッグにしまった。
卓己はなぜかいつも以上に、呂律が回らなくなっている。

「な、なん……、だよ、それ。ひ、秘密って……、なに?」

 卓己が食い下がろうとするのを、私はフンと鼻を鳴らして蹴散らした。

「な。な……。紗和ちゃん。さ……。僕は今日、紗和ちゃん、に、い、言いたい……こと、が、あ、あって……」

 卓己は佐山CMOを、おずおずと見つめた。

「あ、あの……。今日は、あなたと紗和ちゃんは……」
「あー!」

 その佐山CMOの突然の大きな声に、卓己が一番驚いてビクリと体を震わせる。

「も、もしかして、その焼き物に色をつけたのって、卓己くんなの?」

 卓己は返事に困ったようにうつむき、ちらりと私を見たあとで、また真っ赤になってうつむいた。

「えぇ、実はそうなんです」
「なんてことだ……」

 佐山CMOは言葉を失ったようにくらくらとよろけ、頭を抱えこんでしまった。
卓己はおそるおそる私を見下ろす。

「ね、ねぇ。そんな……。こと、より。紗和ちゃん。それ……は、どこでもらった、の?」
「秘密だって言ったでしょ。絶対に教えてあげない」

 怒りと悔しさと悲しみと他の何かも混じり合う表情で、卓己の目はみるみる涙でいっぱいになる。
だけどそんな顔されたって、教えてあげない。
卓己は私の実のお婆さんの存在を知らない。
卓己にだって、卓己の知らない私があっていい。

「……。ね、ねぇ。紗和ちゃんはさ、今日のこ……」

 佐山CMOが、不意に深く大きな息を吐き出した。

「いや、驚いたよ。ということは、このウェイトに色をつけたのは、まだ幼かった安藤卓己氏自身ということになる!」

 佐山CMOは、高らかに笑った。

「あはははは。いやー、どうしてこうも、実際に血の繋がった孫の紗和子さんにはその才能が伝わらなかったのに、卓己くんには伝わったんでしょうね。奇跡というか、残念っていうか」

 卓己の顔が、サッと青ざめる。
その言葉は、いつも私が卓己の前で言われ、そのたびに喧嘩し私たちを傷つけてきた言葉。

「実にもったいない。君にもその才能があれば、よかったのにね」

 佐山CMOはにやりと笑って、私を見下ろした。

「うるさい」

 そんな彼の脇腹に、私は軽いグーパンチを入れる。

「あはは、冗談だよ、冗談」
「分かってますよ」

 軽く受け流した私に、卓己はぐっと言葉を飲み込んだ。
卓己はいま、もの凄く驚いているだろう。
こんなことを誰かに言われるたび、私は大声で泣きわめいて怒り出し、卓己にも周囲にも当たり散らして驚かせてきた。
そうして部屋に引きこもり、長い間そこから出てくることを拒んでいた。

 佐山CMOのその言葉は、私が一番嫌がる禁句であり、イヤミや嫌がらせの常套句でもあった。
そんな言葉に今、穏やかに接している。

「だけど、そのウェイトが君の手に戻ってきて、よかったね」
「そうですね」

 佐山CMOが微笑んだから、私はそれと同じようににっこりと笑みを返す。
多分、この人ではない別の人に同じことを言われたら、やっぱり多少は傷ついたんだろう。
だけどなぜか、この人には言われても嫌な気がしない。
大人になったもんだな、私もきっと。

「あ、……。あの……、ね、紗和ちゃん。あ、あの……」

 卓己はもごもごと何かを言いかけ、ふいに息を止め吐き出そうとした言葉を飲み込んだかと思うと、大きくうなだれてしまった。
卓己が話すことを諦めた時、ずっと彼の横に立っていた女性が、やれやれと口を開く。

「初めまして。私、卓己さんの事務所でお手伝いをさせてもらっている、古川千鶴です」

 ぴったりとしたジャケットスーツに、長く直線的な黒髪。
背は低いけど、真っ赤な口紅がとてもよく目立つ。
スタイルは抜群で、モデルさんみたいだ。

「あなたが『紗和ちゃん』ね? いつも卓己がぶつぶつ言ってる人!」

 そう言って彼女は、あははと笑った。
ぶつぶつ言ってるって、どんなこと?

「卓己は自分の事務所でも、私の悪口言ってるんですか?」
「あ、紗和ちゃ……。ち、ちがっ、あ、あのね……」
「卓己がこんなに落ち込むなんて、よほどのことだと思ったから。私がついてきてあげたの。卓己がいつも大量に描いてるスケッチブックの中でしか見たことなかったから、本物に会えるのを楽しみにしてた」

 彼女は黒く美しい切れ長の目で、ニヤリと微笑んだ。
卓己は一生懸命に言い分けを始めたけど、正直何を言ってるのかよく分からない。
おどおどと口ごもる彼が何を言おうとしているのか、本当は分かる気もするけど、分かってあげない。
私はちゃんと佐山CMOの言葉を冗談と聞き流せるようになったんだから、卓己だって、ちゃんとそうしてほしい。

 ふと気づけば、私たちを取り囲む人垣が、すっかり密になっていた。
その輪の中から、一人の男性が1歩前に進み出ると、卓己に声をかける。

「あ、あの。有名アーティストの、安藤卓己さんですよね。絶対そうですよね」
「え? あ、いや……」
「僕、安藤さんの大ファンなんです! こんなところでお会いできるなんて、すっごくうれしいです!」

 とたんに卓己の周囲に、どっと人が押し寄せる。
普段こんな光景を目にすることはほとんどないのだけれど、さすがはアートフェス会場だ。
卓己のことを知っている人たちが多い。
一緒についてきた彼女も有名な人だったらしく、突然押し寄せた人の波に、私たちは離ればなれになってしまった。

「紗和子さん。こっち!」

 その押し寄せる人波から引き上げてくれたのは、佐山CMOだった。
彼は私の手をとると、強く引き寄せる。
つかまれた手は、痛いくらいに頼もしいものだった。

「ふう。彼の人気は、本物だからね」

 繋いだままの手に少し恥ずかしくなって、彼の横顔から目をそらす。
少し離れたところから見る卓己は、本当に大勢の人たちから取り囲まれていた。

 初めて見る。こんな光景。
彼は色んな人と握手したり、一緒に写真を撮ったり撮られたりしている。
すぐに会場警備員が現れて、卓己たちはどこかへ連れて行かれてしまった。
大混乱の渦の外で、私と佐山CMOはその一部始終を眺めている。

「まぁ、これだけの規模のフェスに、彼のような次世代を担う大物アーティストが現れたとなれば、しばらくは帰してもらえないよ」

 そうなんだ。
卓己ってやっぱり、凄い人なんだ。
ぎゅうぎゅうの人混みに揉まれ、卓己の背中が通路の奥へ消えていく。
いつの間にか彼も、私なんかには手の届かない人になってしまっていた。

「さぁ。僕たちはそろそろ帰ろうか」
「はい。そうですね」

 いまだ興奮の冷めやらぬエントランスホールから抜けだし、私たちは帰宅の途についた。




第7章


 会場の外はすっかり暗くなっていて、佐山CMOの用意してくれた車に乗り込んだ私は、ガラス窓に映る自分の姿と、流れる風景を見ていた。

「紗和子さん。少し疲れた?」
「そうですね」

 私はごそごそとバッグの中の、ペーパーウェイトを取りだす。

「どうしようか。このまま夕食にでもと思っていたけど、すぐに家まで送った方がいい?」
「すみません。そうしてもらっていいですか」
「分かった」

 彼は運転手さんに用件を伝えると、改めて私の手の中の作品を見つめた。

「しかし、そのペーパーウェイトの彩色が卓己くんだなんてね。そうだと分かったら、またその価値がぐんと変わってくる」
「押し型は5種類あって、私と卓己にそれぞれの模様を一つずつ、全部で10個の型をとって、色つけさせたんです」
「それで対偶なのか」
「はい」

 美術商たちがアトリエに作品の買い取りに来たとき、引き出しの奥に入っていたこれを見つけた。
それをきれいに私の分と卓己の分とでより分け、卓己の方だけを持ち去っていった。

「私にも、絵の才能があればよかったんですけどね」

 鮮やかな青を広げた美しい花びら。
私はいつも、卓己と自分を比較していた。
そんなことをしたって、何の意味もなかったのに。

「実は僕も、絵を描くのが好きな子供だったんだ」

 静に走り続ける車内で、佐山CMOはゆっくりと話し始めた。

「だけど、絵が好きなのと上手いのとは違ってね。僕はそれに気づいた時、上手い人の支援に回ろうと思ったんだよ。自分で描く絵より、他の人の描く絵の方が断然好きだったしね。そうしていくことで、ずいぶん楽になった」
「そうだったんですね」

 私は悲しかったんだ。
自分がおじいちゃんの孫ではないと言われているような、そんな気がした。
卓己が家に来ると、おじいちゃんはとてもうれしそうにしていて、私のことなんかそっちのけで、ずっと卓己の相手をしていた。
卓己もおじいちゃんのことが大好きだった。

「嫉妬。してたんです。卓己に。今でもその気持ちが残っていて……」

 だけど拒むには、あまりにも距離が近くなりすぎていて、共に過ごした時間の重みが、互いを動けなくさせてしまっている。

「そんな風に思えるまで、私にはまだまだ時間がかかりそうです」

 おじいちゃんの孫だと紹介され脚光を浴びる次世代アーティストが、私自身だったらどれほどよかっただろう。
さすが三上恭平の孫だと、どんなに世間から言われたかっただろう。
美大に通い、みんなから認められて、アートの世界で話題になる。
その中心にいるのが、私。
そしたらあんなオバサマ方や小娘なんかにも、バカにされることはなかったのに……。

 ん? 小娘? 
私は大事なことを思い出した。

「あぁぁしまったぁぁ!」
「なになに、どうした? 忘れ物?」

 車はちょうど、白薔薇の垣根前に到着したところだった。

「もう一つあったんです、ペーパーウェイト! これだけじゃなくて、オレンジの! 賭けをしていたのに、すっかり忘れてましたぁ!」

 突然取り乱したかのように騒ぎだした私を、きっと彼も呆れたに違いない。

「まぁ、少し落ち着いて。こういう値のつきにくい作品は、オークションに出る機会も少ないけど、所有者が分かっていれば、なんとかなることもあるから」

 半分泣きかけていた私の髪に、彼の指がからみつく。

「なんとかって?」
「なんとかさ」

 彼はニッと笑って、絡めた髪に唇を近づける。

「やっと僕に相談してくれたね」

 相談するつもりはなかったけど、相談しないことには、絶対になんとかなりそうにない。

「じゃあここは一つ。その、さ。作戦会議ということで……」

 彼は急に大きな体を、もじもじとひねり始めた。

「その……。対偶のペーパーウェイトの、片割れを見せてもらえないかな」
「は?」
「あ、他の作品は残ってなの? その、卓己くんの対になってるやつ。なければ別に、それはそれでなんていうか……」

 そうだった。
結局この人の興味って、ここに尽きるんだった。
今さら別にいいんだけど。

「ありますよ。よかったら、見にきますか」
「え! アトリエに入っていいの?」
「いいですよ」
「や、やった! ちょっと見たら、すぐに帰るから!」

 彼は車を降りると、喜々として家の中に入ってきた。
私はおじいちゃんのアトリエに、彼を案内する。

「わぁ! ……。あ、あぁ……。なるほどね」

 どんなアトリエを想像していたのか、予想はつく。
今の祖父のアトリエは、何一つ作品の残っていない、ただの広い空き部屋でしかなかった。
彼の期待していたものとは、全く違う。

「ふふ。残念だったでしょ? これが私の、他の人にこの部屋を見せたくない理由なんです」

 私は二階にあるアトリエの窓を開け、部屋の空気を入れ替える。

「おじいちゃんの孫だって言うと、必ずその次に言われるのが、『アトリエを見せて』だから。見せたって、見せるものがないんです」

 私は宇宙色のカップの横に、おじいちゃんの青いペーパーウェイトを並べる。

「まだこの二つ、この二つだけなんです」
「僕に出来ることがあれば、なんでもするよ」

 彼は深く黒い目に、泣き出してしまいそうになるのをぐっと堪える。
今ここでその言葉に甘えることが出来たなら、泣いてその胸にすがることが出来たなら、どれだけ楽になるだろう。

 だけどこの人に対して、ほんのわずかでも頼ってしまいたいという感情を抱いた時に、この関係は終わってしまうだろう。
他になにもない私が、彼以外の選択肢を捨てるということだ。
そんな弱く情けない自分なんて、許せない。

「ありがとうございます。だけど、できるだけ自分の手で取り戻したいんです」

 弱いから、父は静かに死んでいった。
弱いから、私は一人ここにとり残されている。
強くなりたい。
だからこそ私は彼を見上げ、にっこりと微笑む。
それが今の私に出来る、精一杯のこと。

「そうか、そうだったね。応援しているよ。ね、君の作った方のペーパーウェイトを見せて」

 私は引き出しを開けると、筆や使いかけの絵の具、工具類の投げ込まれたその中から、自分のウェイトを取り出した。

「これなんですけどね」

 それを見た瞬間、佐山CMOはとても驚いた顔をしたかと思うと、すぐにクスクスと押し殺したように笑い始め、やがてその声は遠慮のない大声になった。

「これは凄い! 対偶のペーパーウェイトの片割れが、こんな作品だったとは。そりゃ謎が謎のまま、残されているワケだ!」

 まあね。
この作品が作られた時、私と卓己は7歳前後だったのだ。
赤い絵の具で『さわこ』って、汚い字でただ文字を書いただけのウェイトと、その当時放送されていた、美少女戦隊のアニメキャラが描かれたもの。
家族の似顔絵だなんていう、小学校低学年の子供の落書きに、芸術的商業価値を見いだせる方が、頭おかしいっての。

「だけど、これが普通の子供だと思うよ」

 彼はケタケタと腹を抱えて笑いながら、まだ苦しそうにしている。
そりゃね、今になってみれば、卓己の才能が異常だったってのは、分かるんだよ。
分かるんだけど、でもやっぱり私は、その時にはちゃんとした子供だったから、子供らしくしっかり卓己にムカついたし、腹を立て嫉妬し、意地悪もしたんだ。

「彼は本当に、凄い人だったんだね」

 佐山CMOは、ようやく穏やかに微笑む。

「そしてそんな彼が三上画伯と出会えたのも、すばらしい奇跡だった」

 その言葉に私は、素直に笑みを浮かべる。
やっぱりこの人の口から出た言葉なら、素直に受け止められる。
黙って落ち着いて、冷静に聞いていられる。
そんなこと今まで一度もなかったのに、本当に不思議だ。

 突然、窓の外から車の急停止する音が聞こえ、直後に玄関のドアが開いた。
ドタバタという足音と共に二階に現れたのは、卓己だ。

「紗和ちゃん!」

 飛び込んで来た卓己は、佐山CMOの姿を確認すると、すぐに私に顔を向ける。

「紗和ちゃん。こ……、か……、は、颯斗さんを、このあ、アトリエに、あげたんだ」
「うん。そうだよ。対偶のペーパーウェイトの、残された半分を見たいって言うから」

 卓己は作業台に置かれた無様なウェイトに、チラリと目をやった。

「あぁ。これ……も、見せ、たんだ」

 彼は手を伸ばし、宇宙色のカップの横に置かれた青く懐かしい自分の作品を手にとる。

「これも、ここに戻ってきたんだ」

 それをじっと眺める卓己に、佐山CMOは声をかける。

「じゃあ僕はこれで。帰ります」

 卓己はビクリと佐山CMOを振り返り、その佐山CMOは私に向き直る。

「紗和子さん、今日は僕につき合ってくれてありがとう。また連絡するよ」
「はい。どうもありがとうございました。色々してもらって、本当に助かりました」
「僕はここでいいから」

 私が見送ろうとするのを制し、手を振ってアトリエ出て行く。
この人には、感謝の気持ちしかない。
いつかちゃんとお礼をしないと。
どうやってそれを返せばいいのか、まだ分からないけど。

 彼が待たせていた車に乗り込み走り去ったあとで、卓己はようやく口を開いた。

「このウェイトは、あの人に買ってもらったの?」
「だから違うって」
「じゃあなに?」
「もらったの」
「誰から?」
「秘密」

 しつこいな。
私は卓己にイラッとして、背を向けた。
開いていたアトリエの窓を閉める。

「私も疲れてんだよね。もう寝るから帰って」
「じ、実は僕も、あ、あの会場で、これを見つけた……んだ」

 卓己がスーツの内ポケットから取りだしたのは、紅の持っていたオレンジのウェイトだった。

「あぁ! それ、どうしたの! どうやって手に入れたの!」
「……。秘密」

 くそ。やっぱり卓己なんて嫌いだ。

「あっそ、じゃあいいですよ。私ももう聞かないから、卓己も聞かないでね」
「聞かないよ! 聞きたくもないし!」
「じゃあもういいでしょ、帰って」

 私は卓己の背中をぐいと押す。

「ま、待って紗和ちゃん! こ、これも、ここに置いてくれる、んじゃ、ないの?」
「だって、これは私のじゃないもん。あんたのでしょ。自分ちに持って帰ればいいじゃない」
「いやだ!」
「なんでよ」
「さ、紗和ちゃんにあげるために、も、もらってきたのに!」
「いらない」

 しつこくふんばる卓己の背中を、負けずに押し返す。

「だ、あ。あげるから!」

 彼は私をふわりと交わすと、そのウェイトを差し出した。

「あ、あげる。あげるよ、紗和ちゃんに。ぼ、僕はそのため、に、もらってきたんだ、から……」

 卓己を見上げる。
彼はいつものように頭のなかで一生懸命言葉を注意深く選びながら、少しずつゆっくり話す。

「か、会場で、これを持っている女の子……を、見つけて。それで、譲ってもらったんだ。僕がお金出して買った、わけじゃないし。オークションとか、そんなんでもないから……」
「本当に、ただでもらったの?」

 あの紅が、無条件でこれを手放すとは思えない。

「め、名刺と、交換した。僕の。恭平さんのウェイトと名刺を交換した女の子って言えば、覚えていてくれる、だろうからって」

 なんだそれ。
紅は卓己を卓己と知ったうえで、お近づきになりたかっただけか。
そんな話を聞かされると、ますます気分が悪くなる。

「そう。じゃあやっぱり、あんたが持ってないとダメじゃない」

 再び彼の背を押そうとした私に、卓己は声を上げた。

「お、俺は紗和ちゃんにあげるためにもらってきたの!」
「いらない!」
「どうして!」
「いらないものは、いらないって言ってんの!」
「その青いのは置いてあるのに、どうして?」
「いいからあんたは、それを持って帰りなさいよ」
「あ、は、颯斗さんからのプレゼントは、受け取るくせに!」

 私は卓己を押す手を、そこから離した。
卓己はおどおどと振り返る。

「は? なに言ってんの?」
「颯斗さんから、の、プレゼントは、ちゃんと受け取ってる……のに。なんで?」

 卓己はきっと、私を傷つけるためにワザとこんなこと言ってるんだ。

「あんた、私をバカにしてんの?」
「い、いいじゃないか、これくらい! だって、だって今日は紗和ちゃんのお誕生日なんだよ? さ、紗和ちゃんは、自分のお誕生日にも、お、俺からのプレゼントは、絶対に何にも受け取らないって、決めたの?」

 卓己は自分の身を守るように、両腕を顔の前で交差させた。
その声は震えていて、まるで泣いているみたいだ。

「だ、だって、紗和ちゃんはいつも、お、俺からはなんにも受け取ろうとしないじゃないか。そんなの、ずるくない?」

 卓己が傷つけようとしているのは私のはずなのに、それに傷ついているのは卓己自身みたいだ。
何を言っているんだろう。
やっぱり私には、彼が何をしたいのか全然分からない。
卓己のやることなすこと全てが、私の何かに引っかかる。
だけど小さな頃からずっと意地悪をしてきたせいか、彼に泣かれると私はとても弱い。

「ず、ずるい、よ。どうして俺には、何にもさせてくれないの? 俺は、そ、そんなに、役た、たず、なの?」

 彼はその目からあふれ出す滴をこぼれさせていた。

「俺は、もう紗和ちゃんに、な、なんにも、して、あげられな……いの?」
「あぁもう。分かった、分かったから」

 卓己にすっかり弱くなってしまったのは、きっと自分にも責任があるんだ。

「じゃあ、今日は特別ね。誕生日だから」

 彼から差し出されたそれを、私は受け取る。
卓己は自分の目をこすりながら、二つになったペーパーウェイトを丁寧に並べた。

「今朝、こ、ここに来たら……さ。誰もいなくて。紗和ちゃんに、悪いとは思ったけど、あ、合い鍵、使って、中に入った」
「うん」

 卓己が自由にこの家に出入りすることは、とっくの昔に許されている。
だから本当は、断る必要なんてない。

「で、さ。……。お。お誕生日のケーキ……と、ワインを冷蔵庫に入れ、て、おいたんだけど。……一緒に、食べる?」

 いつか卓己にも、きちんと謝ろう。
私が悪かったって。
それがいつになるのか、分からないけど。

「いいよ」
「あ、あと……ね。サラダとか、つまみもいれておいた。紗和ちゃんは、食べ物のプレゼントしか、う、受け取ってくれない……から」
「当たり前じゃない。食べ物を粗末にするヤツなんて、許さないよ」
「そ、そうだよね。紗和ちゃんは、そういう人だから」
「ちゃんと今年は、卓己からのプレゼントも受け取ったじゃない」
「う、うん。そ、そうだった」

 卓己がようやく笑顔を見せたことに、私自身が一番ほっとしている。

「じゃあ行こっか」
「うん」

 アトリエの電気を消し、二人で階段を降りる。
冷蔵庫から取り出した小さなホールケーキを、半分こして食べた。
ワインもサラダも、全部卓己と半分こ。
今日は私の、誕生日だ。





§3『灯台守の休日』 第1章


 その日、卓己は見たこともないような、でっかい黄色の派手なオープンカーで家まで迎えに来た。

「なにこの車」

 私の問いかけに、彼は相変わらずもごもごと答える。

「れ、レンタカー屋さんで、一番可愛かった、から……。借りて、きた」
「あっそ」

 こういう時、助手席に座ればいいのか、後ろに座ればいいのか、いつも判断に迷う。
私は後部座席のドアに手をかけた。

「じょ、助手席に座ればいいと思うよ!」

 卓己に言われ、仕方なく車の前をぐるっと回ってから、助手席のドアを開けた。
助手席といっても、座席がベンチシートのように運転席とひと続きになっている。
こんな車、初めて乗った。
私が乗り込んだのを確かめると、卓己は少し緊張した様子でアクセルを踏む。

「あんたって、いつ車の免許とったの?」
「が、学生時代には、とっておいたんだ。ほら、俺らの学部って、結構大きな作品の搬入とかあるから。車があった方が、べ、便利なんだよ」

 幼稚園から高校まで一緒だった卓己と、大学になって分かれた。
私の知らない卓己の時間が出来たのは、その頃からだ。

「へー。そうだったんだ」
「てゆーか、前に一度、車で送ったことが、ある、と、思うんだけど」
「いつ?」
「い、いつって、ずっと前……」
「それって、卓己のお母さんじゃなかった?」
「ち、違うって」
「そうだったっけ」
「そうだよ」

 そんなことを言われても、記憶に残っていないから、仕方がない。
私は卓己を無視して、風に吹かれなから流れる景色を眺めている。
車は静かに走り続け、住宅街を抜け事前に聞いていた海の方へ……、向かってない!

「ねぇ。行き先間違えてない?」
「あ、うん。千鶴を拾ってからいくんだ」
「千鶴? あぁ、こないだアートフェスに連れてきてた、あのきれいな子ね」
「一緒に行きたいってゆうから、いいよって言ったんだ」
「なんだ。じゃあ先にそう言ってよ」
「え? ダメだった?」
「そうじゃない」

 私にだって、卓己のお友達と接するには、心構えが必要だ。
だって、彼女も有名アーティストなんでしょ? 
卓己を邪魔しようとは思ってないし。
車はすぐに待ち合わせ場所となっていた、コンビニ駐車場に止まった。

「おっはよう!」

 フェスの時とはうって変わって、彼女はブルージーンズに白シャツという大人しい格好で待っていた。
約束の時間より、15分は早い。

「わ、千鶴。早かったんだね」

 卓己が車から降りると、彼女はにっこりと微笑んだ。

「なんかちょっとうれしくって。早く来すぎちゃった」
「じゃあ、僕と千鶴は、コンビニで買い物してくるから」

 卓己は車に残された私を振り返る。

「紗和ちゃんは、ここで待っててね」

 歩き出した卓己の後ろで、千鶴はにこっと笑って私に小さく手を振った。
なんで私は一緒に行っちゃダメなのかな。
まぁ別に、いいんだけど。

 派手なオープンカーに一人残された私は、通行人たちのかっこうの餌食になってしまった。
みんながじろじろと好奇心丸出しの目で眺めながら去っていく。
卓己たちみたいな人種にしたら、こんな派手な車も、なんともないのかもしれない。
だけど私には、あまりにも不釣り合いな気がする。
恥ずかしいから隠れたいけど、オープンカーだから隠れるところがない。
そうじゃなかったらシートにうずくまってでも、外から見えないように隠れたのに。
しまったな。
私も卓己の後を追いかけて、コンビニに入ればよかった。
実際には10分程度しか取り残されていないのに、1時間は待たされたような気分だ。

「お待たせー」

 のんびりと二人が戻ってくる。
その姿に、ようやくほっとした。

「どうしたの、紗和ちゃん」
「何でもない。早く車出して」

 黄色いオープンカーは走り出した。
初夏の澄み切った空が、海沿いに続いている。
なんの曲だか分からない洋楽が車内に流れていた。
これは千鶴の選曲なんだって。
だからきっと、お洒落な曲に違いない。

「紗和ちゃん、ごめんね。急に私もついてくることになっちゃって」

 そう言った後部座席の彼女を、私は振り返った。

「ううん、全然。むしろ邪魔してるのは、私の方だし」
「ふふ。卓己が紗和ちゃんと並んでるの、初めて見たー」

 卓己め。
普段私のことを、仲間内でどんなふうに話しているんだろう。
にやにやと笑う千鶴に、ちょっとうんざりしている。
その千鶴が言った。

「紗和ちゃんは、充先輩と会うのは初めてなんだよね」
「そ、そうなの。どんな人なのか、楽しみー」

 彼女は後ろに座っているから、顔の表情が読み取れなくて、どういう返事の仕方をすれば正解なのかが分からない。

「あはは。面白い人だよ。私も久しぶりに会えるから、楽しみなの」

 その充先輩こと長谷田充さんというのが、これから私たちの訪ねていく人だ。
卓己の一つ年上の先輩で、先日のアートフェスに卓己たちが来ていたのを見かけ、声をかけようとしたけど、人が多すぎてその場ではあきらめたんだって。
千鶴は風に流される黒く長い髪を手で抑える。

「卓己と三上恭平が知り合いだったってのは、私たちも知ってたんだけど、まさかそのお孫さんが、紗和ちゃんだとは思わなかったなー」

 卓己がおじいちゃんの弟子だったっていうのは、比較的世間に知られていることだ。
そのフェスの会場で三上恭平の実の孫が来ているという話しを耳にした充さんは、ふと自宅に置きっ放しになっている、おじいちゃんの作品を思い出したらしい。

「僕と紗和ちゃんが知り合いなんだったら、恭平さんの作品を紗和ちゃんに返してもいいって、言ってくれたんだ」

 そういう経緯を経て、今回のこのドライブが決行された。

「紗和ちゃん。充先輩の前では、ちゃんと大人しく、いい子にし、してるんだよ!」
「分かってるって。余計なお世話よ」

 赤信号で車が停止したその瞬間、卓己はもの凄く心配そうにこちらをチラリと盗み見る。
私はプイとそんな彼に顔を背けた。
卓己は何かを言いかけたようだけど、青になり、そのまま車を走らせた。




第2章


 その充先輩は海沿いの崖上に建てられた一軒家に、一人で住んでいた。
元々は別荘だったらしいが、ここを気に入っている先輩がそのままほぼほぼ定住してしまっているらしい。
市街地から閑静な山の中に入り、一本道を進んでいくと、急に視界が開け、何もない広い原っぱに出た。
そのすぐ向こうに、ぽつんと白い小さなお家と、崖の先端に灯台が見える。
この山道を抜けて原っぱになったあたりから、先輩んちの敷地になってるんだって。
車から降り玄関をくぐった私たちは、車いすに乗った男性に迎えられた。

「あぁ、卓己。久しぶり! ちづちゃんも!」
「きゃぁ~! 充先輩、お久しぶりですぅ~!」

 千鶴は車いすの充さんに飛びついた。

「く、車いすに、乗ってるんだ」

 私がそうささやくと、卓己は耳元でそっとつぶやいた。

「うん。最近、交通事故にあわれてね。それ以来、足が不自由なんだ」

 卓己は先輩の前に進み出ると、彼と握手を交わす。

「すっかり人気者になっちゃったな、卓己は」
「そんなことないですよ」

 彼は卓己の後ろに立っていた私を見上げる。

「はは。君が卓己の『紗和ちゃん』か。なるほどすぐ分かるね」
「でっしょう?」

 充先輩に呼応するように千鶴がそう言うと、二人は笑った。
だから卓己は私のことを、どんなふうに説明してるんだろう。
その卓己は、顔を赤くして黙っている。

「は、初めまして、三上紗和子です」

 手を差し出したら、彼はそっと私の手をとった。

「やぁ。あなたに会えるのを、楽しみにしていましたよ」

 さらさらとした黒髪に緑の目をした車椅子の充さんは、オリエンタルなリゾート建築の別荘に住んでいた。
家の作りは敷地同様パンパなくダイナミックだった。
車椅子で移動するにも十分な広さが確保されているのはもちろん、リビングの一部は絵を描くためのアトリエのような場所になっている。
ソファとテーブルの置かれたリビングから続く白いウッドデッキのテラスは、そのまま外に出られるような作りになっていて、庭には背の低いシュロの木が細かな葉を海風に揺らしていた。

 三人は同じ大学同じ学部の出身同士でもあり、昔話しで盛り上がっていた。
私は彼らの話にはついていけないので、耳を傾けながらも大きなテラスから外に目を向ける。
庭先から続く小道の向こうに、小さな白い灯台が見えた。

「素敵な風景ですね」

 私がそう言うと、充さんが車椅子に乗ったまま近づいてくる。

「僕の父がね、この土地を気に入って購入したんだ。いいところでしょ」

 彼は電動車いすを私の隣に並べると、雲を見上げるようにその白い灯台を遠く見つめた。

「あれはとても古い灯台でね、灯台としての役割は、とっくの昔に終わっているんだ。僕が子供の頃は、とてもいい遊び場だったんだよ」
「中に入れるんですか?」
「昔はね。だけど今は、誰も入れない」

 彼は静かに首を横に振ると、また昔話の輪へ戻っていく。

「紗和ちゃん。ちづがお茶をいれてくれたよ。こっちに来て、一緒に飲もうよ。それでさ、充先輩。三上恭平作品のことなんですけど」

 ようやく卓己が本題を切り出した。
私がここへやって来た目的は、それ以外に何もない。

「あぁ、そうだったね」
「どこにあるんですか? 私も見たいです」

 千鶴も身を乗り出す。
充さんは、笑って窓の外を指差した。

「絵はね、あの灯台のなかにあるんだ」

 その場にいた全員が、窓の外を振り返った。
白い灯台はここから続く、小道の向こうに建っている。

「え、ちょっと待ってください。さっきあの灯台の中には、もう入れないって言ってませんでした?」
「あはは。そうなんだよ、だから困ってるんだ」

 え? どういうこと?

「実は僕が独り立ちして、ここに住もうって決めたのは、つい最近になってからなんだ。それまでは普通に街中で暮らしていてね。だけどここに移ろうって決めて、それで灯台のことを思い出したんだ」

 卓己はティーカップをソーサーに置いた。

「たしか学生時代にも、先輩はそんなことを言ってましたよね。三上恭平の絵を一枚持ってるけど、見られないって」

「だから、君たちを呼んだんだ。開かずの灯台になってしまったあの建物の、三階部分に三上氏の絵が飾ってある。そこまでたどり着くことができたら、その絵をプレゼントするよ」

 緑の目の充先輩がにやりと笑った。
そ、そういうことか。
私はガックリとソファに沈み込む。
そうだよね。
そんな簡単に、おじちゃんの絵がもらえるとか、自分の考えが甘かった。

「やっだ~! 先輩、開かずの灯台なんだったら、肝心の絵が見れないじゃないですかぁ」

 千鶴はのんきに、あははとか言って笑っている。
が、笑っている場合ではない。
キッとした私に、卓己はハラハラしている。
のんびりと充先輩は続けた。

「まぁ、開かないのなら、開かないままでもかまわないんだけどね。でもちょっと、そのままにしておくのは残念な気がして。できれば僕も、もう一度あの中に入ってみたいんだ」
「どうして開かずの灯台になったんですか?」

 私の問いかけに、彼は静かに微笑む。

「父によって、封印されてしまったんだ。それ以来、誰も入り口のドアを開けられない」
「あー。じゃあ、えっと、例えばの話ですが、ブルドーザーとかで入り口をぶち壊すとか?」

 私の心からの真剣な提案に、充先輩と千鶴はキョトンとしている。
卓己が答えた。

「紗和ちゃん。そんなことをしたら、あんな小さな灯台は、そのまま倒壊してしまうよ」
「業者に頼むとか。あ、もしかして鍵でもかかってるんですか? 鍵屋さんなら、すぐにネットで検索できますけど」
「紗和ちゃん。そういうことなら、先輩は僕たちを呼んだりしないよ」
「窓を破って、侵入するとか」

 真剣に充先輩に詰め寄る私に、千鶴が笑った。

「ホントだ。卓己の言ってた通り、紗和ちゃんって、おもしろーい!」

 先輩も一緒になって、くすくす笑っている。
笑われようが笑われなかろうが、そんなことは関係ない。
私はおじいちゃんの絵が欲しいだけだ。

「どうすれば、三階にたどり着けるんですか?」
「それを考えて欲しくて、君たちを呼んだんだ」

 白く小さなかわいらしい灯台が、突然難攻不落の要塞に見え始める。
物理攻撃が無理なら、いっそ空からパラシュートで飛び降りて侵入するとか? 
千鶴が改めて充先輩に尋ねた。

「で、どうして先輩のお父さまは、あの灯台を封印してしまったんです?」
「実は僕には、仲良しの従兄弟がいてね。女の子なんだけど、その子とよくこの別荘で遊んでいたんだ」

 彼は黒くさらさらした前髪を、遠くに見える灯台へ向けた。

「ところがある日、彼女があそこから落ちた」

 え? どういうこと? 
静かなリビングが、より一層静かになる。
潮風が優しくシュロの葉を揺らした。

「それ以来、父はあの灯台を封印してしまったんだ。その日から、あの中へ誰も入っていない。それは突然の出来事で、中はそのまま、当時の状態のままになっている」

 彼の口調は、あくまで穏やかだった。

「そこにあったものは、なに一つ取り出すことが出来なかった。そんなことをする余裕さえ、その時の僕たちには残っていなかったんだ。そうやって三上恭平の作品は、あそこに取り残されてしまった」

 灯台は海を見下ろす、険しい断崖の絶壁に立っている。

「だからもう一度、出来ればあの灯台を開いてあげたいんだ」
「なるほど、分かりました」

 そういうことなら、これは正攻法でいくしかなさそうだ。
私はギュッと灯台をにらみ上げると、覚悟を決めた。





第3章


 そこから詳しく、充さんの話を聞いていく。
彼のお父さまはスウェーデンの方で、ヨーロッパではそこそこ有名な、現役アーティストであることが分かった。
お母さまは日本の人だそうで、充さんは肌は白いけど、見た目は丸々お母さまの血を引き継いだらしい、完全な日本人顔になっている。
目は緑で、鼻はちょっと高いかな? 
今はご両親ともスウェーデンにお住まいだそうで、日本にはいらっしゃらない。

 灯台を封印したとき、そのお父さまは二度とこの場所には誰も入れないようにと、知り合いのスイスの時計職人に頼んで、精巧な錠前を作ってもらったそうだ。
その特殊な鍵が精巧すぎて、ネットで呼び出せる鍵屋さんでは、開けられないらしい。
優秀なアーティストの能力も、こういう時には考えものだ。
とにかく、実際その場所に行って見てみないことには、話しにならない。
私たちはテラスから外へ出ると、灯台へと向かった。

 白い小さな灯台は、本当に小さな灯台だった。
三階建てといっても、土台部分の外周は、100歩も歩けば、すぐに1周出来てしまう。
入り口はアーチ型の鋼鉄製の扉で閉じられていて、一見しただけでは、どこにも鍵穴らしき穴もなければ、錠前のようなものもかけられていない。
単なる平たい鋼鉄の板が二枚ぴたりと合わさって、入り口を塞いでいた。

「なにこれ。鍵穴なんて、どこにも見当たらないじゃない」

 充さんは卓己に助けられながら、車椅子でここまで来ていた。

「そうなんだよ。この扉も父の特製品でね、鍵穴がないんだ」

 アーティスト軍団め。
こういうところで余計な遊び心を発揮しおって。
私は試しにその扉を力いっぱい押してみたけれども、ピクリともしない。

「これは予想以上に、手強そうね」

 千鶴はコンコンと扉を叩いて歩く。

「何かヒントみたいなものは、ないんですか?」
「さぁ。あのイタズラ好きの父さんのやったことだからねぇ」

 充さんはくすくす笑う。

「2本の鍵があって、それを同時に差し込まなくてはならない鍵だってことは、当時父さんに言われて、覚えている」
「2本の鍵で開けるんですか? その鍵はいまどこに」
「それが、父さんが家の中に隠したまんまで、結局僕たちには見つけられなかったんだ」
「はい?」
「うちの中の、どこかにあるはずなんだけどねぇ」
「じゃあ、その鍵を探すところから、始めないといけないじゃないですか」

 のんきな充さんに、私が絶望的な声をあげると、早くも飽きたっぽい千鶴が言う。

「じゃあ、おうちの中に戻りましょうか」
「そうだね。まずは、その鍵を探すところから始めよう」

 卓己までのんびりと、そんなことを言っている。
充さんは卓己に押されるがまま、再び家の方に向かって戻り始めた。
一通り灯台周辺の探索を終えた私も、急いで三人の後を追う。

 家主である充先輩の許可を得て、私はこの家の中にあるはずだという鍵を捜し始めた。
卓己と千鶴と充さんは、優雅に一階のリビングでお茶の続きを始めてしまったが、私は一人で二階に上がると、5つある部屋を順番に見て回る。

 車いすの充さんの元には定期的にヘルパーさんがやって来て、お世話をしてもらっているらしいけど、二階にはほとんど上がっていないようだ。
薄暗い廊下に明かりはついたものの、全体的にうっすらとホコリがかぶり空気はよどんでいる。
灯台で事件が起こり封印されてしまったのは、17年前の話だという。
歩けばぎしりと軋む古い木造の廊下を、慎重に進む。
別荘の管理を任せている会社から、清掃や点検は入っていたみたいだけど、どうしても老朽化は否めない。
私は一番手前の部屋のドアを開いた。

 一つ目の部屋は、ガランとした空間に小さな棚とベッドが置かれているだけだった。
別荘というだけあって、置いてある家具や荷物は少ない。
備え付けのクローゼットを開いてみると、きっと思い出の品なのであろう古い靴やぬいぐるみ、子供用のおもちゃなどがきちんと整理して置かれてあった。
ここは人の手が入っている。
鍵をなくしたのであれば、これほど整理されたところには、ないような気がする。
ざらざらした床に頭をくっつけベッドの下も覗いてみたけれど、やっぱりなにもない。
うん。この部屋に鍵はないな。次だ。
隣の部屋の扉をあけると、その部屋にいたっては、全くの空き部屋だった。

 三部屋目。
二階中央の南側にある扉の前に立つ。
あぁ、ここが本丸だったか。
他の部屋とは全く違う大きな木の扉には、全面に幾何学模様の彫刻が施されていた。
その重い扉をゆっくりと開く。

 落ち着いた深い赤の絨毯が敷かれた部屋は、壁一面がびっしりと本棚で覆われていた。
その中央に光沢のある木製の立派な書斎机が置かれ、その手前には小さなローテーブルとソファも用意されている。
間違いなくお父さまの書斎だ。
英語ではなさそうな文字で書かれた雑誌が、積み上げられている。

 さて。この部屋のどこから手をつけようか。
なくしたというより、お父さまが隠したというのなら、カーペットの下とかもありかも。

 そんなことを考えた私は、とりあえず部屋の隅っこでしゃがみこみ、敷物をめくってみる。

「さ、紗和ちゃ……ん。は、なにやってんの?」

 開け放したままの扉から、卓己と千鶴がのぞき込む。

「あー。こういうの、本気で取り組むタイプなんですねー」

 ほこりまみれになった体で咳払いしながら立ち上がると、パンパンとワザとらしく手を払った。
ちょっと恥ずかしい。

「えぇ。私はいつだって、本気ですから」

 卓己は部屋を見渡すと、千鶴に言った。

「ここは先輩の、お父さまの書斎だね。さぁ僕たちも、紗和ちゃんを手伝おう」
「はぁ~い」

 千鶴の全く気合いの入らない、間延びた返事には正直ちょっとイラッとしたけど、この部屋を一人で捜索するには、絶対に無理だ。

「じゃあ私はデスクを探すから、卓己と千鶴ちゃんは本棚をお願いね」

 二人はそれぞれに分かれ、思い思いに捜索を始めた。

「わー。この作品集、すっごいよ。ちょっと卓己、見て見て~!」
「え? どれどれ?」

 卓己と千鶴は早速脱線して、一緒に分厚い図鑑のような画集を眺めている。
私は彼女たちに構わず、デスクに並べられた本の背表紙をチェックしていた。
絵の構図や、立体模型、設計技術やデザイン関する専門書ばかりだ。
あとは辞書とか。
その中の一冊に、ふと目がとまった。

「さ、紗和ちゃん! ほら、この写真、とてもきれいだよ。先輩のお父さんが作った作品の、作品集なんだ。も、もしかしたら、何かの参考に、な、なる、かも、しれないから、一緒に見たら?」

 卓己が何か言ってるけど、そんなことはどうでもいい。
なぜなら私は、最後に手にとった一冊の本に、完全に心を奪われていたからだ。

「か、壁の本棚には、紗和ちゃん、興味ない? さ、紗和ちゃんは、机、は、全部見終わった、の?」

 その本は、日記帳だった。
深く濃い緑の表紙に細かな金色のインクでツタの葉が描かれた表紙に、中はよく分からない言語で文字が書かれている。
充先輩のお父さまはスウェーデン出身というから、これはスウェーデン語というやつなのだろうか。

「紗和ちゃん、私たちの存在忘れたのかな」
「いや。そんなことはないと思うんだけど、何か気になるものを見つけたか、わざと聞いてないかの、どっちかだよ」
「ワザと聞いてない?」
「ヒント探しに夢中だから、話しかけるなってこと」

 その日記らしい手記には、スウェーデン語だけではなく、たどたどしい日本語で日常も綴られていた。
多分日記を書きながら、日本語で文章を書く練習をしていたんだろう。
日本語で書かれているページをめくった。

「さ、紗和ちゃん! き、聞いて、る? なに、か、見つけたの?」
「卓己。こんな遠くから声かけたって無駄じゃない? 近くまで行ってみる?」
「う、うん。えっと、いま相当に気が立ってると思うから、あんまり近寄らない方がいいと思うよ」
「……。卓己は本当に、紗和ちゃんには弱いんだね」
「怖いからさ」

 二人の会話はちゃんと聞いてるけど、全く気にならないし、どうでもいい。

「さ、紗和ちゃん。なに、か、見つけた?」

 恐る恐るのぞき込んできた卓己に、その日記を見せる。

「わ! こ、これは、お父さんの日記だね」

 千鶴も卓己と一緒にのぞき込んだ。

「本当だ! リンドグレーンの手記とか、貴重過ぎるんじゃない? 凄い。こうやって日本語の勉強してたんだ。日本好きだとは知ってたけどさぁ」
「リンドグレーン?」

 私は千鶴の言葉に首をかしげた。

「さ、紗和ちゃん。リンドグレーンさんはね、充先輩のお父さんだよ。現代アートの先駆者っていうか、とても面白い造形をなさる方で、一度日本で行われた個展に、ぼ、僕も……見に、行ったこと、が、あるから……」

 卓己はなぜか、顔を真っ赤にしてうつむいた。

「美大のみんなで見に行ったんだよねー。リンドグレーンの個展だなんて、行っとかなきゃ損だし。それにあの時は……」

 千鶴が嬉しそうに語り始めたのを、卓己は「シー」っと黙らせる。

「ご、ゴメン……ね。紗和ちゃんに、な、内緒にしてて……」
「なんで?」

 私はパタンとその日記を閉じた。

「別に私が卓己の行動全部を知ってる必要なくない?」
「そ、それは、そうなんだけど……」

 おろおろと言い訳をはじめた卓己を、千鶴は初めて見る人であるかのように見上げた。

「私は卓己の行動をイチイチ監視しようなんて思ってないし、私も卓己に監視されたくない」
「か、監視なんてしてないよ!」
「ふーん。だったらいいよ」
「そ、それは、監視じゃな、なくて、紗和ちゃんを、し、心配してんの!」

 私はそんな卓巳を無視して、二人が途中放棄してしまった本棚の未探索ゾーンを丹念にチェックする。

「ね、ねぇ、紗和ちゃん、は、ぼ、僕の話、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてない」

 特に変わった本棚ではないし、隠し戸棚とかもなさそう。
本と本の間に何かが挟まっていそうな、そんな違和感もどこにも感じられなかった。

「そ、その、に……、日記を見て、な、なにか、分かった?」
「そんなの、こんな短時間で見つけられるわけないじゃない」

 闇雲にさがしても、きっと見つからない。
だけどもう大丈夫。
手がかりは見つけた。

「二階にある残りの二部屋も見ておくけど、この日記に、ヒントが隠されていると思う。だってさっき見たページに、扉と鍵のことが書いてあったんだもん」
「え、紗和ちゃん。い、いつそんな、の、見つけたの?」

 私は卓巳を、無言で見上げる。
そのままなにも言わず、彼に背を向けた。
頼りになんて最初っからしてないから、気にもなりません。

「もう卓巳たちは手伝わなくていいよ。下に行ってて」
「な、だ、だけ……ど。紗和ちゃん!」

 二人をおいて廊下に出た。
お父さまの日記を胸に抱いたまま、隣の部屋を開ける。
子供部屋だったらしいそこには、絵本とおもちゃで飾られた小さな机が2つ並んで置かれていた。
子供が灯台から落ちたのなら、その鍵をここに置いておいておくことはないだろう。
うっすらとホコリをかぶる時間の止まったような薄暗い部屋の扉を、私は静かに閉めた。

 最後の部屋は、ご夫婦の寝室かな? 
大きなベッドと、そのサイドテーブルに数冊の本が置かれていた。
数冊を手にとって見てみたけれど、日本語じゃないから分からない。
なにかの小説か、解説書みたいな感じだった。
各部屋の間取りと雰囲気を頭に入れ、一通りの捜索を終えた私は、下に降りる階段へ向かう。
お父さまの書斎から出てきた卓己と千鶴に鉢合わせた。

「あ……。ねぇ、紗和ちゃん。や、やっぱり……さ……」

 卓己はもじもじしながら、何かを話そうと必死で言葉を探している。
私はそんな彼を待たずに、自分の用件を口にした。

「ねぇ、卓己。この日記をかりて帰りたいから、充さんを説得するのに協力して」
「え! あ、はい。う、うん、分かった」

 卓己が酷く安心した様子を見せたことに、千鶴は完全に呆れている。
彼女の気持ちはよく分かる。
卓己はこんな嫌な女の、どこがいいんだろうって。
私だって、卓己と一緒にいる時の自分は好きじゃない。

 充さんはお父さまの日記を借りて帰ることに、快く承諾してくれた。
卓己たち三人はそれからも、ずっと楽しそうにおしゃべりを続けていたけれど、私は日記のページをめくる。
スウェーデン語で書かれている部分は所々充さんに教えてもらった。

「本当にずっとその日記を読んでいるのね」

 不意に千鶴がやって来て、ソファの隣に腰を下ろした。

「『紗和ちゃん』って、本物は随分イメージが違って、ちょっとびっくり」

 彼女は真っ黒い髪と目でにっこりと微笑む。

「……。卓己は、私のことを何て言ってるの?」
「なにも! あなたの話なんて、誰にもしたことないよ」
「じゃあなんで……」

 彼女はふぅとため息をつくと、何杯目かの紅茶をテーブルに置いた。

「あなたのことは、卓己を知ってる人ならきっとみんな知ってる。知らないのは、本当に『紗和ちゃん』だけなのね」

 どういうこと? 千
鶴が立ち上がる。

「あぁ、もうこんな時間ね」

 なんだか誤魔化されたような気がする。
千鶴の言葉に、卓己も立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか。さ、紗和ちゃん、も、そ、それで、いい……かな?」
「うん。ねぇ、充さん。また来週末、ここにお邪魔してもいいですか? それまでに日記を解読して、灯台も見たいです」
「あぁ。いつでも歓迎するよ」
「あ、じゃ、じゃあ、僕も来ます!」
「私もー」

 別れの挨拶を済ませ玄関を出ると、私は迷わず黄色いオープンカーの後部座席に乗り込み、お父さまの日記を開いた。
それを見た千鶴は、助手席に座る。

「じゃ、じゃあ、出発する……ね」

 誰に向かって言ったのか分からない卓己の宣言があって、車は走り出した。
沈み始めた初夏の夕焼けに、海沿いを走るオープンカーの風は、ちょっと肌寒い。

「さ、紗和ちゃん。今日……は、先輩んち、どうだった?」

 心地よい振動にあっさり完敗した私は、薄れゆく意識のなかで、卓己に何て返事をしようかと考えている。
千鶴が振り返った。

「あ、紗和ちゃん。寝ちゃってる」
「そうなんだ。ずっと一人で頑張ってたからね」
「ふふ。顔に黒い線つけたまま寝てる。かわいー」

 そんなのついてたっけ。
耳は聞こえているけど、目を開ける気力まで残っていない。

「……。私、今まで卓己の描いたスケッチブックの『紗和ちゃん』しか知らなかったけど、実物の紗和ちゃんって、こんな感じなんだね。もっと清楚で可憐な、儚い感じの女の子かと思ってた。卓己の描いてる紗和ちゃんを、この人に見せてあげたい」
「そんなの、絶対ダメだって」
「どうしてよ。アレを見たら、彼女も納得するんじゃない?」
「先にちづをうちに送るよ」

 手から日記がすべり落ちる。
私は完全に眠りに落ちていた。





第4章


 文明の利器とはありがたいもので、ワケの分からないスウェーデン語も、ネットの翻訳機能で何とか大意くらいはとれているような気がしている。
もちろんAI翻訳だけでは何ともならないこともあるけど、そういうときは単語だけを入力していって、つなぎ合わせれば雰囲気くらいはつかめるから、やっぱりありがたい。
正しい理解を必要とする専門書とかではなく、お父さまの日記だったからこそよかったんだとも思う。

 とにかく、この手記は事件前から書き始められていて、事故当日までまだページが追いついていないのだから、頑張って読み進めていかなければどうしようもない。
そもそもお父さまはいつ灯台を封印しようと考え、その仕掛けを考案したのか。
ご本人以外知る人はいないのだ。

 私は朝起きてからずっと日記を読みふけっていて、時間を惜しむあまりそれを会社にまで持ち込んでいた。
次の週末充さんのおうちにお邪魔するまでに、何かをつかんでおきたい。
昼休みの食事を終え、人気のない廊下で一人日記を読んでいるとき、佐山CMOはやって来た。

「やあ。最近は社内PCでメッセージを送っても全く無視されてるから、生きてるのか心配になって直接見にきちゃった」

 彼はにこにこと上機嫌で横に座ると、お父さまの日記をちらりと覗き見る。

「何を読んでるの? そんな熱心に難しそうな本を読むくらいだったら、俺のメッセージだってちょっとは読んでくれてもよくない?」
「読んでますよ。開封確認つけてますよね」
「返事がない」
「開封確認してるじゃないですか。それを気にするなんて、中高生みたいですよ」

 会社業務に一切関係なく、おじいちゃんの作品情報でもないメールに、どんな興味がわくっていうんだ。

「で、何を読んでるの?」
「ヨーラン・リンドグレーンの日記です」
「……。え、ウソ。マジで? ヨーラン・リンドグレーン? なんで? あ……あの、スウェーデン出身の造形作家? なぁ、そうなのか? 本当にそうなのか!?」

 その瞬間、佐山CMOの態度が一変した。

「ヨーラン・リンドグレーン氏といえば、日本の伝統的なからくり人形に関心のある、大変な親日家で有名な作家じゃないか! そのからくり技術を自身の作品にも取り入れ……。そうだ。奥様が日本人だった! そうか、そういうことか!」

 よく分からないけど、とにかく彼は何かに納得したらしい。

「くっそ~。そのヨーラン・リンドグレーンの日記を君はどこで……。ちょ……も、もしかして、いま君が手にしているその日記は、彼の直筆の日記なのか?」

 あぁ、しまった。
うるさいのが始まった。
面倒くさいので無視していたら、その場で怒り始めた。

「三上紗和子。俺の質問に答えるんだ。それは本当にヨーラン・リンドグレーンの直筆の手記なのか?」
「あぁ。はいはい、そうですよ。ワケあって、息子さんからお借りしたんです」
「息子!? む、息子に直接会ったってことか。くっ。この俺を差し置いて、一体どういうことだ。そういう時にはちゃんとこの俺にも連絡を入れて……って、ま、まさか、リンドグレーン氏本人にも会ったのか!?」
「お父さまはご不在でした」
「なるほどそれはよかった。もしご本人にも直接会ったと言われていたら、君の頭に頭突きを入れるところだった」

 それはよかった。痛い思いをせずにすんだ。

「で、なぜそんな日記を読んでいるんだ? 君がそれほど熱心に関わるとなると、やっぱりおじいさまの作品に関わることなんだろうね」

 私は佐山CMOに経緯を説明した。
灯台の門の謎を解かないと、おじいちゃんの作品が手に入らないこと。
それは17年という間、誰の目にも触れられないまま、ひっそりと崖上に閉じられていること等々。

「なるほど。そういうことなら、なおさら俺を真っ先に頼るべきだろう。その日記を3日でいいから貸してくれないか。この俺が綺麗さっぱり、全ての謎を解き明かしてみせよう」
「は? どういうことですか?」
「解析チームを急遽編成しよう。スウェーデン語に詳しい通訳と、暗号解析のプロが必要だな。警視庁暗号解読班所属の経験者と……。そうだな、IT関連の技術者やゲーム関係者を集めてもいい。もちろんリンドグレーン氏の作品に造詣の深い俺も、チームの一員だ」

 誇らしげに胸を張るこの人を、私はぼんやりと見上げた。
そういえば、何かの本に書いてあったな。
人は空を飛ぶことは出来ないが、飛行機代を支払うことによって、空飛ぶ能力を手に入れられるって。
お金とは、その人個人が持つ能力の範囲を広げる魔法のアイテムだって。

「カネですか」
「まぁ、そういうことだね。もちろんその代金は、君に請求したりしないよ」
「あぁ、そうですか。じゃあ却下」
「きゃ、却下とはどういうことだ!」
「いつも言ってるじゃないですか、私は自分の力で解決したいんです」
「じゃあ俺はどうすればいいんだ」
「どうするって?」

 彼は何かを言いたげにもじもじし始めたけど、そんなことは気にしないでおく。

「あ、あの……。じゃあ、ちょ、ちょっとだけでいいから、その日記を見せてくれないかな」

 私は邪魔されていることに、盛大なため息をつく。
ま、そういうことだよね、この人は。
私は腕時計をちらりと見た。
もうすぐ昼休みも終わる。

「トイレに行ってくるので、その間だけならいいですよ」

 佐山CMOが素直にうなずいたのを見届け、それを渡し席を立つ。
彼は膝の上にのせた日記のページを、とても愛おしそうにめくった。

 日記の内容は本当に日々の細々としたことばかりで、彼の家族への愛情が手にとるように感じられた。
リンドグレーン氏はとてもお洒落で茶目っ気のある、いたずら好きのお父さまだった。
周囲の人たちを驚かすことが生きがいで、あの別荘に招待したゲストに対しても、実にさまざまなサプライズを仕掛けては楽しんでいる。
その計画と実行に至るまでの経緯が、この日記に残されていた。
灯台の門と鍵の謎も、ここにヒントが記されている可能性は高い。
一週間という期限も迫ってきた頃、ようやくページは事故当日の日付に行き当たる。

 その日の日記には、彼の深い怒りと悲しみが淡々と母国語で綴られていた。
無理もない。
もう会話を交わすことの出来なくなってしまった少女は、その後も彼の心の中でずっと生き続けていた。
氏は日記の中で、二度とこんな事件を起こさないようにと、灯台の門を封印することを決意する。

「じゃあ鍵穴のないあの扉は、リンドグレーン本人の製作だってこと?」

 キッチンでパスタを茹でる卓己が振り返った。

「そういうことみたい。見て。この設計図」

 日記のページを開いたとたん、真っ先にのぞきこんだのは佐山CMOだ。
今夜はなぜか、偶然にも順番に二人がうちに押しかけてきていて、卓己は私のリクエストしたクリームサーモンのパスタを作りながら、佐山CMOはソファでのんびりくつろぎながら、日記解読に協力してくれている。

「卓己くん。その灯台の門扉には、本当に鍵穴がないんですか?」
「そうなんですよ、それは見事につるつるで」
「うわー。僕も実際に見てみたいなぁ!」

 佐山CMOはウキウキで目を輝かせているが、これ以上部外者を増やすわけにもいかない。

「今回はギャラリーが多いから無理。千鶴ちゃんもいるのに、佐山CMOまで押しかけたら、充さんも迷惑だよ」
「え? 千鶴ちゃんって、もしかしてアートフェスの時に卓己くんと一緒に来てた古川千鶴のこと?」

 佐山CMOは、突然身を乗り出した。

「えぇ、そうなんですよ。彼女もこの件に興味があって」
「いいですよねー。彼女の力強い線とストローク! それでいてあの細やかで繊細かつ執拗なまでの緻密な描写は、独自のものですよ!」
「あはは。だから僕も、彼女を事務所に誘ったんです」

 アートオタクによるオタク談義はどうでもいい。
しかし、この日記にからくり扉の記述が残されていたことはありがたい。
私は見てもよく分からない設計図を穴の開くほど凝視している。

「ですが、颯斗さんはこの日記のことをどこで?」
「はは。お恥ずかし話ですが、紗和子さんにお願いしてどうにか教えてもらいました」

 卓己は焼き上がったサーモンののったフライパンに、生クリームをジュッと流し込んだ。

「さ、紗和ちゃん。その扉……の設計は、彼のオリジナルで、あって、著作権にも関わる秘密……だ、だから、あ、あんまり他の人には、見せ……ちゃ、だめだよ。そもそも、か、借りてきたみつ……。他のひ、人の日記だ、し……」
「はーい。分かってまーす」

 灯台の入り口を塞いだ門は、結構な厚みがあるらしい。
氏の日記によると中は空洞になっていて、そこにややこしいカラクリが仕掛けられていた。
それらを解き放つ錠前は、チェーンで結ばれ門の最上部に隠されているらしい。

「あの門の上に、そんなのあった? 卓己は見てた?」
「い、いや。ぼ、僕は、あの時、そこま……で、行ってなかっ……た、から」
「あぁ、そうか」

 ちっ。役立たずめ。

「い、いま、役立たず……。とか、思ったでしょ」

 卓己がテーブルにコトリと皿を置いた。
私は借り物の日記をパタンと閉じる。

「わーい。ご飯できたの? おいしそう! いただきまーす」

 今日のメニューは、ホウレンソウと鮭のホワイトパスタだ。
卓己は私の好きなものなら、なんだって作ってくれる。

「卓己くん。その先輩のお宅には、今度はいつかれるんです?」
「すぐ次の土曜日を予定しています」

 それを聞いた瞬間、佐山CMOは持っていたフォークをぽろりとテーブルに落とした。
両手で顔を覆い、絶望に打ちひしがれている。

「次……の、土曜ですか。僕はどうしても抜けられない仕事でアメリカですね……。あぁ、なんてことだ。もう少し早く予定が分かっていれば……」
「あらー、CMO! それは大変残念ですねー。だけど会社のために、しっかりお仕事してきてくださーい」
「くっ。君は絶対、そんなこと本気で思ってないだろう! いなくてラッキーぐらいにしか思ってないんじゃないのか?」
「なんでそんなこと言うんですか。私は寂しくてしょうがないのにー」
「はは。颯斗さん。アメリカには、どういったご用件で行かれるんですか?」

 出会った瞬間から仲良しな、男2人の会話は弾んでいた。
私はようやくつかめそうな手がかりに、ついフォークを片手に日記のページをめくる。

「あ! さ、紗和ちゃん。お行儀がよくないよ。それは先輩から借りてきた、大切な日記なんだから……。ね」
「そうだぞ! 貴重な資料にパスタソースを飛ばす気か!」

 だからそうならないように、思いっきりお皿からは遠ざけたつもりだし。

「リンドグレーンが灯台の錠前作りを頼んだのは、カミル・ベッカーっていう人なんだって」

 何気なく放ったその一言に、二人はガバリと立ち上がった。

「さ、さわちゃ……。ど、どこにそんなことが書いてあるの!」
「見せなさい。今すぐそのページを見せなさい!」

 そこを開いたまま日記を渡すと、興奮した二人は必死で何かをしゃべり始めた。
この二人の飛ばすつばの方で、日記が汚れそうだ。
私はそんな2人を眺めながら、クリーミーなパスタをフォークで巻き取る。
卓己の手料理はいつだって優しい味がする。
佐山CMOのスマホが振動した。

「あぁ。もう時間だ。俺は行かないと……」
「僕の作ったパスタ、食べていってください」

 佐山CMOは皿を持ち上げると、勢いよくフォークを手に取った。

「この顛末は仕事から戻ったら、必ず聞かせてもらうからね。俺も実際にその灯台が見たいし、その先輩にも、絶対紹介してもらうから!」
「はいはい。いいから急いでくださいCMO。お時間が迫ってますよ」

 ガツガツと卓己の作ったパスタをかき込みながらも、ぐちぐちと小言を残すことは忘れない。
バタバタと慌ただしく佐山CMOが出て行った後で、卓己は空になったお皿を片付けると、残っていた自分のパスタを食べ始めた。
私は白ワインを飲みながら、続きのページをめくる。

「さ、紗和ちゃん……は、は、颯斗さんに、灯台のこと……も、話したんだ」

 これで鍵穴の場所は分かった。
残る問題は、鍵のありかだ。

「しょ、か、会社で……は、同じ所で、働いてるんだ」
「全然別部署」

 錠前の発注を済ませてからは、彼は扉内部のカラクリを考えることに夢中で、しばらくあーでもない、こーでもないと、彼の考察と試行錯誤の製作日記が続いている。

「ぶ、部署、が、違っても……、あ、会って、普通に話しができたり、する……ん、だね」

 ついにカミル・ベッカー氏に発注した特殊な錠前が、リンドグレーン氏の元に届いた。
彼はまずその美しさに感嘆し、誉めちぎっている。
制作者ご本人の前でどれだけの賛辞を並べたかは分からないけど、個人的な日記のなかでこれほど賞賛しているのだから、かなり出来がいいものだったに違いない。
卓己と佐山CMO同様、リンドグレーン氏もカミル・ベッカーさんが大好きだ。

「さ、紗和ちゃんの会社……。け、結構大きな会社なの、に、そ、そういうことって、よくあるんだ!」

 充さんがお父さまから直接聞いていたように、錠前を開く鍵は2本存在する。
両方を同時に2つの鍵穴にさして、決められた順番通りに回さなければ開かない仕組みらしい。

「ねぇ紗和ちゃん! ちゃんと話、聞いてる?」
「聞いてるよ」

 どんな順番だろう。
そこまでは、ここまで読んだ内容に書かれていない。
困るな。
この先にはちゃんと、記されているのだろうか。
次のページをめくる。

「ぼ、僕も、大事な話が紗和ちゃんにあって、そ、それで、今日は、ここに来た……んだ」
「大事な話って、なにか分かったの?」
「違う。灯台のことじゃなくて」

 なんだ。
私は日記に視線を戻す。
2本の鍵は二人の子供、つまり充さんと、亡くなった従兄弟にあたる女の子に託そうとしていた。

「ねぇ、紗和ちゃん。紗和ちゃんが……、もし、もしよかったら……だけ、ど……」

 結局、氏は鍵を子供たちに直接手渡すのではなく、別荘のどこかに隠すことにしたらしい。
彼のイタズラ心がタイミング悪く発動してしまったおかげで、隠された鍵は探されなくなり、灯台は開かずの門となった。
氏は鍵を隠す場所をどこにしようか、あれこれと考えている。

「い、今の会社、を、辞めて……さ。僕の所で、働かない? ほら、うちのスタジオも結構忙しくなってきたし、じ、事務関係……の、その、手続きとか、人手が足りなくなってて、それで……」

 台所、寝室、屋根裏に、玄関。
ここでは、子供部屋も候補にあがっている。
しまった。
そういうことなら、あの時にちゃんと子供部屋も調べておけばよかった。

「だ、だから……。その、お、お給料のこととか、は、また別に、相談、しないといけ……な、いんだけど……」

 不意に眠気が襲ってくる。
ダメだ。
今日はもうこれ以上頭が回らない。
集中力の限界だ。
私は日記のページにしおりを挟むと、ソファから立ち上がった。

「今日はもう限界。卓己はご飯、食べ終わった?」
「う、うん」

 卓己のパスタの皿は、いつの間にか空っぽになっていた。

「片付けは私がやっておくから、卓己ももう帰りなさいよ。明日も忙しいんでしょ?」
「ねぇ、紗和ちゃん。本当に僕の話、ちゃんと聞いてた?」
「うん。聞いてたよ。この件に関しては、ちゃんと考えておくから」
「ほ、ホントに?」
「うん。任せといて」

 にこっと笑ってみせたら、彼はちょっと照れたような、うれしそうな顔をした。

「じゃあ、お、お願いね」
「うん」
「おやすみ!」

 卓己は何度も何度も振り返り、夜道を帰っていく。
私はいつも通り彼の姿が見えなくなるまで、手を振って見送った。
台所の片付けを済ませ、風呂に入りベッドへ潜りこむ。

 解錠の方法に関しては、まだ読み進めてみなければ分からないけど、鍵の隠し場所の検討はついた。
子供部屋だ。
あの日記の内容からすると、子供たちに自然と見つけられるようにしたかったらしい。
しかし氏の特性であるトリッキーな性格のせいで、普通のところに隠す気は、さらさらない。

 また明日も頑張って、日記の解読を続けよう。
卓己たちとも約束したし、そう何度も何度も充さんのお宅にお邪魔するわけにもいかない。
私はベッドのなかで、まだ見ぬ鍵の姿を想像しながら、目を閉じた。





第5章


 そうして迎えた週末、卓己と千鶴ちゃんの三人で充さんの別荘へ向かう。
何度も何度も日記を読み返し、重要な所は抜き出してメモにとっていた。
キリンと、ダチョウ。
二人だけの秘密基地。
そのメモと日記を片手に、二階の子供部屋を捜索する。

「そう言われれば、父さんから宝探しだって言われたことを、思い出したよ」

 そういう重要案件は、早めに報告してほしかったな。
卓己に肩をかしてもらって、久しぶりに二階に上がってきたという充さんは、懐かしそうに子供部屋を見渡した。

「よくこの部屋で、遊び疲れて寝落ちしてたんだ」

 千鶴はおもちゃ箱の中身をひっくり返し、それを一つ一つ確認しながら片付けている。

「もーやだぁ、ほこりっぽーい!」
「いい? キリンとダチョウだからね!」
「はーい」

 私は床の上を丹念に調べていて、卓己は天井を見ている。
どうしてキリンとダチョウに鍵を託そうと思ったのか分からないが、背の高い生き物というのが、1つのヒントになっているような気がする。

「おもちゃ箱のなかには、キリンとかダチョウのぬいぐるみはなーい!」
「天井と棚にも、関係しそうなものはないよ」

 床に敷かれたカーペットにも、それらしき絵柄はないし、それをめくったところで、落書きやヒントになりそうな印もなかった。

「充さん。キリンとダチョウと聞いて、なにか思い出すことはないですか?」
「う~ん、そうだなぁ。特にこれといってなにも……」

 そう言うと彼は、千鶴から一冊の絵本を受け取る。

「うわー懐かしい! この本はアニタが大好きで、よく読んでたんだ」

 アニタというのは、灯台から落ちて亡くなった女の子の名前だ。

「アニタはとってもイタズラ好きでね、寝なさいって言われても、素直に寝るような女の子じゃなかったんだ」

 彼はゆっくりと、絵本のページをめくる。

「それで、この本をよく子供部屋から寝室にもちこんで、ベッドの下に隠れて、二人で読んでたんだ」
「ベッドの下?」
「夜の間のね、二人だけの秘密の隠れ場所だったんだ」
「秘密の隠れ場所って……。そこだ!」

 すぐに私たちは、二階の一番東にある北側の部屋へ向かった。
そこには大きなダブルベッドが1つ置かれている。

「まだ小さかった頃は、ここで一緒に寝てたんだ。大人になってからは、それぞれ別になったけど」

 私はベッドの下をのぞき込んだ。
比較的脚の長いベッドとはいえ、大人がもぐり込むには狭すぎる。

「ちょっと、掃除機をおかりしてきてもいいですか?」

 私が掃除機を運んでくる間に、千鶴は窓を開けて、空気を入れかえてくれていた。
ベッド下に丹念に掃除機をかけてから、私はシャツの袖をめくる。

「え? 紗和ちゃん、本気でもぐり込むの?」

 千鶴が変な声を出したけど、私は本気だ。

「当ったり前よ!」

 さっさとおじいちゃんの作品を手に入れて、こんな半分大掃除みたいな謎解き、すぐに終わらせてやるんだから!

 幸いベッドの下には蜘蛛の巣とかそんなものはなくて、比較的きれいな状態が保たれていた。
ずるずると這いつくばって進んでも、床にはなにもない。

「ほ、方向転換が出来ないんだけど……」
「さ、紗和ちゃん。仰向けにひっくり返ってみたら?」
「仰向け?」

 ゴロリと体を回転させる。
その途端、私は入ってきた光景に目を丸くした。

「なにこの落書き!」

 ベッドの床板には、クレヨンやマジックで描かれた、大量の落書きが残されていた。
夏の別荘でまだまだ遊び足りない子供たちが、ここでひっそり、こそこそ、くすくす、楽しいおしゃべりをしながら、長い夜を過ごしたに違いない。

「えー。どれどれ? どんなになってんの?」

 卓己もベッドの下にもぐり込んできた。

「ほら見て卓己。なんかコレ、可愛いくない?」

 小さな男の子と女の子が縄跳びをして遊ぶ絵を指差すと、卓己は笑ってその絵にそっと触れた。

「懐かしいね。僕たちもよく、こういうことを内緒でやってたよね」
「まだ使ってるじゃない、あのテーブル」

 テーブルとかベッドの下って、子供にはちょうど潜り込みやすいサイズだけど、大人は普段入ってこない場所だ。
私と卓己も、普通の紙やキャンバスでないところに、絵を描くことを楽しむ頃があった。
落書きって、大人にバレないようなところに描くから楽しいんだ。
今も我が家のキッチンで使われている食卓の裏には、私と卓己が描いたワケの分からない落書きが残されている。
その1つ1つが、大切な思い出だ。

「見て、紗和ちゃん。ここに動物園があるよ」
「本当だ」

 それにしても、芸術家の血を引く子供同士なだけあって、とても絵が上手い。
たくさんの動物たちが一頭ずつ檻に囲まれた中に、キリンとダチョウが……あった!

「あった! キリンとダチョウ!」

 なぜかこのキリンとダチョウだけ、違う種類の動物が同じ柵に囲われて描かれていた。

「ちょ、卓己。どいて!」
「な、なに? なんだよ、紗和ちゃん!」

 狭いベッドの下で、私はぐいと体を寄せ卓己を押しのける。

「だから、もういいから卓己は出てって!」
「もー。そんなこと急に、言わ、言われたって、狭いからすぐには、動けな、いんだよ」

 もぞもぞと体を動かしながら、それでも卓己は私と並んで、その絵が見られる位置まで体を移動させた。
その絵が描かれていたのは、ベッド足元の隅っこ部分だ。

「ここ、何かなってる?」

 私はベッドの床板をコツコツと叩いてみる。
特に変わったことはなさそうだ。

「なんでここだけ、キリンとダチョウが一緒なんだろう」

 卓己は可愛らしいその絵を見て、楽しそうに笑っている。
ゾウやライオン、イルカなど他の動物はみな、一頭ずつ1つの檻に入れられているのに、ここだけ不思議な二頭が並んで同じ檻に入れられている。
卓己はその感性に興味がわいたみたいだけど、私にとってそんなことは、今はどうでもいい。
ベッドの床板に仕掛けがないとなると、この絵が描かれた真下の床板か?

「ちょっと、早くどいてって」

 狭いベッドの下で動かなくなった卓己をぐいぐい押しのけながら、体を反転させ仰向け状態からうつ伏せになる。

「もう。やめてよー」

 絵の真下の板を調べ始めた私に、卓己は呆れたように言った。

「鍵を隠すとしたら、普通はマットレスの下とかじゃない? 隠すのも取り出すのも、出し入れしやすいし」

 ぱたりと動きを止めた私と、卓己の目があう。

「だと思うなら、さっさとどきなさいよ!」
「な、だ、だからそんなに、押さないでって!」

 ぎゅうぎゅうにもみ合いながら、ようやくベッドの下から這い出すと、千鶴と充さんが呆れたように見下ろしていた。

「二人とも、本当に仲良しなんですね」

 そう言った千鶴に、充さんは笑う。
私は絵の描かれていた辺りの、マットレスの隙間に手を突っ込んだ。

「あった!」

 手に触れた固い金属の塊を引き出す。
それはピカピカに輝く黄金の鍵だった。

「これだ!」

 鍵には細いチェーンがついていて、子供用のせいか大人には少し短いが、首からかけられるようになっている。
鍵の取っ手部分は大きなクローバー様に3つの円が繋がっていて、おとぎ話に出てくる魔法の鍵みたいだ。
赤や緑、青や白の、細かな宝石がちりばめられている。

「かわいい! 私にも見せて!」

 2本同時に見つけたうちの、1本を千鶴に渡した。
私は残ったもう一本の鍵の観察を続ける。
卓己は千鶴の手元をのぞき込んだ。

「きれいだなぁ! さすがカミル・ベッカーの作品だけはある」
「えっ、カミル・ベッカーが作ったの?」
「紗和ちゃんが見つけたんだ、お父さんの日記の中にそう書かれてあったのを。凄くきれいだよね」
「うわぁ! それを聞くと、持ってる手が震えてくるぅ!」

 鍵とチェーンの接続部分に、小さな板が取り付けられていた。
そこに細かな文字で『F↺ 1/4 3/4 1/2』と書かれてある。
これが解錠の秘密?

「わぁ。紗和ちゃん。この鍵、ここになにか書いてあるよ」

 私はすかさず、千鶴から卓己の手に渡った黄金の鍵を奪い取る。

「な、なんだよ、もう!」

 そこにはやっぱり『S↻ 1/2 1/4 3/4』と書かれてあって、間違いなく差し込む鍵穴と、回す方向、順番を示してる!

「やったぁ! これで謎が解けたぁ!」

 飛び上がって喜んだ勢いで千鶴に抱きついたら、思いっきりイヤな顔をされたけど、私は充さんを振り返る。

「充さん! ついに見つけましたよ!」
「うん。ありがとう」

 彼はとても楽しそうに笑ってくれた。

 だって今の私が見つけたって、とってもうれしいんだもん。
何も知らない子供たちが偶然こんな秘密の鍵を見つけたら、どれだけドキドキするだろう。
ベッドの下から突然現れた、黄金の鍵。
これからどんな魔法や冒険が待っているのか、それを想像しただけでワクワクドキドキして、絶対その日は一晩中眠れない。

「さぁ、灯台に向かいますよ!」

 私は誰よりも真っ先に、子供部屋を飛び出した。

 Fと書かれた鍵を私が持ち、Sと書かれた鍵を千鶴が持った。
背の高い卓己が灯台の門最上部を探ると、てっぺんの白いレンガが外れ、鍵と同じデザインの黄金に細かな宝石のちりばめられた錠前が現れた。
それは太く大きな真鍮の輪と連なる鎖に繋がれている。
いよいよこれからが本番だ。

「ねぇ、紗和ちゃん。これ、どうやって鍵回すの?」

 鍵を手渡された千鶴が不安そうに言った。

「お父さまの日記によると、Fは最初、ファーストのFで、Sは二番目、セカンドのSみたい。曲がった矢印は回す方向で、分数は回す角度だと思う」

 金の錠前に鍵穴は2つあって、私たちはそこへ同時に、見つけた金の鍵を差し込んだ。

「うわー。なんか、めっちゃドキドキする」

 千鶴が長く黒い髪を揺らす横で、卓己は車椅子の充先輩を振り返った。

「なんかすみません。本当は充先輩たちのものだったのに」
「はは。気にするなよ。僕も一緒にドキドキしてるよ」

 私と千鶴は互いの目を合わせ、ゴクリとうなずく。

「まずは私ね。右方向に1/4回転」

 黄金の鍵から、カチカチという細かな振動が手に伝わる。
次に千鶴が左に1/2回転。
続けて私が3/4、千鶴が1/4を回したところで、私たちは再び視線を合わせた。

「これ、最後は同時にいっちゃっていいような気がしない?」

 手に伝わる細かな振動がなくなり、明らかに鍵が軽くなっている。

「私もそう思う」

 千鶴が私の意見に賛同した。

「じゃあちづちゃん。同時にいっちゃおうか」
「おっけーです!」
「せーの!」

 カチリ! そんな音がして、金の錠前が跳ね上がった。

「開いた!」

 危険がないようにと、重たい鎖を掴んでいた卓己が、慎重に錠前を外す。

「これ、すっごいデリケートな作品なんだからね。ぜ、絶対に乱暴にしちゃダメだよ紗和ちゃん!」
「それくらい分かってます!」

 私は卓己から手渡されたそれを、充さんの手に戻す。

「充さん。灯台の門が、開きましたよ」
「ありがとう。これで僕の重荷もとれた」

 卓己がつかんでいた鎖から手を放すと、それはゆっくりと巻き上がり門の上部に収まる。

「さぁ、冒険者たちよ。最初に宝を手にするのは誰かな?」
「勝手に入っちゃっていいんですか!」

 私が勢いよく振り返ったら、充さんは笑った。

「僕は車椅子だしね。正直、中の様子は今でもよく覚えてる。僕が入れるのは1階部分だけ。三上恭平の絵があるのは、灯台の最上階だ。ここまで頑張ったんだから、紗和ちゃんたち三人でぜひ見てきて。絵を見つけたら、持って下りて来ていいから」
「あ、ありがとうございます!」

 充さんは本当にうれしそうに、にっこりと笑った。
卓己を見上げると、彼も「うん!」とうなずく。

「あ、じゃあ私も行きまーす!」

 千鶴も元気よく手を挙げる。
私たちは17年間閉じられていた門の扉を、ぐっと押し開いた。





第6章


 長い間閉ざされていた扉は、その開放を喜ぶかのようにスッと開く。
目の前に、灯台の外壁と同じ真っ白い壁に囲まれた空間が広がった。
海側には大きな明かり採りの窓があり、そこから夏のまばゆい太陽がたっぷりと差し込んでいる。

 ただ広いだけの1階部分には、何も置かれていなかった。
充さん曰く、昔はここでパーティやお父さまの友人たちを集めた演奏会などもしていたらしい。
二階部分に上がるためには、手すりも何もない細く短い板を壁に打ち付けただけの、かなり急勾配な階段を登っていかなければならなかった。
たしかに足の不自由な充さんには、ちょっと難しいかもしれない。

「あぁ。本当にここが開いたんだね」

 車いすの充さんが、その階段を見上げる私たちに言った。

「気をつけていってらっしゃい」
「はい」

 強くうなずいてから、私は二階への階段を一歩踏み出す。
すぐに卓己と千鶴が後に続いた。
天井に開いた穴から、二階の床面に頭を突き出す。

「あれ? ここは締め切られてるんだ」

 2階は1階からの階段と、3階へ上がる階段へのわずかな通り道を残しただけで、床から天井までびっしりと板で打ち付けられていた。

「二階は、物置?」

 私と卓己は、丁寧にその木製の壁を調べる。

「う~ん。ここに本物の扉みたいな切り込みがあるけど、こちら側からは開けようがないな」

 これもヨーラン・リンドグレーン氏のいたずらなのだろうか。木の壁にはいたるところに窓枠のような扉のような額縁が取り付けられていて、それはとても小さな扉だったり、大きすぎる窓だったりして、明らかに実際的な使用を目的としていない。
あんな小さなドアを天井付近の壁につけて、どうやって出入りするんだろう。
空飛ぶ小人か妖精専用の出入り口みたいだ。

「先に三階へ行ってみる?」
「そうだね」

 千鶴に促されて、卓己も動きだした。
今度は千鶴を先頭にして、危なっかしい階段を三階へ上がる。

「うわー! ここ、すっごい素敵!」

 上に登るにつれ、少しずつ細くなっていく灯台の三階は、床に焦げ茶色のふかふかのカーペットが敷かれ、ロッキングチェアとテーブルが置かれていた。
細く繊細なランプもあり、さながら老魔法使いの隠れ家のようだ。
テーブルには古びたガラスの水差しと数冊の本。
大きな窓からは、たっぷりと日の光が降りそそぐ。
天井は丸いドーム型の、分厚いガラス天井だ。

 そして壁には、おじいちゃんの作品『灯台守の休日』が飾られていた。
灯台の白い壁にもたれて、緑の芝生にのんびりと昼寝をしている人物が描かれている。
牢魔法使いの秘密の隠れ家にふさわしい、ゆったりとした画だ。

「絵本の中の世界みたいだね」

 そう言った卓己の横で、千鶴が私を振り返った。

「えー! この三上恭平作品、本当にここから持ってっちゃうの? そのために紗和ちゃんが頑張ってきたのはもちろん分かってるけど、なんか、それはそれで、ここに似合いすぎちゃってるから、もったいないような気が……」

 そうだよね。
確かに私もちょっと、同じことを思ったんだ。
稀代の芸術家、ヨーラン・リンドグレーン氏が、この部屋に飾るために選んだ作品なだけはある。
ここ以外に、飾るべき場所が思い当たらない。
うちのアトリエに戻ってきてくれるのも嬉しいけど、この絵にとってはここに飾られている方が、断然幸せなんじゃないだろうか。

「……。紗和ちゃん。どうす……る?」
「どうしようかな」

 この部屋から、おじいちゃんの絵がなくなった姿を想像してみる。
白い壁に、ぽっかりと空いた隙間は、やっぱりさみしいのかな? 
それとも充さんは、また別の新しい違う絵を見つけて、この場所に架けるのかしら。

 閉めきられているはずの窓から、わずかな潮の香りがした。
ここは海が近すぎるから、もしかしたら窓枠の桟が腐っているのかもしれない。
白壁に埋め込まれた窓が、私を呼んでいる気がした。
17年間眠ったままの部屋には、新しい空気が必要だ。
とりあえず窓でも開けて、本当にここから絵を持ち帰るかどうか、考えてみようかな。

「さ、紗和……ちゃん?」

 私はふらふらと、その窓へ近づいた。
窓の外には、荒れた海が広がっている。
たしかこの窓から、女の子が落ちて死んだんだっけ。

「紗和ちゃん!」

 窓枠に触れようとした手を、卓己がつかんだ。
目を合わせた瞬間、ふわりと足元が軽くなる。

「きゃぁ!」

 千鶴の叫び声が、天井ドームに響き渡った。

 卓己の腕が、私の体を抱きかかえる。
ドスンという衝撃と共に、私たちは下の階へ落ちていた。

「痛たたた」

 落ちた先には、わらが山のように積まれていた。
落とし穴だ。
三階の床がぱっくりと開くようになっている。

「ちょ、大丈夫!?」

 千鶴が不安そうにそこから覗きこむ。

「だ、大丈夫よ」

 私はわらくずの中で起き上がった。

「わぁ。びっくりしたね」

 私の下敷きになっていた卓己も、もそりと動き出した。

「卓己、大丈夫?」
「う、うん」

 彼は私の下から自分の腕を引き抜くと、右手首を気にしている。

「痛ってー」
「ほ、本当に大丈夫?」
「うん。紗和ちゃんは、怪我してない?」
「平気」

 私が答えると、卓己はにこっと微笑んだ。

「そっか。よかった」

 卓己が助けてくれたんだ。
小さいころは誰かにいじめられて、いつも泣いていたのに。
それを私が見つけては、いじめる奴らを追い払っていた。
彼を守るのは私の役目だったのに、もうそんな必要もなくなっていたんだ。

「ん? どうしたの?」

 卓己の手が私の頬に触れ、口元の髪を払う。
高校に入る頃には背だって追い越されていたし、胸の厚みだって腕の力だって、今じゃ到底敵うわけもない。
私はいつの間にか、守る側から守られる立場に変わっていたんだ。

「ううん。なんでもない」

 卓己は落ちたわらの上で、自分の右手をさすっている。
私たちはもうこんなにも、違ってしまっている。
卓己が初めて、見知らぬ人に思えた。

「卓己!」

 千鶴が三階から飛び降りた。
ドスンという振動が、わらの上にいても伝わってくる。

「卓己、怪我は? 怪我してない!?」

 彼女はわらくずの中をまっすぐに卓己に近寄ると、その手をとった。

「大事な利き腕なのに! もっと大切にしてよ!」

 千鶴は卓己の右手首を丹念に調べあげると、それを両手で包み込む。

「デジタル作画でも、モデリングでも、卓己が実際に絵を描くことには変わらないのよ。そのためには動かせる手が必要なの」

 千鶴は本気で腹を立てていた。

「卓己を何だと思ってるの? 紗和ちゃんもアーティストの孫なんだったら、それくらいのこと分からない?」
「だ、大丈夫だよ。千鶴」

 黒く波打つ千鶴の髪に、卓己はそっと指を絡ませる。

「千鶴は大げさだなぁ。そんなこと心配しなくても、僕はちゃんと自分で守ってるから」

 卓己はニッと微笑むと、千鶴の前で右手首をぶらぶら揺らしてみせる。

「ほら、ね。平気でしょ」

 今度はその手を、私に向かって差し出した。
千鶴の言葉に、深くえぐり取られている自分がる。

「た、卓己はいまやもう、自分の事務所を持った独立したアーティストなんだから。自己管理も仕事のうちでしょ?」
「うん。紗和ちゃんの言う通りだよ、千鶴」

 まだ怒っている彼女を横目に、卓己はごそりとわらの山から体を浮かせる。

「紗和ちゃんも俺につかまって。ここから出る方法を考えよう」

 私は差し出されている卓己の右手から、目を反らした。
千鶴にあんなこと言われて、このまま甘えることなんて出来ない。

「この木の壁の、どっかが開くと思うんだよね」

 彼はさりげなく出した右手を下ろす。
千鶴はイラっとしたまま、卓己の背に隠れるようにしがみついた。

「きっとこの沢山のドアの中から、本物を探せって趣向なのよ」

 私はそんあ2人を残し、わらの山をかきわけ、三階に登る時に裏側を見た、木製の壁に向かった。
卓己は私が触れるよりも先に、その壁に触れる。

「これも多分リンドグレーンの作品だよね。子供たちのために作った。だとしたら、真ん中の大きなドアは違うと思うんだ。どんな仕掛けがしてあるんだろう。日記には書いてなかった?」
「そこまで見てない」

 千鶴はまだ卓己の右手を気にしている。
それを知っている卓己は、きっと痛む手をワザと普通に動かしている。
こんなところに来なければよかった。
卓己は丹念に大小の窓や扉の並ぶ木製の壁を調べている。

「あ! そ、そういえば、さ……、紗和ちゃんのおじいちゃんの絵、う、上の階、に、残したまんまだよ?」
「そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ」

 私は怒ったような声を出し、卓己の目を強く見つめ返す。

「あんたもさぁ、絵描きとして、自分の立場分かってんの? こんなところに一緒になって、落ちて来ちゃダメじゃない!」

 卓己はビクリと体を震わせると、わずかにうつむく。
彼が傷つくと分かっていても、私は他にやり方を知らない。

「あんたが自分で立ち上げた自分の会社なんだから、自分で守らないと」
「そうだよ卓己! 卓己が事務所の顔で代表なんだから」
「ご、ごめん……な、さい」
「大体卓己はね、私みたいな何にも絵のこととかアートのことが分かってない、ド素人に構ってる暇があったら、ちゃんと千鶴ちゃんとか他の、同じアーティスト仲間で……」

 私は木製の壁に背をもたせかける。
窓枠にも扉の中にも収まってないなかった小さな灯台が、この壁を開くスイッチだったみたいだ。
偶然そこを背で押したとたん、何一つ隙間などなかった壁に、スッと一筋の空間が開ける。

「あ、開いた!」
「本当だ」

 それは子供の力で押せる程度で十分だった。
木の壁は細かなパーツごとに順番にスライドしていって、大人でもしゃがめば通れるくらいの門が出来上がった。
一番に千鶴を外に出し、次に卓己を出す。
最後が私。

「はぁ~。助かった!」

 千鶴と目が合い、楽しそうに笑ってみせる。

「あはは。びっくりしたね!」
「ちょ、笑い事じゃないって! 卓己がもし怪我でもしたら……」
「ねぇ。充さんはこの落とし穴のことを知ってて、私たちをわざとハメたんじゃない?」
「えぇ!」

 驚く千鶴の無邪気さに、思わずほほえむ。
卓己は納得したようにうなずいた。

「あぁ。そうかもね。そういうところ昔っからあるから。あの人。それもお父さん譲りなのかも」
「はぁ? なにそれ!」
「いいじゃない。真相を聞きに行こう」

 1階への細長い階段へ向かおうとした私の肩に、卓己の手が乗った。

「恭平さんの絵は? 僕がとってこようか?」
「いい。後で自分で取りに行く」

 私はさりげなく卓己の手を払い千鶴に抱きつくと、笑いながら言った。

「さぁ、文句を言いに行こう!」

 階段を降りていくと、案の定お腹を抱えて笑っている充さんがいた。

「あはは。やっぱり落ちたんだ!」
「知ってて黙ってましたね」
「いやぁ~、だって17年前でしょ? 今もちゃんと動くのかどうか、確かめたかったんだ」
「冗談がキツすぎます、びっくりしました。もしかして例の従兄弟の女の子とやらも、落とし穴からは落ちたけど、海に落ちたりしてないんじゃないんですか?」
「ふふ。僕は一言も、そんなことを言った覚えはないよ」

 やっぱり。
あのお父さまの血を受け継ぐいたずら好きだ。
日記の内容も、お父さまがなくなった姪っ子を思い出して書いているにしては、ちょっとおかしな気はしてたんだ。

「どうして死んだって思わせようとしたんですか」
「えぇ? その方が面白いからに決まってるじゃないか」

 あの父にしてこの子あり。
ゲストを驚かすいたずらに、私たちもまんまとはめられた。

「やだもう。信じられない!」

 千鶴はプリプリに怒っている。

「あはは。ゴメン、ゴメンってば。でも、楽しかったでしょ?」

 そうだ。
これは楽しまないといけないものだ。
私たちには喧嘩をしたり気まずくなったりする必要は、どこにもないのだから。

「あはは。さぁ、一旦家に戻りましょう。詳しい話しは、中でちゃんと聞かせてもらいますからね!」

 私はさっと充さんの背後に回ると、車椅子を押しにかかる。

「さ、紗和ちゃん! 絵は?」
「後で!」

 リビングに戻った私たちは、三人で充さんを問い詰めた。
落とし穴をつくったのは、充さんと従兄弟の女の子で、二人で力を合わせ石切り用ののこぎりで穴をあけたらしい。
それも凄い。

「最初はね、ただ穴をあけて、そこにマットレスを敷いただけの落とし穴だったんだ」

 充さんはくすくす笑いながら話しをする。

「僕たち二人に騙されて、そこに最初に落ちたのは、うちの父さんだったんだ。いつもいつも父さんにはやられっぱなしだったからね。仕返しのつもりだったんだ」

 それを大変に悔しがったお父さまは、その持てる能力の全てを使って、かくも立派な落とし穴を作り上げた。

「それで、新しく作られたお父さまの落とし穴には、誰が落ちたんですか?」
「君たちだけだよ」

 充さんは言った。

「父さんを僕たちが作った最初の落とし穴に誘うのにね、アニタが三階の窓を開けて、そこから身を乗り出したんだ。そりゃ大人だったら、びっくりして助けに行くよね。それでアニタを抱き上げた父は、アニタと一緒に下の階に落ちた」

 そうなんだ。
助けようとしたお父さまと、二人で落ちたのか。
数分前の、同じような状況が頭をよぎる。

「そりゃ怒られるよね。やり過ぎだったと、もちろん今では思ってるよ。だからその晩はたっぷり叱られて、僕たちはもうあの灯台に近づけなくなってしまったんだ」
「だからリンドグレーン氏は、あんな大がかりな仕掛けを作ったんですか?」
「そう。父はもう一度、僕たちにあの灯台で遊んでほしかったんだ」

 夏はあっという間に過ぎ去る。
学校が始まると、充さんはこの場所を離れ、アニタはスウェーデンに帰ってしまった。
次に二人が再会したのは二年後の冬で、もう一緒にいたずらをする年齢ではなくなっていたんだって。

「だけどやっぱり、落とし穴はまずいよね。あそこは塞ぐか、せめて滑り台にしておこう」

 充さんは楽しそうに笑っている。私は誰よりも怒ってみせた。

「そうですよ。卓己が落っこちたんですよ! 卓己に何かあったら、どうしてくれるんですか」
「えぇ! 卓己が落ちたの? そりゃマズかったね。分かった。じゃああそこは、滑り台に作り直しておくよ」
「充さん。ぜんっぜん反省する気、ないですよね」
「もしかして、紗和ちゃんも一緒に落ちたの?」
「私なんかより、卓己が……」

 その瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。
勢いよく扉が開く。

「ミツル! 来たよ!」

 元気よく飛び込んで来たのは、白銀のショートヘアに緑の目をした、背の低いかわいらしい女の子だった。

「アニタ!」

 車いすの充さんが、飛び上がるほど驚く。

「アニタ! 日本に来るのは、来月だって言ってなかった?」
「ミツルを驚かせようと思ったんだよ。びっくりしたでしょ?」
「だけど、来るなら連絡ぐらいしてくれたって!」
「あはは。ミツル、会いたかった」

 ここの一族は、とにかく人を驚かせないことには、生きていけないらしい。
アニタは充さんの頬にチュッとキスをした。

「ミツル。元気そうでよかった」

 充さんも彼女に腕を伸ばす。
2人はしっかりと抱き合った後で、顔を上げた。

「アラ、皆サン、ミツルのお友ダチ?」

 そこからアニタは、時々おかしくなる日本語で弾丸のようにしゃべり続けた。
彼女はその間にも、充さんの髪に触れ肩に触れ、こめかみにキスをする。

「二人とも、とっても仲良しなんですね」

 千鶴がため息まじりにそう言うと、彼は照れくさそうに笑った。

「僕が車椅子になって、アニタが世話をしてくれることになったんだ。彼女がここへ来るまでに、灯台を開ける方法を見つけておきたかったんだ」
「あなたたちが、鍵を見つけてくれたの?」

 アニタは私より、少し背が低い。
くるくるよく回る表情で、私を見上げた。

「ありがとう。すごく、うれしい。感謝します」

 彼女の目は清らかに澄み切り、子供みたいにキラキラしている。

「あなたのおじいさんの絵は、どうか持って行って下さい。私たちの、思い出を取り戻してくれたお礼です。今度は私たちの描いた新しい絵を飾って、ミツルのお父さんをここに招待したいから。その時は、サワコさん。あなたももう一度、ここに来て下さいね」

 とてもにぎやかで弾丸みたいなアニタの提案で、突然のパーティーが始まった。
といっても、宅配のピザを頼んで、充さんちにあったスパークリングワインを開けただけだけど。

「充さん。あの絵、本当にもらってもいいんですか?」

 みんながわいわい楽しんでいる最中に、私はそっと尋ねてみた。

「いいですよ。ぜひ持って行ってください」

 私は懐中電灯を借りると、こっそりと別荘を抜け出した。
すっかり日の落ちた海沿いの崖上は、潮風が強く吹きつけ髪がめちゃくちゃにかき乱される。
卓己が開けた扉から、私は灯台の中に入った。
真っ暗な階段も、手にした灯りさえあれば大丈夫。
三階まで上がると、私はおじちゃんの絵を壁から外した。

 窓の下には、ぽっかりと開いた落とし穴がそのままになっていて、暗闇がそこに続いている。
ほんの数時間前に、私が落ちた穴だ。
なんでこんなところに落ちてしまったんだろう。
不注意な自分が情けなくて、みっともなくて、もうこの暗闇の中に落ちたまま、永遠に閉じこもってしまいたい。
そしたらもう……。

「一人でこんなところに来たら、危ないじゃないか」

 卓己だ。
振り返ってその姿を確認した私は、大きく息を吐き出す。

「来たら危ないのは、卓己でしょ」

 壁から外したおじいちゃんの絵を卓己が持とうとするから、私はそれを拒否すると階段へ向かった。

「ほら。もう帰るよ」
「さ、紗和ちゃん。え……っと、絵を持ったまま、その階段を降りるのは、危ないよ」
「あはは。くだらない」

 卓己に手伝ってもらわなくても、自分で出来ることは沢山ある。

「もう子供じゃないんだから。平気よ」
「持つって言ったのに……」

 卓己のすねたような声は聞こえないフリをして、私は一階まで降りると、入り口の扉を絵を抱えたまま背中で押し開け外に出た。
卓己は吹き付ける海風の中を、後からついてくる。

「ね、ねぇ、紗和ちゃん! さっきから、なに……怒ってんの?」

 強い潮風の中で、卓己の声も乱される。

「な、なんか紗和ちゃん。さっきから、ちょっと変だよ!」
「早く帰りたいの! ここは私には場違いな所だし!」

 アニタも美大出身で、現代アートにとても詳しい。
ここでの会話は、ほとんどが彩色や立体構造、パースの話しばかりだ。

「卓己がまだ居たいなら、私は先にバスで帰るけど」
「さ、紗和ちゃんが帰りたいなら、もっと早く、そう言えばいいじゃないか!」

 卓己は私に追いつくと、手から絵を奪いとろうとしている。

「ねぇ、やめてよ。私は自分の手で取り戻したいんだって、いつも言ってるじゃない!」

 暗闇の中でもみ合う私たちの間で、絵が強風に煽られる。
卓己は額縁を掴んでいた手を放した。

「分かったよ。紗和ちゃんがそう言うなら、今すぐ帰ろう!」

 卓己は絵を持つ私の腕に自分の腕を絡ませると、ぐいぐい引っ張りながら乱暴に歩き出す。

「ちょ、なんなの? おかしいのは、卓己じゃない!」

 卓己の腕から逃れようと思うと、おじいちゃんの絵を落としてしまう。
私が逃げられないと知ったまま、卓己はテラスからリビングに入ると、声高に宣言した。

「ゴメンなさい。雨も降りそうだし、遅くなるから今日はもう失礼します。久しぶりに再会した、お二人の邪魔をしても悪いし」

 卓己はにこっと笑って、ウインクまでしてみせる。
いつの間に、こんなことが出来るようになったんだろう。
そんなことすら、知らなかった。
アニタと充さんは泊まっていけって言ったけど、卓己にはどうしても急ぐ仕事が待ってるんだって。
レンタカーの後部座席に絵と一緒に乗り込むと、千鶴は当たり前のように助手席に座る。

「ありがとう。サワコ、また来てね」

 アニタと充さんに見送られ、私たちは笑顔で手を振った。
車が動き出すと、すぐに千鶴は大きなため息をつく。

「あーあ。あの二人、絶対デキてますよね。いいなー、私も彼氏ほしい~」

 千鶴が運転席と助手席の間から、チラリと後ろをのぞき込んだ。

「ね。紗和ちゃんも、そう思わない?」
「いとこ同士って、結婚できたっけ」

 そんな質問に、ここで答えるつもりはない。
卓己はまだ怒っている。
喧嘩の真っ最中だなんて、千鶴には絶対バレたくない。

「雨が降り出す前に帰らないと。天気予報が悪かったの知ってたのに」

 ハンドルを握る卓己の表情は、私からは見えない。
だから卓己にも、私の顔が分からない。

「車なんだから平気でしょ。オープンカーでも、屋根は出せるし」
「車から玄関までの間に、濡れるじゃないか」

 どんよりと垂れ込めた雲が、みるみる夜空を覆い始めている。

「ホンとだね。それで卓己が風邪でも引いたら、もっと大変だ」

 私の放った言葉に、誰からの返事もなかった。
千鶴を先に送り届けると、車中に取り残されたのは、私と卓己だけになってしまった。
卓己はずっと車を運転していて、私は後部座席にいるのに寝たフリも出来なくて、じっと暗闇のなかを、おじいちゃんの絵に視線を合わせている。

「着いたよ」

 卓己が車のドアを開けてくれて、私はその大切な絵を抱えて降りた。
門の扉も玄関のドアも、全部卓己が開けてくれる。
部屋の灯りだって、もちろん卓己がつけた。

「アトリエまで運べる?」
「うん」

 私は出来る限りそっけない返事をして、二階に上がった。
卓己はすぐ後ろをついてきて、アトリエの扉を先に開け、灯りをつける。

「よかったね。ちゃんと自分の手で取り戻せて」

 卓己が怒っていることに全く気づかないフリをするのなんて、私の一番の得意技だって、まだ気づいていないのかな。

「やったぁ! おじいちゃん。これでまた1つ、ここの風景が取り戻せたよ!」

 私はにっこにこの笑顔で、彼を振り返る。

「あははー。卓己もご苦労さま! 今日は助けてくれて、ありがとね」
「あ、う、うん……」

 卓己はもじもじと言葉を探し始め、私はそんな彼の腕に何気ないそぶりでそっと手を添える。

「ね、落ちたとき、本当に痛くなかった? 私は腰をぶつけたんだけど」

 彼がまだ話すべき言葉を見つけられない前で、痛くもない腰をさすった。

「やっだ。もしかしたらここの部分アザになってるかも。お風呂入ったら見てみよう」

 そう言って電気のスイッチに手をかけたら、この部屋から出て行く合図。

「ほら、卓己も雨が降り出す前に、家に帰ったら?」
「う、うん……」

 何度も何度も振り返りながら階段を下りる卓己を、私は口元にだけ笑顔を浮かべ見送る。

「お疲れさま。またね」
「あ、あのさ。こないだの……。その、考えといてって、お願い……した、件、なんだけど……」

 「またね」って私が言ったら、それは「帰れ」という確かな合図だったはずなのに。
今夜の卓己は、簡単にそこから動こうとしない。

「は? 何それ」
「な、何それじゃ、なくて!」

 卓己の顔が真っ赤になって、また怒りだしたから、私は愛想よく笑っておく。

「うそうそ。ちゃんと覚えてるよ。事務を手伝ってほしいって話しでしょ?」
「う、うん……」

 私は軽く息を吐いてから、元気よく腕組みをしてみせた。

「あのさぁ、私がなんのために高校から一生懸命勉強して、一流企業に入ったと思ってるの? 安定した生活がほしいからだって、知ってるじゃない」

 そして大げさなほど、呆れた顔を浮かべる。

「なのに、なんで立ち上げたばっかりのあんたのベンチャー企業に、お世話にならなきゃなんないの。卓己だって、私みたいなこんな余計なお荷物、抱える必要ないでしょ?」
「そ、そんな風に思ってるんじゃ、なくてさ……。俺は紗和ちゃんに……」
「はいはい。心配してもらわなくても、私は大丈夫だから。あんたは自分のことだけをきちんと考えて、やっていきなさい。お互いに大変なのは、分かってんだからさ。私もこうみえて、もうちゃんとした大人なんだよ?」

 腕を押しても、卓己は動かない。

「ほら、千鶴ちゃんにも言われちゃったじゃない。それでこの私が、珍しく反省してんだからさ。そんな反省、長くは続かないって、一番よく知ってるのは卓己じゃない。だから、私がちょっとでも塩らしくなってるうちに、今日はもうさっさと帰って。大切な明日のお仕事に備えてください」

 卓己の指先が伸びる。
私は触れられたくなくて、とっさに頭を90度に下げた。

「紗和ちゃん……」
「お願い。いま自分が情けなくて泣きそうなの。そんなとこ卓己に見られたくないから、早く帰って」
「ねぇ紗和ちゃん。一度さ、ちゃんと一回、お話しよ」

 卓己の手が髪に触れた。
その瞬間、私はその手をはねのける。
泣き顔なんて、今さら見られたくない。
卓巳になんて、甘えたくない。

「帰ってって、言ってるの!」
「だ、だけど紗和ちゃ……」
「帰って!」

 卓己はおろおろと言葉を探し続けている。
それでも私が頭を下げたままじっと動かずにいたら、ようやくあきらめたらしい。

「き、今日は……。じゃあ、もう帰る……けど、仕事手伝ってほしいって、話し……は、また絶対にするから、ね」
「はいはい。今の会社が倒産でもしたら、考えてあげるよ」

 うつむいたまま卓己を玄関の外に追いだした私は、閉めたドアから片目だけをのぞかせる。

「じゃ、おやすみ」

 鍵をかけ、彼の足音をドア越しに聞いている。
乗ってきた車の、走り去る音まで聞き届けたから、もう安心していい。
ようやくほどけた緊張に、その場にぐったりと座り込む。
自分の頬を何かが伝って流れ落ちたのを、私はなかったことにした。





§4『山の上のレストランで』 第1章


 おじいちゃんの絵を譲り受けてから、数週間が過ぎていた。
私は相変わらず電車に乗って会社に通い、黙々と仕事を続けている。
次のオークションに向けての節約生活にも、抜かりはない。
昨夜は月末のシメで遅くまで残業が入り、休日の今日は昼過ぎまで熟睡。
やっと目が覚めたところに、卓己がいた。

「……。なんでいるの?」
「なんで電話に出ないの?」

 私はベッドから起き上がる元気もなく、再び枕に頭をボスリと落とす。

「勝手に入ってこないでよ」
「だ、だってそれは……。悪いなとは思ったけど、でも、で、電話にも出ないし、ピンポン押しても、出て……こないし、じゃあ、何かあったかもって、心配になるじゃないか」

 私は返事の代わりに、ボリボリおしりを掻く。

「じゃ、じゃあさ! だったら……。だったら、会社に電話しても、よかったの? 入り口で待ってても、よかった? 俺、本気で行っちゃうよ?」

 卓己とはもう口もきかないし、相手にもしないと決めていたので、大きなため息を一つついて、それでお終い。
彼も私の魂胆に気づいているから、逆に一歩も引かない。

「い、いいよ! 紗和ちゃんがその気なら。じゃあ俺も、こっ、こっから、一歩も動かないからね!」

 頑なになる卓己に布団の中で背を向けたまま、どうしようかこの先の展開を考える。
トイレにも行きたいし、お腹もすいた。

「ねぇ、紗和ちゃん。こないだから何を怒ってるのか知らないけどさ、俺は……」

 いよいよ困ったタイミングで、着信音が鳴った。
スマホの画面が切り替わる。

「……。佐山CMOだって」

 卓己が画面に映った文字を読み上げる。
面倒くさい相手が、よりにもよって最悪なタイミングで電話をかけてきたもんだ。

「で、出れば? 鳴ってるよ。は、颯斗さんなんでしょ? ぼ、僕に構わず、出ればいいじゃない」

 あぁそうですか。だったら望み通り出てやる。

「もしもし」

 布団から腕だけを伸ばし、通話ボタンを押す。
仰向けに顔を出した私から、卓己の視線がじっと離れない。

「やぁ。そろそろ起きる頃だろうと思って、電話したんだ。もしかしてまだ寝てた? 昨日は仕事で遅かったみたいだけど、大丈夫だったかな」
「何の用ですか?」
「え? あぁ、えっと、今夜の予定は空いてる? よかったら、一緒に食事でもと思ったんだけど」
「間に合ってまーす」

 プツリと電話を切る。
その勢いで、私はベッドから起き上がった。

「さ、紗和ちゃん。間に合ってるって、どういうこと? な、なにか欲しいものでも、あったの? は、颯斗さんから、何の電話だったの? 大事な話?」

 パジャマのまま1階へ降りる私の後を、卓己はずっとついてくる。
トイレの前でも待っていて、出てきた私に続いて台所に入った。
湧かしたお湯をカップ麺に注ぐ間に、卓己は箸を取り出すと、私の前にそれを置く。
3分待っている間、他にすることもないから、卓己の顔をじっと見続けてみる。
彼は最初の1分は同じようにじっとこっちを見ていたけど、すぐにもじもじし始めた。

「ほ、他に、用事……が、ないなら、じゃあ、こ、今夜は、僕と一緒に、ご飯食べる? ひ、久しぶりだし。ほら、最近あんまり、なかったから」
「3分経った」

 フタをバリッとはがし取ると、湯気の立つ麺をズズッとすする。
今日の卓己は、それでもめげなかった。

「あ、あのさ。紗和ちゃんに、言いたいことがあるんだ」

 そう言ったっきり、もごもごとしているだけの卓己を眺めながら、私はカップ麺をすする。
明日は買い出しに行かないとな。
そろそろ備蓄食料も切れそうだ。
主にネット通販で頼んでいるとはいえ、野菜とか果物とかは、やっぱりちょっとは自分の目で見て、お店で買っておきたいしな。

「さ、最近さ。紗和ちゃん、ずっと忙し……そう、だったから。今だって、ちゃんとご飯食べてないし。先輩んち行ってから、なんかずっと、機嫌悪いし……」

 携帯が鳴った。表示は『佐山CMO』。そのまま着信を切る。

「だから……さ、い、一緒にご飯でも、どうかなって思って。紗和ちゃんが今日がイヤなら、別に今日じゃなくって……も、いいんだ。また別の日でもいいし。そ、そういえば僕たちって、よく考えたら、まともに一緒に……、お、お出かけとか、したことないなって……」

 また携帯が鳴った。
佐山CMOからの着信を鳴りっぱなしのまま無視していたら、留守電に切り替わった。

『君のおじいちゃんの絵が見つかったんだ! その絵を見に行こうかと思って予約を入れてみたんだが、どうだろう!』

 そう聞こえた瞬間、速攻で電話に出る。

「それって、どこですか?」
「君もいるんなら、もっと早く電話にでたらどうなのかな」
「質問に答えてください」
「くっ……。あ、新しく山の上にできた、レストランだよ。ちょっとした話題になってただろ? ほぼ廃墟と化していたバブル時代の建物が、最近になってレストランに生まれ変わったって」
「あぁ、あの有名なお城ね」
「そこに、先日のアートフェスのオークションで落札された『山』が飾られることになったらしいんだ。どうだろう、見に行ってみないか?」
「いいですね。行きましょう」
「はは。そう言うと思った。そういう時の返事は早いね」
「はい。行きたいです、行かせてください」
「分かった。じゃあこの後で、6時には迎えに行くよ」

 電話を切る。
その私の目の前で、卓己は顔を真っ青にしていた。
しまった。失敗した。

「な……。なんで僕じゃなくて、あの人なの?」
「じゃあ聞くけど、逆になんであんたじゃなきゃダメなの?」
「ぼ、僕だって、あの絵が落札された先が、あの山の上のって、知ってたし! そ、それに、驚かそうって……」
「ゴメン。これから用事があるから。帰ってくれる?」
「それ、本気で言ってる?」

 卓己を無視して、私は寝巻きのボタンを外す。

「わ、……。分かった。もう帰るから! 急に、押しかけてきてゴメン。今度から、こういうことは、しない……ように、するよ」

 卓己は逃げ出すように玄関から出て行く。
私は卓己から卒業しなければいけない。
きっと彼をいつまでもここに縛りつけているのは、私自身なんだ。
卓己自身も、私から解放されないと。
彼の自由を、これ以上奪っていては駄目なんだ。
私たちはきっと、それくらい長すぎる時間を、一緒に過ごしてしまった。
互いに足を引っ張り合うような負担にだなんて、なっていいわけがない。

 時計を見上げる。
時間は11時を回ったところだった。
私は着ていく服をどうしようか考えながら、洗濯機のボタンを押した。




第2章


 佐山CMOの迎えが家に来る時には、約束の時間より前に家の戸締まりを全てすませ、門の影に身を潜めて待つようにしている。
車が停まって扉があいた瞬間さっとそこへ乗り込み、パッとドアを閉める。
今日もその行程を難なく終えて、ほっと息をついた。

「ねぇ、毎回送り迎えしてて思うんだけど、どうしてそんなことをするの?」

 動き出した車の中で、呆れた表情の佐山CMOが言った。

「CMOと会ってるところを、誰にも見られたくないんですってば」

 本当にこの人は分かってない。
ただの事務員が佐山CMOと会ってるなんて知れ渡ったら、会社にいられなくなる。
どんな噂がたって、なんの意地悪されるか分かったもんじゃない。

「意味が分からないね」
「自分で気をつけるので、大丈夫です」

 その返事の何が気に入らなかったのか、彼は私の隣の後部座席で、窓の外を眺めながらぶつぶつと何かを言ってる。
流れる車窓を背景に、その人の横顔をちらりと盗み見た。
もしこれで私が、ただの事務員なんかじゃなくって、すっごい美人のモデルとかだったり、例えばバリバリのキャリアウーマンで自分も起業してますよーとか、そんなのだったら、この関係も変わっていたのかな。
何か他の特別な才能みたいなのがあって、それでこの人と知り合っていたのなら。
たとえばそう、卓己みたいに、絵の才能があって……。

 違う。
私は心の中で激しく首を横に振る。
危うく勘違いするところだった。
私は普通の人間だった。
天才なんかじゃない。
この人が私を構うのは、単純におじいちゃんの孫として面白がっているだけだ。
私自身を見ているワケじゃない。
正気を取り戻した私は、真っ直ぐ前に向き直る。
あぁ、どっかに都合良く、ちょうどいい普通の人が落ちてないかな。
絵なんて全く興味なくって、三上恭平だなんて聞いたこともなくって、私が高額なオークションに参加してるのを、「バカだな」ってやめさせてくれるような……。

 車は坂道を登り始めた。
遠くから見る分には安っぽくみえた洋館も、近づいてみれば石造りの、案外ちゃんとした立派なお城だった。

「ここ、ラブホテルみたいなところかと思ってました」
「あぁ、そっちの方がよかった?」
「結構他にもお客さんが来てる。流行ってるんですね」
「僕の話聞いてる?」
「たまに」

 そう答えた私に、なにがツボだったのか彼は堪えきれない笑いを一生懸命抑えながら、くすくす笑っている。
だったら最初っから、そんなこと言わなければいいのに。
思いっきり冷めた視線で見上げたら、この人はまた笑った。

「本当に君は面白いよね。僕の想像していた姿とは大違いだ」
「何ですかそれ」
「さぁ、ついたよ」

 車から降りて、隣に並ぶ。
この人はシンプルな淡いグレーのTシャツに合わせた、濃いグレーのカジュアルなスーツを着ていて、いつものようにビシッと決まっている。
私は初秋に合わせて焦げ茶のワンピースで来たけど、釣り合ってるのかどうかも分からない。
こんなお誘いも所詮この人の気まぐれで、いつまで続くか分からないものだし、今は今を楽しむしかない。
難しいことやこの先のことなんて、考えたって無駄なんだ。
ふとそんな風に思えた瞬間、自然と笑顔になれた。

「ま、楽しんで行きましょうか!」
「あはは。それはいいね」

 歩き出した彼が、私を見て微笑んだ。
そのゆっくりとした歩調に合わせ、私も先へ進む。
中は本当に本物のお城のようだった。
広いエントランスホールの中央には、映画セットのような幅の広い階段が赤いじゅうたんと共に上の階から流れ下りていて、石を積み上げた壁には、甲冑や旗が飾られている。
天井には大きなシャンデリアがゆらゆらときらめいていた。

「左の広間は、イベントホールとしても使えるそうだ。右のレストランは常設で、こちらを経営の主力とする方針らしい」

 ふかふかのじゅうたんは本当に靴のまま踏みつけてよかったのだろうかと、不安になるくらいのシロモノだ。

「二階は回廊で繋がった個室に分かれていて、そこも一部屋単位でレンタルできるらしいよ」

 そんなことを聞かされても、私にはこの先一生縁がなさそうなんですけど。

「さぁ、レストランへ入ろう」

 西洋の城をイメージした重厚な面持ちの店内には、沢山の丸テーブルが並んでいた。
ここでも染みをつけたら怒られそうな光沢のあるクロスが掛けられていて、ガラスと真鍮で出来た繊細な燭台に立てられたろうそくも、本物の赤い火がチロチロと揺れている。
いわゆる電気の明かりがないから、部屋全体はとても薄暗い。
まぁそれに関しては、しばらくしたら目が慣れてくるから、いいんだけど。

「薄暗いって、それだけで何でも周囲が良く見えちゃうもんなんですかね」
「君のそのセンスには、時々感心するよ」

 静かだけど、にぎやかなレストランだ。
深く濃い赤色の重そうなカーテンの向こうに、おじいちゃんの絵が飾られていた。

「あぁ。この絵はやっぱり、こういうところに飾られてこそ、ふさわしいものなんですね」

 オークションの展示ルームで見た時も素敵だとは思ったけど、やっぱり絵は飾られる場所を選んでこそ映えるようだ。

「君のおじいさんの、素敵な絵だ」
「本当に」

 薄い空の背景に、深い緑の山がぼんやりと霧のなかに浮かんでいる。
それを見ているだけでも、私は十分に幸せな気持ちになれる。
この絵もきっと、ここでみんなに見てもらうことで、同じように幸せを感じているにちがいない。

「絵が生きるって、こういうことを言うんですね」

 オークションの展示室で、他の作品と一緒に値踏みされていた絵が、ようやく息を吹き返したようだ。

「君と一緒に来られて、よかった」

 運ばれてくる料理は、スプーンに乗った一口大の野菜とか、細切れにされたテリーヌとか、そんなものばかりだ。
こんなお高いレストラン、そう何度も来られるところじゃないから、今日はしっかり堪能して帰ろう。
私がにこっと微笑むと、彼も同じように微笑んだ。
これを最後に、もうこの人からのお誘いも全部断ろう。
だから今日は、ちゃんと楽しもう。

「僕が初めておじいさんの絵を見たのは、『白薔薇園の憂鬱』だ。そこに描かれた白いワンピースの少女は、君がモデルなんだろう?」
「多分そうだとは思いますけど、直接聞いたことはないので分かりません」
「僕は幼いころ、その絵を実際に見ているんだ」
「はぁ……」
「君とよく背比べをしていたよ。額縁に飾られているのだから、そもそも正しい背比べなんかじゃなかったけどね」

 次々と運ばれてくる料理に、ちょっとだけワインも飲んで、彼がとても楽しそうにしているから、これでもう私の役目も終わった。
後は普通に帰るだけだ。

「君の方が背が高かったのに、いつの間にか僕が追い越していた」

 私はもう一度おじちゃんの絵を見上げる。
心のなかで、「ありがとう」と「さようなら」と、「また来ます」を言っておく。
今度は自分の誕生日かおじいちゃんの命日にでも、一人で来よう。
ウェイターさんが、声をかけてきた。

「この絵がお気に召しましたか? 先ほどからお嬢様が、熱心に見上げていらしたので」
「えぇ、とっても素敵な絵ですね」

 私は心からの笑顔を、にこっと返す。

「こちらの絵は、このお城のオーナーが、先日オークションで落札した作品なんですよ」
「わぁ! そうなんですか? すごいですね」

 佐山CMOは、呆れたような感心したような、やれやれといった変な顔でこっちを見てるけど、そんなことは気にしない。

「三上恭平という、アートに詳しい方ならよく知られている作家さんの絵なんです」
「へえ、そうなんだぁ~」

 感心したように、もう一度その絵を見上げる。

「よろしかったら、他の作品も見ていかれますか?」

 えっ? この絵以外にも、他に作品がおいてあるの? 
私はレストランぐるりと取り囲む、周囲の壁を見渡した。
確かに他にもいくつか絵が飾られているけど、ここに私の知っているおじいちゃんの絵はない。

「ここには展示してございません。地下の特別室にて、展示しております」

 彼はとても端正で、流暢かつ上品な笑顔を向けた。

「い、行きます!」
「ではお食事が終わりましたら、ご案内させていただきますね」

 私は彼が最後に運んできた、何とも言い難い複雑な形状をした何か味のデザートを、秒で胃に流し込んだ。




第3章


 佐山CMOと一緒に案内された地下室は、やっぱり薄暗い照明の、石造りの部屋だった。
床には赤黒いじゅうたんが敷かれ、ガラスケースに入ったアンティークの宝石やアクセサリー類と一緒に、絵や彫刻、陶器なんかも置かれている。

「ほう!」

 私より先に、佐山CMOは感嘆の声をあげた。
彼はそこに並べられた、いくつもの美術品を見てまわり始める。
私には、それらを見ても全く価値が分からない。
おじいちゃんの作品は、どこ?

「三上恭平の作品は、こちらになります」

 見せられたのは、絵皿の作品だった。
長方形で厚手の陶器に絵付けされた、古い森に囲まれた、まるでこのお城のような洋館の風景画。
佐山CMOは、その皿を手に取る。

「これが三上恭平の?」
「はい。あまり他では見られない、珍しい作品になります」

 偽物だ。
私の体はそこに楔で打ち付けられたように、目も口も指先も、何もかもが動かなくなる。
おじいちゃんの作品に、こんなものはない。

「ここでは、展示品の販売もしているのかな?」

 佐山CMOは、その店員に声をかけた。

「はい。オーナーと取引のある美術商が、ここの展示品の販売と管理しております。何かお気に召したものでも、ございましたでしょうか?」

 彼はちらりと、私を振り返った。

「何か君が気になったものは、ある?」

 拳を握りしめる。
必死で押さえつけようとしているつもりだけど、わき上がる感情の渦で、頭がどうにかなりそう。
佐山CMOは、そんな私に気づかないのか、ここに案内した店員と話を続ける。

「ここのオーナーは、美術品に興味がおありなのかな?」
「えぇ、新しいオーナーに変わってからですけどね。お好きな方なんです」

 佐山CMOは、おじいちゃんの作品だと紹介された絵皿に視線を移した。

「じゃあ一つ、これをいただいていこうかな」
「え!?」

 慌てて彼を振り返る。
佐山CMOは、全然こっちを見てくれない。

「いくらになる?」

 言われた店員は、小さなメモ用紙に何かを書き付けた。
それを佐山CMOに見せる。

「いいでしょう」

 彼の手がスーツの内ポケットに伸びるのを、私はとっさに押さえこんだ。

「ん? どうした?」
「ご、ごめんなさい。なんだか急に、気分が悪くなってしまって……」

 彼は特になんの表情もなく、私を見下ろす。
お願い、気づいて!

「なら先に、上にあがっていなさい。僕は後で行くから」

 それじゃダメ。
偽物を買わされちゃう! 
私は激しく首を横に振った。

「お願い。一緒に来て。今すぐ!」

 彼はため息をつくと、ようやく財布から手を離した。

「仕方ないな。かわいい君の頼みだ。一緒に行こう」

 店員に案内され、エントランスホールに戻る。
私は抜け出した地下室から、外に向かって駆け出した。

「またのご来店を、お待ちしております」

 とても洗練された、上品な立ち居振る舞いの店員は、そのにこやかな表情を一切崩すことなく、丁寧に頭を下げた。
車に飛び乗る。

「あの絵皿!」
「分かってる、偽物だ」

 車が出発すると同時に、そう叫んだ私に彼は言った。

「知らないフリして買わないと、犯罪として成立しないじゃないか」
「どういうこと?」
「偽物と知らないで購入しないと、騙されたことにならない」
「いくらって言われたの?」
「15万」

 衝動的に、走っている車のドアを開けようとした私を、彼は引き留めた。

「いま問い詰めても、どうにもならない!」
「あんなの、絶対に許せません!」
「もちろんだ。作戦を考えよう」

 彼は足と腕を組んだ。
そのままじっと動かなくなってしまう。
私は山の上にそびえる、古城を見上げた。
あの夢のような空間で、あんなことが行われているなんて。
本物のおじいちゃんの絵を飾り、そこで偽物を売りつけるだなんて。
まるでおじいちゃんのあの絵が、全てをごまかす目隠しにされているようだ。
絶対にこのままになんて、させはしない。

 それから数日が経ち、『しばらく大人しく待っていろ』という指示を出していた、佐山CMOから連絡が入った。
送られて来た社内メールを開く。
そこには、あの古城を入手し、おじいちゃんの絵を落札したオーナーの情報が記載されていた。

 三浦将也。26歳。
生年月日に学歴から、城を入手するまでの経緯や美術品の落札と購入履歴まで、様々な情報が詳細に記載されていた。
昼休みになって、一旦社外へ出る。
どうしようか少しはためらったけど、結局、直接電話をかけることにした。

「もしもし」
「やぁ。君の方から電話をかけてくるなんて、珍しいね」

 佐山CMOの、うきうきした声が聞こえてくる。

「時間がないので、手短におたずねします」
「時間なんて、いくらでも作ればいいじゃないか」
「あのオーナーは、佐山CMOみたいなお坊ちゃまってことですか? 随分お若い方なんですね」
「佐山CMOって、どこの佐山CMOのこと? うちには『佐山CMO』は、他にもいるんだけど。ちゃんと名前で呼んくれないと、誰のことだか分からないね」
「あのお城のオーナーになってから半年も経ってないってことは、本当につい最近ってことですか?」
「いいよねー、自由になるお金がある人って、素敵だと思わない?」
「で、私は考えたんです」
「自由な人生について?」
「あの若さで美術品の贋作を作るとは思えない。学歴を見ても、全くの無関係です。裏に誰かがいます。そこで私が目をつけたのは、絵の落札を仲介した美術商の存在です」
「ねぇ、僕の話聞いてる?」
「おじいちゃんの絵をオークションで最初に競り落とした、吉永商会ってところの情報はありませんか?」
「君が僕の話を聞かないっていうんなら、僕も君の話は聞かないよ」
「了解しました」

 電話を切る。
『吉永商会 美術商』でネット検索したら、一発でヒットした。
便利な世の中になったもんだ。

 佐山CMOから情報をもらってから、どうしようどうしようと何度も考えたけど、やっぱり一人で来た。
ネットで調べれば、所在地と営業時間、お店の外観もちゃんと載ってる。
今日は一日、有給もとった。
普通に働いている社会人が来店出来るような営業時間じゃなかったこともそうだけど、平日昼間の時間なら、警察も役所も開いている。
困ったら、そこに駆け込んで訴えてやるつもり。
大丈夫。
私は1人でもやれば出来る子なんだから。

 オフィス街にあるテナントビルの一室。
さほど間口は広くない1階のフロアが、問題の店だった。
閑散とした店内に、人の姿は見当たらない。
本当に私みたいなのが入ってもいいお店なのか、歩道に面したショーウィンドウの古びたほこりっぽいガラスが、気軽な興味を拒んでいる。
中にうっかり入ったら、高額な商品を買わないと出してもらえなさそうな雰囲気だ。
いや、それでも行くと決めて有給までとったんだ。
行こう。
店の前に立つと、自動ドアが開いた。
ピンポーンという、来客を知らせる音が鳴り響く。

「いらっしゃいま……せ?」

 店の奥から出てきたのは、40代後半から50代くらいの、比較的体格のいい、温和な顔つきの紳士だった。

「おや。こちらにどういったご用件でしょうか」

 その店主は、困惑した表情で私を見ている。
無理もない。
いかにもお金持ってなさそうな普通のOLが、こんなところにひょろひょろやって来たりしない。

「あの、少しお伺いしたいことがございまして」
「はい。なんでしょう」

 すぐに追い出されるかと思ったけど、意外と愛想よく迎えてくれた。
奥のテーブルをすすめられ、お茶も用意してもらえる。

「先日、落札された絵のことです。三上恭平の、『山』です」

 この絵が本物だということは間違いない。
そこから話をすすめて、お城のオーナーとのつながりが出てきたところで、地下室のことを切り出す作戦だ。
彼はしみじみと私をながめながら、突然懐かしげに語り始めた。

「あの絵は、あなたのおじいさまの作品ですよね。もう覚えていないかもしれませんが、私は恭平さんの生前、白薔薇園のお宅にお邪魔して、アトリエもを見せてもらったこともあるんですよ。その時に走り回っていた小さな女の子が、あの作品のモデルになった少女だと知って、とても感動しました」

 彼の目には、うっすらと涙すら浮かんでいた。

「そして今、彼の作品を通じて、こうしてお孫さんが尋ねてきてくださるなんて、本当に感無量です。絵が結ぶ縁とは、不思議なものですね」

 ずずっと鼻水をすすってから、彼はあおるようにお茶を飲み干した。

「あなたのおじいさんは、本当に素敵な芸術家でした」

 ウソ。
まさか自分の顔がバレているとは思わなかった。
どうしよう。

「祖父とは、お知り合いだったのですか?」
「もちろんですよ」

 彼は恥じることなく涙を振り払うと、とびきりの笑顔を浮かべる。

「私の、心の師匠でした」

 ヤバイ。
その輝く笑顔と嬉しいセリフに、一瞬でやられた。
自分でもバカだと思ってるけど、もう止められない。

「そう言っていただけると、私もうれしいです。祖父も喜んでいると思います」

 うっかりのせられ、おじいちゃんとの思い出を話しだすと、彼も同じように、涙ながらに祖父との思い出を語ってくれた。
おじいちゃんとの出会いや、作品を通しての交流、互いに切磋琢磨して仕事をしていた日々だけでなく、一緒に釣りに行ったり、夜の街を飲み歩いた武勇伝の数々……。

 この店の店主である吉永俊彦さんは、間違いなくおじいちゃんのファンであり、親交のあった人だ。
私の知らないような若いころの話もたくさん知っていて、すっかり盛り上がってしまった。
おじいちゃんだけでなく、この人もいい人だった。

「すみません。なんだかんだで、長い間お邪魔してしまって」
「いいんですよ。あなたなら、いつでも大歓迎です。またいらしてください」

 そうやってとびきりの笑顔で手を振られるから、私も丁寧に頭をさげてから歩き出す。
あぁ、なんていい人だったんだろう。
やっぱりおじいちゃんの回りには、いい人で溢れていたんだな。
私はこんなに素敵なおじいちゃんの孫で、本当によかった。
そんなたくさんのいい人たちに囲まれていたからこそ、おじいちゃんの作品は、今も愛される作品であり続けるんだろうな。

 すっかり気分のよくなった私は、昼下がりの街を一人歩く。
そういえば、こんな平日の真っ昼間に、悠々と外を出歩くのも久しぶりだ。
少し寄り道でもして帰ろう。
賑やかな街を1人で歩いていると、学生時代に戻ったみたいだ。
私はお洒落なカフェを見かけると、そこに吸い込まれていった。

 平日の午後を満喫して家に戻ってくると、玄関先に不機嫌な卓己がいた。

「……。今日は、どこへ行ってたの?」
「会社」

 面倒なので、そう答えてから朽ちかけた門をくぐる。

「嘘つき」
「なんで嘘って分かるのよ」
「だって、会社に電話したもん」

 そこからいつもの押し問答。
ぐだぐだとなかなか食い下がらない卓己に、今回は私が根負けした。

「ちょっとね、とある美術商のところへ行ってたのよ」
「美術商? なんで?」

 なんでって言われても……。
私もこれ以上は、本当のことを言いたくない。

「おじいちゃんの作品を、前に扱ってたことがあるらしくって、それで……」

 目が左右に泳いでしまっている。
苦しいのは分かってる。
もっとまともな言い分けを考えないと。

「だから、おじいちゃんの作品をどういう経路で入手したのか、教えてもらおうかと思って……」
「お城のレストランに飾られることになった、『山』の絵ね」

 卓己はひょろ長く高い背でため息をつく。

「それで、教えてもらえたの?」

 美術商がそう簡単に入手経路なんて、教えてくれるわけがない。
作家本人から直接買ったわけでもない、人手をまわっているような作品ならなおさら……。

「教えて……、もらえなかった」

 ここでヘタな嘘をついても仕方がない。
卓己だって、自分とか他の仲間たちの作品を、出品してる立場の人間だ。

「なんていうところ? 僕が聞いてあげるよ」
「いい」
「吉永さんとこでしょ」

 じっと見下ろす卓己に、ぐっと唇をかむ。
知ってるんならわざわざ、聞きに来なくてもよくない?

「僕も気になってたんだ。こないだのアートフェスに出品されてた作品からね。もちろんそこで買ったんだろうけど、それがお城のオーナーに渡ったってことだよ。それ以上のことを知りたいの?」
「無理……、だよね」

 その吉永商会に1人で乗り込んでいって、おじいちゃんの思い出話なんかして、うまいことごまかされた。
吉永さんに。
彼が本当に意図してそうしていたのかは分からないけど、結局贋作のことは聞き出せず、話がそれまくって本題に入れないまま帰ってきたのは、誰のせい? 
えぇ、ワタクシのせいでございます。

 今になって思い返せば、私はこの業界では、結構知られた存在なんだった。
おじいちゃんの孫ってだけじゃない。
場違いなほど若い娘が、オークション会場で毎回話にならないくらいの小銭を握りしめ、必死で値を釣り上げるだけ釣り上げたうえ破れ、泣きながら会場を出て行く。
吉永さんはもしかしたら、どこかの会場で私を見たことがあったのかもしれない。
だとしたら、おじいちゃんの贋作作りのことなんて、絶対に話すワケないじゃない!

「ゴメン。やっぱり私が間違ってた」

 急に腹が立ってきて、勢いよく壊れかけの門を開ける。
傾いた扉を、慌てて卓己が押さえた。

「今日はもう話すことないから、帰って」
「あの吉永って人も、作家さんだよ!」
「え?」

 突然の卓己の発言に、振り返る。

「あ、あの人、自分で売買もしてる……けど、だけど、じ、自分でも作品を、作ってる人、なんだ」
「は? なにそれ」
「恭平さんのところでも、修行して……た、こともある、作家さんだよ」
「それ、本当なの?」
「う、うん。お店は、本名でやってる……けど、作家として、は、別の雅号を持ってる。矢沢映芳って、いうんだ」

 見上げる卓己は、おどおどとした視線を脇にそらした。

「だ、だから……、さ。僕……の、こと。もう、これ以上……。お、怒らない、で……。許して……」
「なんのこと?」
「だって紗和ちゃんが……。ずっと怒ってるじゃないか。灯台から戻って来てから、ずっと。俺のこと、もう嫌いになったのかって……」

 卓己の頭が、私の肩に乗せられた。
自分でも、弱いなと思う。
ぐずぐずと泣いている卓己の、クセだらけの髪をそっと撫でた。

「嫌いになったりするワケないじゃない。私はずっと、卓己の味方だよ」

 うんと小さく答えた卓己は、ぎゅっと私の体を抱きしめた。




第4章


 まわってきた書類の内容に、間違いがないかチェックして、その契約に必要な手続きの準備を整える。
修正箇所には内容を分かりやすく細々と書き込んで、上司の最終チェックに回す。
大きな会社の総務で事務なんかやってると「これは一体なんの書類だ?」なんていう、不思議な書類もたまにまわってくるけど、そんなことをいちいち問い合わせていたらまったく業務が進まないから、与えられた仕事は指示に従って淡々と処理していけばいい。
ようするに、雑用係だ。

 あのお城のレストランで、おじいちゃんの作品が売られていた。
偽物を本物と偽って販売するのは、詐欺だ。
しかし、自分は本物だと信じていたと言われれば、それを信用して買った人間もバカだったということになる。
勉強不足で判断を間違えたというのなら、悪いのはどっちもどっち。
美術品の鑑定士というものに資格はなく、今日から自分は鑑定士だと自称すれば、誰にでもなれるなんの保証もない世界だ。
もちろん信頼がなければ成り立たないのは当然の話で、間違いを続けていれば、個人商店としてはやっていけない。
美術品の販売に必ずつきまとう真贋の問題は、だから大手のしっかりしたオークションが人気なわけで。
それがある意味、信用保障にもなっているのだ。

「三上さーん。昼から手が空いてるって言ってたよね。急で申し訳ないんだけど、これから議事録係、入れる?」
「はい。いいですよ」

 先輩の声に、社内メールで送られてくる、雑に作られた書類のフォントを整えていた顔を上げる。

「ごめんね。急に頼んじゃうけど、申し訳ないです」

 先輩は頭をさげながら私に手を合わせた。

「いえ、いいですよ。私別に、議事録係嫌いじゃないんで」

 会議室の隅っこに座って、何の意見も求められることなく、ただ会話を記録していくだけの役割だ。
ぼーっとしたまま手だけ動かしていればいいだけの時間は、私にとって息抜きみたいなもの。
時間が長くなるのはタマにキズだけど、最近は要点をまとめてから会議に入ることも多くなったし、こんな楽な仕事は他にない。

 作業の効率化とかなんとかで、議事録係なんて仕事に呼ばれることもめっきり少なくなくなってはきたけど、今でもたまに、いくつも部署をまたぐような大きな会議では、そんなこともしている。
座って話を聞きながらキーボードをぱちぱち叩いて、簡潔にまとめた内容を各部署に送信すればお終いだ。

 佐山CMOが言っていたように、偽物を本物と偽っていても、買う人がいなければ犯罪として成立しない。
だけど、自分も本物だと思っていたとシラを切り通されれば、どうしようもない。
問題は、販売主に騙して儲けようという意図があったかどうかだ。

 美術商の吉永さんは、他の作家さんの作品だと明言してお城の展示室に卸したのに、オーナーが真作と偽って販売させているのか、それとも最初から吉永さんが、それと偽って置いているのか……。

 急遽議事録係をすることになった、社内の会議室に入る。
私は部屋の一番隅っこで、持って来たノートパソコンを立ち上げた。

 卓己が言っていたように、吉永さん自身も作家だというのなら、基本的には、自分の作品を売っているということになるのだろう。
自分の作品を自分で売って生計を立てているのなら、あの店の作品は全て本物だということだ。
会って話した雰囲気では、本当におじいちゃんと親交があったみたいだし、卓己自身もそのことを知っていた。
作家としての彼の作品は見たことがないけれど、今度どんなものか調べてみようかな。

 時間になり、知らない社内の人たちが次々と中に入ってくる。
部屋の照明が落とされ、会議が始まった。
ふと聞き覚えのある声に顔を上げると、エライ人たちの列に、佐山CMOが座っていた。
なんだかちょっと、不思議な気分だ。
あれだけ気さくに話している人なのに、ここでは果てしない距離を感じてしまう。
あの人はエライ人なんだから、当たり前か。
そういえば最近、姿を見ていなかったような気がする。
彼がチラチラとこっちを見ているような気もするけど、議題の内容は国際間取引の状況説明に入った。
私は吉永さんのことは一旦おいて、仕事に集中する。
2時間程で終わる会議の議事録は、慣れてしまえばその場でぱっと済む仕事だから、楽でいい。

「お疲れさまでしたー」

 一日の仕事を終え、パソコンの電源を落とそうと指を伸ばす。
帰ろうとしたタイミングで送られてくるメールは、絶対に開いてはいけない。
そんな鉄則を忘れ、うっかり開いてしまった直後で、後悔しながらそのことを思い出すのは、これで何度目だろう。

 開封してしまったメールは、開封通知が直後に相手にも送られるので、言い逃れは出来ない。
『本日の議事録に関する仕様変更依頼』という件名詐欺のそのメールは、佐山CMOからの私信だった。
本当に勘弁して欲しい。
いい加減学習しろ自分。

『君が僕の話を聞かないなら、僕も君の話は聞かないと確かに言った。しかしそれを了承した君は僕の話を最終的には聞いていたということだから、ちゃんと僕の話は聞いていたということになるので、特別に教えてあげよう。

 あの山の上のレストランの新オーナーは、僕の知り合いで、連絡を取ったら会うことになった。君がちゃんと僕の話を聞くというのなら連れて行ってやってもいいが、もし君にその気がないというのなら、僕にはただ彼と会うだけの時間になるだろう。どうするのかは、君自身の判断にまかせる』

 ため息が出る。
なんて回りくどい脅迫状なんだと思いながらも、返事は書く。

『待ち合わせの日時と場所をお願いします』

 やっぱりこの人は面倒くさい。

 当日になって、約束した時間にその場所へ行くと、佐山CMOはいつものように車で迎えに来た。

「こんなところで待ち合わせするくらいなら、直接家でもよかったのに」
「だから、前にも言ったじゃないですか。CMOと会ってるところを、誰にも見られたくないって」
「それは誰に対して? 僕と会ってるのを知られたくないのは、誰にどう知られたくないの?」

 彼は不意に意地悪な笑みをフッと浮かべた。

「ご近所さんに対してです。うちの噂はすぐ広まるので」
「あっそ」

 CMOは窓の外を眺めながら、なんだかニヤニヤしているけど、本当はわざわざ遠回りしてまで、迎えに来てもらうのは、申し訳ないと思っているだけ。
今日は前に買ってもらった水色のワンピースを着てきたし、この人自身はそれに気づいてなくても、私なりに感謝の気持ちは示しているつもり。

「そうそう。今日は君を、初めから三上恭平の孫として紹介するからね」

 彼は珍しく、真剣な表情で言った。

「君とは単なる上司と部下ではないということを、分からせておきたい」
「はい」
「だから、これから会う彼の前では、絶対に『佐山CMO』なんて呼ぶな。『佐山さん』もダメだ。名前で呼ぶように」
「分かりました」

 私は改めて、真っ直ぐに顔を上げる。
車はお城のレストランへ向かっていた。
私たちはこれから、戦場に立ち向かうのだ。
それなりの準備と作戦は必要になる。
私は『三上恭平の孫』という最強カードを持っている。
それに佐山CMOの財力を合わせれば、そう簡単にあしらっていい相手ではない。
佐山CMOにとって私が「使える人間」である間は、そうであろうと思う。
じゃないと、ここにいる理由がない。

 坂を登り切った車は、お城の車寄せにぐるりと回り込んだ。
静かに停止した車のドアが開かれる。
私は『三上恭平の孫』として顔を上げ、そこから一歩を踏み出す。
先回りした佐山CMO、いや、颯斗さんから差し出された手に、自分の手を重ねた。

「ようこそ、いらっしゃいました!」

 出迎えに来たお城のオーナー、三浦将也氏が屈託のない明るい微笑みを浮かべる。
私はそれににっこりと丁寧な笑顔を向け、握手を交わした。

「こちらが、三上恭平氏のお孫さんの、三上紗和子さん」

 颯斗さんが、私をそう紹介する。

「お会いできて光栄です」
「私もです。今日はお招きいただき、ありがとうございます」

 彼は小柄な体格で、明るい栗色の髪と、とても愛嬌のよいくるくるとよく回る表情をしている。

「さぁ、こちらへどうぞ」

 私たちはお城へ上がると、特別室へ案内された。

 その二階のプライベートルームは、一階の一般客用のレストランとは、比べものにならないくらい豪華な作りの部屋だった。
本物のフランス貴族のお城のように、壁にもじゅうたんみたいな分厚い布が張られ、たくさんの絵が乱雑に飾られている。
棚なんかも明らかにアンティークだし、そこに無造作におかれた調度品も、うっかり触れたら捕まりそうな勢いだ。

「素敵なお部屋ですね」

 1階のレストランとは違い、壁の一部はガラス張りになっていた。
山の上のレストランなだけあって、そこから遠くまで街並みが見渡せる。

「三上恭平のお孫さんにそう言っていただけたら、僕もうれしいです」

 将也さんは身長が私とほぼ変わらないような人で、同い年という割りには、幼く見えるその頬を赤らめた。

「将也さんは、アンティークや美術品がお好きなのですか?」
「はい! 僕は颯斗さんの、学生時代の後輩なんです。それで、昔っから颯斗さんが絵や陶芸なんかにとても詳しいのに、憧れてまして……」

 私は颯斗さんを振り返った。

「それで、今日の連絡をもらった時は、作品だけでなくお孫さんともお知り合いと知り、もう『さすが』って感じですよ!」

 笑顔を崩さない私の隣で、その颯斗さんはごほごほと咳払いをした。

「まぁまぁ、そんな話はどうだっていいじゃないか。僕だって彼女と知り合った時は、三上恭平氏の孫だなんて知らなかったんだから」

 3人で席につく。
何も置かれていなかったテーブルに、カトラリーが並べられた。
将也さんは、よほど佐山CMOに憧れていたらしい。
ずっと彼の方に向かってだけ、お世辞というか、賞賛の意を並べている。
颯斗さんはどちらかというと、その並び立てられる美辞麗句に困っている感じで、学生時代にはそれほど親しい間柄でもなかったようだ。
将也さんからの一方的な憧れが、強かったみたい。

「それで僕も、最近になって美術品の収集を始めたんです」

 彼は白くぷっくりとした、幼げな笑顔で首を傾けた。

「いやぁ、色々と勉強することが多くって、僕はまだまだです。颯斗さんの足元には、到底及びません」
「僕が初めて興味を持ったのは、三上恭平の『白薔薇園の憂鬱』でね」
「あ、それ。よく言ってましたよね」

 鹿肉の何とかという料理が一切れ、緑色のソースが線のように掛けられた状態で出てきた。
一口でいける大きさだけど、やっぱり二つに切り分けて食べる方が正解なのかな? 
2人はずっとしゃべりっぱなしで、食べ方を参考にしようにも、一向に手を付ける様子がない。

「あの作品に描かれている少女が、僕の初恋の人なんだ」
「あー! そうだったんですね! じゃあ両思いじゃないですかぁ」
「はは。だといいんだけどね」

 佐山CMOは一口で鹿肉をいった。
私はためらいがちにフォークを手に取ると、散々迷ったあげく切り分けずに口に入れることにした。
フォークで切ろうとして、上手く出来ずにぐちゃぐちゃにしてしまうよりいいだろうという判断だ。
そろそろ本題に入りたい。

「以前、ここのレストランに颯斗さんと二人でお邪魔したとき、地下の展示室に案内されまして」

 若干唐突気味に切り出した私に、彼らの視線が集まる。

「それで、美術品の売買も手がけていらっしゃるのかと」
「えぇ。まぁ、まねごとみたいなものですが」

 彼はテレテレしながら言った。

「取り引きのある商店から頼まれたりして、いくつか作品をおいてあります。ご要望があれば、お譲りできるものもあると思いますけど」
「それは、どこから手に入れられたものなんですか?」
「色々です。僕が買い付けるお店は、一つだけではないので。まぁそれなりによさそうなものを、業者任せでまとめて置いてる感じですね」

 無邪気な彼は、多分シロ。
彼に作品を売りつける美術商が、真作も贋作もごちゃ混ぜにして買わせている可能性が高まった。
将也さんは、ポンと顔を上げる。

「あぁ。そういえばその地下に、三上恭平の作品も置いてありましたね。絵皿とちいさな木彫りの彫刻作品ですが」
「それはどちらからお取り寄せに?」

 おじいちゃんの作品に、木彫りの彫刻というのは見たことがない。
私はにっこりと微笑んだ。

「吉永さんのところです。彼はご自分でも作品を作られていて、作品もいくつか並べてありますよ」

 やっぱりな。
私はようやく出てきた、餃子の皮ではない何かに包まれた料理を、一口で飲み込んだ。

「僕は彼の作品も面白いと思っていましてね。そういえば、次のデイリーオークションに、彼自身の作品を出品するそうですよ」

 その言葉に、私と佐山CMOの目があった。

「よかったら、一緒に見に行きませんか?」

 願ってもないチャンスに、私はとびきりの笑顔を作る。

「あら、それは素敵ですね。そう思いません? ハヤトさん」
「えぇ、いいですね。君がそう言ってくれるなら、こちらから誘う手間も省けそうだ」

 ニヤリと笑ったその人に、反論出来ない自分が悔しい。
これじゃまるで、次のデートの約束みたいじゃないか。

「僕もお邪魔しちゃっていいんですか?」
「デートではないので!」

 全力で言い切った私に、将也さんはキョトンとした顔を見せる。
ハヤトさんはそれに遠慮なく笑った。

「あはは。照れ屋さんだからね、紗和子さんは」

 クッ。
こんな場じゃなかったら、蹴り飛ばしてやったのにと思いながらも、私は真っ赤になった顔で、グラスの水を一気に飲み干した。





第5章


 デイリーオークションの会場に、颯斗さんと並んで入る。
そういえば私が佐山CMOと知り合うきっかけになったのも、この会場だったな。
そんなことを考えながら、彼と共にオークションの席につく。

 吉永商会の店主、吉永俊彦こと、矢沢映芳氏の作品は、やはり吉永商会からの出品になっていた。
自作の陶器や絵画、小ぶりの彫刻が並ぶ。

「それではこれより、オークションを開催します」

 彼の作品群の、最初のロット番号が呼ばれた。

「3万、4万、5万からありませんか? では、5万で56番落札です」

 ハンマープライス。
会場から、ぱらぱらと拍手が聞こえてくる。

「では、次へまいります」

 競りは順調に進んでいた。
このオークションが終わったら、吉永さんと話をしよう。
今日なら佐山CMOもお城のオーナーも一堂に会している。
彼の商売の主戦場であるオークション会場の主催者もいる場所で、いい逃れは出来ない。

 会場スクリーンに、次の作品が映し出された。
矢沢映芳作、皿。
その深い緑のグラデーションがかかった陶器の大皿に、私は突然、意識の全てを奪われた。

「6万円から、7万、8万……」

 激しい動悸とめまいに襲われ、佐山CMOの袖をつかむ。

「どうした?」
「あ、あの……、いま、オークションにかけられている作品は、あの人の作品じゃない。おじいちゃんの……、うちのおじいちゃんの作品です」
「えっ?」

 彼はスクリーンを振り返る。

「それは確かなのか?」

 私がうなずいたのを見届けると、彼はすぐに自分の札を上げた。

「10万、11万」

 なんでおじいちゃんの作品を、自分の作品として出品してるの? 
意味が分からない。

「12万、13万」

 あっというまに、値段がつり上がっていく。
でもこれは、彼の作品じゃない。

「15万、20万!」

 会場がざわつき始めた。
佐山CMOは、また札を上げる。

「21万、22万! 23万!」

 もう一度札を上げようとした彼の腕を、私は止めた。

「23万! 23万で31番、落札です!」
「おい、よかったのか!?」

 私は左右に激しく頭を振った。
違う。
こんなのは間違ってる! 
予想外の高値に、会場から拍手が巻き起こる。
私は胸の動悸と呼吸困難に耐えきれず、席を立った。
おじいちゃんの作品を、矢沢映芳の作品として落札したのは、あのお城のオーナー、三浦将也だった。

「あのバカ」

 佐山CMOがつぶやく。
会場を後にする私たちを、彼はきょとんとした表情で見送った。

 家まで送り届けてもらった私は佐山CMOに支えられ、二階の自室までようやくたどりついた。

「大丈夫か?」

 服のままベッドに横になる。
すぐ横に腰を下ろした彼に、震える声で訴えた。

「なんであの人は、あんなことするんですか? おじいちゃんの作品を自分の物と偽って販売することに、なんの意味や価値があるんですか?」

 仰向けに寝転がった目から、ぽろぽろと止めどなく涙が頬を伝って落ちる。

「彼自身が作った作品でないのなら、それは彼自身が一番よく分かっているはずだ。三上氏の作品を自分の作品として出品することで、自分自身のレートをあげようとしているのかもしれない」
「レートをあげる?」
「自分の作品の価値を、オークションの落札価格で上げるんだ。彼自身の作品でなくても、自分の作品として出品することで、自分の腕と技術を高く見せかけることができる」

 あふれ出る涙を隠すことなく、佐山CMOを見上げた。

「分かりやすく言えば、ゴーストライターみたいなもんだ。彼は君のおじいちゃんの未発表の作品を使って、自分を高く売ろうとしている」
「止められないんですか?」
「難しいだろうね」

 大好きなおじいちゃんの作品が、全く知らない他人によって、酷い扱いを受けている。
その現実を受け止めきれない。

 あのお皿は、アトリエのテーブルに置いてあったものだ。
最初はおじいちゃんの絵筆が乱雑に置かれていたけど、私が洗ってきれいにした。
それに石や砂を入れて、よく庭で遊んだ。
しばらくして再びアトリエに戻されたときには、鍵とか鉛筆とか爪切りなんかの投げ込まれた、小物入れになってた。
私はいつも、あのお皿から爪切りを取って、おじいちゃんに届けていた。

「作品集に記載があるとか、売買の記録が残っているのなら、後をたどれるかもしれないが……」

 佐山CMOの言葉に、私は首を横に振る。

「父がまとめてアトリエごと売り払った時、部屋にあったものは、ほぼ全てが引き取られていきました。明細は、金額の書かれた紙切れ一枚です」

 どうして私は、あの瞬間をとめられなかったんだろう。
おじいちゃんの部屋から全てが奪われていくのを目の当たりにしながら、何も出来なかった無力な自分が嫌い。
非力で無知で何も出来ない自分が、今も許せない。

「作品の管理を、誰もしていなかったのか」

 うちに残されているのは、取り引きの総額にサインした領収書のみだ。
引き受けた業者も、すでに廃業して存在していない。
こうやって忘れられていくのだ。
おじいちゃんの作品は別の誰かの作品にされ、私の思い出も、やがて他の誰かのものに置き換わってゆく。

「方法を考えよう。何か手があるかどうか。難しいことは、また明日考えればいい」

 佐山CMOの手が頭に触れ、髪をくしゃくしゃとかき混ぜてから立ち上がった。

「僕はこれで失礼する。月曜にはまた会社で、元気な姿を見せてくれ」

 彼が部屋を出て行っても、私はずっと天井を見上げていた。
そのまま時は過ぎ夜が終わって朝が来て、また夜が来た。




第6章


 月曜の朝になったから、私はまた会社へいく。
働いて仕事して稼いだお金で、おじいちゃんの作品を取り戻す。
それが私の働く理由。

 一週間がまた過ぎた。
今日もきっと、オークション会場には誰かの作品が並び、それを競り落とす人がいる。
全てが本当だと信じている人々の狂乱の渦に、それはニセモノだと叫んでも決して届かない。
おじいちゃんの庭で、美しく咲き誇る白薔薇に、水をまいていた手が止まる。
秋まっただ中の澄んだ空がどこまでも高く広がる、よい天気だ。
私の上に降りそそぐ太陽の光だけは、せめて本当の光であってほしいと願う。

 白バラの生け垣の向こうで、人の気配がした。
卓己かなと思ったそれは、やっぱり卓巳だった。
彼はいつものように、両手に食品の大量に入った袋をぶら下げている。
そのまま入ってくるだろうと思っていたのに、彼は朽ちかけた門の前でうろうろと迷ったあげく、くるりと背を向けた。

「何よ。入るなら入って来なさいよ」

 私の存在に気づいていなかったらしい彼は、全身をビクリと震わせた後で、いつものぎこちない笑みを浮かべた。

「う、うん……」

 もぞもぞと門をくぐって来た彼から、その荷物を受け取る。

「ありがと」
「……。うん」

 いつもなら、そのままぺちゃくちゃおしゃべりしながらキッチンに入り、勝手に冷蔵庫の中身を整理して、ぶつぶつ文句を言いながら絡んでくるのに、今日はいつまでもその場でもぞもぞと突っ立っている。

「なに? どうしたの?」

 彼は黙ったまま激しく首を横に振ったかと思うと、うなだれたままじっとしている。

「私、まだ水やりが終わってないんだよね、庭を片付けてくるから、こっちはお願いしていい?」

 屋外のテーブルに置かれた、買い物袋に目を向ける。
彼は言葉を探しながら散々ためらった後で、ムッとしたようにそれを掴んだ。
開け放したままのテラスから、家の中に入ってゆく。

「なんだアレ」

 まぁいいや。
今日は卓己の機嫌が悪い日。
それだけのこと。

「紗和ちゃんは、ちゃんとご飯食べてる?」

 庭の片付けが終わるころ、テラスから卓己が顔を出した。

「冷蔵庫の中身が減ってない」

 まだ不機嫌そうな卓己は、再び奥へと引っ込んだ。
このままリビングに戻って、いつものように卓己の小言を受け流しながら、いつもの休日が終わるんだ。
そう思っていたのに、リビングに戻った私を待っていたのは、ムッツリとしたままの卓己だった。
何を言ってもどう聞いても、もぞもぞと「うん」としか答えない。
卓己は今日は、本当に何をしに来たんだろう。
私は諦めて、ワザとらしい盛大なため息をついた。

「ねぇ、何か言いたいことがあるなら、さっさと言ってくれる?」
「う、うん……」

 彼はやっぱりうつむいたまま、顔を横に背けた。
私はじっと彼が何を言うかと待っていたけど、全く口を開く気配がない。

「用がないなら帰って!」

 その瞬間、彼はガバッと立ち上がり、逃げるように玄関へ向かった。
オタオタと靴を履く背中を見ていると、ふいに卓己が振り返る。

「さ、紗和ちゃんは、ほ、他に……」

 彼は強く頭を横に振った。

「ううん。違う。ほ、他に、僕以外に……、だ、誰か……! ううん。ほ、他に、てゆーか、お、俺はもう……」

 散々言いよどんだあげく、大きく息を飲み込んだ彼は、真っ赤な顔で叫んだ。

「なんでもない!」

 そのまま飛び出していった彼を、イライラと見送る。
卓己のことは、いつにまでたっても分からない。
幼なじみで、何でも知っていて、全て分かっているようで、何一つ理解できない。
彼はそんな私のことを、どう思ってるんだろう。
いつまでも家族のような関係でいることに。
私はもう、そこから出て行こうと決めたのに。

 白薔薇園の垣根の向こうに夕日が沈む。
また明日がやってくる。
私はきっと、ずっとこの場所にいて、誰もいない空っぽの家で、埋められない何かを埋める努力をし続けなければならないのだ。

 秋の西日がテラスから差し込む。
卓己の置いていったビニール袋の輪郭を、ゆっくりとなぞってゆく。
流れてしまった時の長さを、改めて思い知らされたような気がした。





第7章


 吉永商会。
有給を使って、また一人ここに来ていた。
秋の日の薄曇りのなか訪ねてきた私は、商談用ソファに通されると、彼自身の作品らしき湯のみに入ったお茶を出される。

「今日はまた、どういったご用件で?」

 にこにこ笑って出迎えてくれたこの人は、もう絶対に私がここに来た本当の理由に気づいている。
おじいちゃんの作品を自分の作品として出品したオークション会場に、私もこの人もいた。

「先日のオークションは、大盛況でしたね」
「おかげさまで、とてもうまくいきましたよ」

 彼は決して、そのにこやかな笑顔を崩さない。

「出品された作品は、全てご自身で作られたのですか?」
「いいえ。そういうわけでもございません」

 彼は白髪まじりの彫りの深い表情に、アーティストとしてだけではなく、商人としての笑みを浮かべた。

「私自信の作品のみならず、応援したいと思った作家さんの作品を、うちの店で扱わせてもらっています。みなさんそれぞれに、苦労がおありですからね」

 そう言った彼は、手にした湯飲みでお茶をすすった。

「あなたと一緒にいらしてたのは、佐山商事の息子さんですよね、たしか次男坊の。彼もお好きですからねぇ。よくあちこちの会場にいらっしゃってるのを、お見かけますよ」
「えぇ、そうですよね」

 私はここへ来るまでに考えてきた作戦を、もう一度頭の中で復習する。

「あぁ、あなたも彼のように、美術品に興味がおありですか? さすがですね。よかったら、うちで扱っている他の作家の作品もごらんになりませんか? あなたのおメガネにかなうようでしたら、一筆推薦状でも書いていただければ、作品の価値も一段と高まります。どうです? よかったら、箱書きされていかれませんか?」

 これ以上、彼のペースに引きずり込まれるわけにはいかない。
私は考えてきた段取りの全てをすっとばして、一枚の写真をテーブルに置いた。

「おや。これは何でしょう?」

 アルバムの中からこの日のために探し出したのは、おじいちゃんのアトリエで撮影された一枚の古い写真だ。
そこには笑顔で写るおじいちゃんと、まだ幼い卓己と私の3人が並んでいる。

「可愛らしい写真ですね。ここに映っているのは、もしや安藤卓己くんです?」
「ここを見て下さい」

 指差したのは、背景に写るテーブルだ。

「この大皿に、見覚えはありませんか?」

 彼は写真を手に取ると、じっとそれをのぞき込む。

「あなたが先日のオークションに、ご自身の作品として出品されていたお皿です。あれは、私の祖父の作品ではありませんか?」

 彼は胸ポケットから眼鏡を取り出すと、それをかけた上で改めて写真に見入った。

「これがその証拠です。あなたは私の祖父の作品を、ご自身の作品として出品し、利益をだしました。それはいわゆる、詐欺というやつではないんですか?」

 彼は大げさなため息をつくと、写真をテーブルに戻した。

「それで? あなたは何の目的で、ここへいらっしゃったんでしょうか?」
「贋作作りをやめてください。以前ある場所で、祖父の作品だと紹介されたものは、偽物でした。祖父の作ったものではありません。それをどこで購入されたのかと聞いたら、吉永さん。あなたから買い付けたものだとうかがいました」
「ははは」

 彼は詰め寄る私を、軽やかに笑う。

「どうしてそんなことをするんですか。あなたも作家の端くれなら、やっていいことと悪いことの区別くらい、つくと思うんですけど!」
「この大皿があなたの祖父の作品だという証拠は、これだけですか?」
「そうですよ。立派な証拠じゃないですか」
「この大皿は、私の作品です」

 彼は冷ややかに嘲る。

「以前、あなたがここにいらした時にも、お話したじゃないですか。私はあなたのおじいさん、三上恭平と親交があり、アトリエにお邪魔したこともあったと。その時に話した詳細な内容に、あなたも私が彼と親しかったことを、認めたのではなかったのですか?」

 たしかにあの時の話に、ウソは感じられなかった。

「これは、私が彼にプレゼントした作品です。彼に教えてもらいながら制作したものなので、確かに彼の作風と似ているかもしれません。私も彼の作品が大好きでしたからね。尊敬する作家に習いながら作成すれば、その作風が似通ってしまうのは、仕方がないのでは?」

 彼は外した眼鏡を、胸ポケットに戻した。

「その私の作品が、ある日売られているのを見かけましてね。しかも三上恭平の作品として。それで慌てて買い戻したわけです。確かにその時には、三上恭平作品として売られていましたねぇ~。彼の作品が大量に出回った時の話です。混乱していましたからね。買い取った美術商が、鑑定を見誤ったのでしょう。それをあなたが勘違いなさるのも、無理もないことですが、残念ですね」
「だけど! だけど……」

 返す言葉が見つからない。
写真のおじいちゃんは、にこにこ笑っている。
私の知っているあの皿は、本当にこの人が作ったものだったの?

「お城のレストラン! あそこで売っていた絵皿。あれは間違いなく三上恭平の作品ではありません! あなたが作ったものを、真作と偽って販売したんじゃないんですか?」
「確かに絵皿は売りました。しかし、私が売ったのは単なる『絵皿』であって、彼の作品であるという鑑定書は、つけていませんよ」

 激しい怒りに満ちた彼の視線と、視線がぶつかる。

「それでこんな言いがかりをつけられるとは、正直、私も大変不愉快です」

 のそりと立ち上がった彼は、厳しく言い放った。

「どうぞ、お帰りください!」

 そう言われても、簡単に立ち上がるわけにはいかない。
ここで出て行けば、彼の言い分を全て認めたことになる。
それでも今は、出て行かなければならない。
彼に対抗するだけの材料を、私は持っていない。
震える手でバッグをつかんだ。

「今は帰ります。だけど、私にはあの大皿が、あなたの作品とは思えません!」

 彼はじっと私を見下ろした。

「吉永さんが、それでもあの作品は自分の作ったものだと、あなた自身でそうおっしゃるのなら、誰も疑う人はいないでしょうね」
「えぇ。私はそれで満足なんですよ」

 立ち上がり、彼に背を向ける。
早くここから抜け出したい。
勝手に涙があふれ出してしまう前に、自分が自分に負けてしまう前に。
一刻も早くここから出て行きたい! 
逃げだそうとして、すっかり日の落ちたガラスドアの向こうに見つけたのは、ひょろりと背の高い卓己だった。

「こんばんは」

 雨でも降り始めていたのか、卓己は閉じた傘の水滴を払うと、傘立てにそれをさす。
その場で濡れた服を気にするような仕草をした。

「お久しぶりです。安藤卓己です」

 彼はゆっくりとした足取りで店内に入ると、吉永さんに片手を差し出した。

「卓己くん! 久しぶりだね。ご活躍の様子は、かねがねよく聞いてますよ」
「とんでもございません。吉永さんも、お元気そうでなによりです」

 卓己が微笑む。
握手を交わし終わったそれを、すぐにポケットに突っ込んだ。
壁際に並ぶショーケースをのぞき見る。

「あぁ、いいものが揃ってますね。さすがです」

 背中を丸め、その一つ一つをみて回る。
卓己は何をしに来たんだろう。

「何か気になるものでも、おありでしたか?」

 吉永さんは卓己に声をかけた。
姿勢を戻した彼は、にこっと微笑む。

「えぇ。紗和子さんのお迎えに来ました」

 そう言うと、卓己は私に向かって手を差し出した。

「ほら。一緒に帰ろう」

 私は突然の彼の登場に状況が飲み込めなくて、じっと立ちすくんでいることしか出来ない。

「どうしたの? 帰らないの?」

 伸ばした手を引っ込めた卓己は、耳元でささやく。

「ね、早く帰ろう」
「わ、私は……。吉永さんに用があって来たの!」
「どんな用事?」

 返答に困って、吉永さんに視線を向けると、卓己も一緒に彼を振り返った。
吉永さんはさっきまでと打って変わった、とぼけた表情を見せる。

「いいえ。特に問題はございませんよ。もう解決しました」
「だって。紗和ちゃん。じゃあ帰ろっか」
「帰らない!」

 ここまで来て、卓己に連れ帰られるわけにはいかない!

「こ、この人、うちのおじいちゃんの作品を、自分の作品だって偽って、オークションに出してたの!」
「……」
「だから、文句を言いに来たわけ!」

 じっと私を見下ろす卓己の表情は、何一つ変わらない。
一切動じることのない彼に、逆に私がうろたえ始める。

「そ、それで! それで……。文句、言いに来た」
「文句は言えたの?」
「言った!」
「じゃあもうお終いだね」
「お、お終い?」
「うん。帰ろ」

 もう一度手を伸ばした卓己に、私は激しく頭を横に振った。

「まだ帰りたくないの!」

 そう言った私に、卓己はショーケースへ視線を戻した。

「ここに並んでいるのは、どれも吉永さんの作品ですよね」
「いいえ。そういうわけでもございませんよ」
「あはは。それはウソだ」

 卓己はゆっくりと、一つ一つに視線を落とす。
作品横に置かれたキャプションには、制作者の名前と製作年が書かれていたが、そこに吉永さんの作家名である『矢沢映芳』は少ない。

「見る人が見れば、ちゃんと分かりますよ。ここに並んでいるのは、どれも同じ一人の人間の手で作った作品だって。それぞれに作者の個性というか、特徴みたいなものが出ている」

 吉永さんの顔が、一瞬ムッと曇った。

「作風を変えたって、同じです。どれもみんな、素敵ですよ。これは全部、あなたの作品だ」

 卓己は姿勢を戻すと、吉永さんに向かって微笑んだ。

「もっと自信を持てばいいのに。あなたの悪いクセは、すぐ後ろ向きになることだって、よく言われてたじゃないですか。あなたにはあなたの良さがあるから、あきらめずに続けなさいって。そうやって恭平さんから、よく言われてましたよね」

 ガラスケースに触れていた卓己の手が、そこを離れた。

「自分をごまかしたり、卑下するようなことは必要ないんです。あなたはあなたのままで、十分評価されています。自分の作品が認められないのは、あなたの名前だからじゃない。他の人の名を使って自分を売ろうとしても、それがあなたの作品かそうでないかは、僕にはわかります。もちろん紗和子さんにも」

 卓己はもう一度、にっこりと微笑んだ。

「あなたのことは、いつも気にして見ていますよ」

 吉永さんはぐっと押し黙ったまま、横を向いた。卓己は私の手を取る。

「さぁ、もういいよ。帰ろう」

 卓己に引かれ、店を後にする。
すっかり日の暮れた街には、小雨がぱらついていた。

「あぁ、傘を忘れてきちゃった」

 卓己は今度は、その穏やかな笑顔を私に向けた。

「ま、いっか」

 しっとりと雨に濡れた街を、卓己と手を繋ぎ歩く。
泣いている私を、彼は一度も慰めたり振り返ったりしなかった。
泣きながら歩く秋雨の上がった夜の街は、キラキラと全てが輝いて、繋がれた手は何よりも温かかった。

 うちに戻って来た卓己は、玄関まで来た途端、いつものモジモジを始める。

「……。ね、ねぇ、本当に、中に入っちゃって、い……いい、の?」
「いつも入ってるじゃない」
「う、うん……」

 ようやく靴を脱いで、リビングに入る。
私が冷蔵庫に買ってきたお茶とかおやつとかを入れ終わるまで、彼は玄関から入ってきたリビングの入り口で、じっとオロオロと立っていた。

「何してんの? プリン、食べるんじゃなかったの?」
「プリン……は、や、やっぱり、紗和ちゃんにあげる」

 卓己はいつも、言いたいことを私に言えない。
だけどそれは私も同じことだったんだと、いま気がついた。

「今日は! ……。その、ありがと」
「え! なにが?」
「た、助けてくれて」

 卓己はぽかんと口を開けたまま私を見た後で、その目を伏せた。

「僕……じゃない。颯斗さんだよ。仕事で忙しくて、自分は行けないから、紗和ちゃんを助けてあげてって、連絡が来た。なんのことだか分からなかったけど、詳しいことも、全部メールに書いてあった」

 卓己はうなだれたまま、横を向く。

「僕、の……方こそ、あ、謝らないと。いつ、も、勝手に、紗和ちゃんの気持ちも考えずに、自分のことばかり優先してたのは……。お、俺の方だったなって……」

 卓己はそこから、一歩後ろに後ずさった。

「紗和ちゃん……は、あの人のことが、好きなんだと、思った。だから……。どうしていいのか、分からなくて。混乱してて。それでも紗和ちゃんがあの人を選ぶなら、もうどうしようもないし……」

 卓己は瞳いっぱいに潤んだ目を、私に向けた。

「ずっとずっと、気になってた。紗和ちゃんが、俺以外の人と付き合うことになるなんて、想像もしてなかった。だけどそれが、間違いだったんだ」
「私別に、佐山CMOのこと好きじゃないよ」
「でも、嫌いでもないでしょ」

 そう聞かれると、返事に困る。
黙り込んだ私の腕に、卓己の手が触れた。

「ねぇ、こっちに来て」

 二階のアトリエに入る。
真っ暗な部屋に、卓己はパチリと灯りをつけた。

「何にもなくなっちゃったね」

 卓己は知っている。
この部屋におじいちゃんがいたことを。
この場所が、どれだけにぎやかで楽しかったのかを、知っている。
今は静かなこの家が、日々尋ねてくる人たちで溢れ、父も母も健在で、私は今よりもずっと素直で自由だった。

「だけどさ、それは紗和ちゃんのせいじゃないでしょ?」

 私は取り戻したい。
あの頃を。あの時間を。
失ってしまったものを全て取り戻せるんだと信じていなければ、怖くて息も出来ない。

「おじいちゃんの作品を全部取り戻すことは、無理だよ。あきらめよう」

 涙があふれ出す。
誰よりも一番自分が認めたくなくて、でも誰かに言ってほしくて、私がずっと待ち望んでいた言葉をようやく言ってくれたのは、卓己だった。

「その代わりに、さ」

 卓己は繋いだ手を握りしめたまま、私を見つめた。

「ここに、俺の作品を置いちゃダメ? これからはさ、俺と紗和ちゃんの思い出の品を、一緒に置いていこうよ」

 泣き顔なんて、きっと卓己にしてみれば見飽きたものだ。
それでも私は、ボロボロあふれ出すそれを止められない。
返事をしなくてはいけないと分かっているけど、どうしても体がいうことをきかない。

「それじゃダメ……かな。ね、俺はそうしたい。から、そうしよう?」

 卓己に肩を抱き寄せられ、そのまま身を任せた。
背に回った彼の腕が、ぎゅっと私を抱きしめる。

「ね、いいでしょ?」

 うなずいた私の耳に、卓己の頬が触れた。

「よかった。いいよって言ってくれて」

 しがみつくように両腕を彼の後ろに回し、その背を握りしめる。
泣きじゃくる私のこめかみに、卓己の唇が触れた。




最終章


 その日、卓己は朝から一日中、うっとうしいくらい上機嫌だった。

「いや~、今日はお招きいただき、ありがとうございます!」

 にっこにこの笑顔を向けた先には、佐山CMOとお城のオーナー三浦将也氏がいる。

「い、いえ! こちらこそ、お目にかかれて光栄です!」

 将也さんは顔をまっ赤にして、ガチガチに緊張していた。
さっきからずっと視線は卓己にくぎ付けで、私とは一切目が合わない。

「ね、ね、これで僕が卓己くんとお友達だって、ウソじゃないって分かったでしょ? 信じてくれた?」
「颯斗さんが本物連れて来たんだから、もちろん信じますよ!」
「あはははは」

 高らかな笑い声が響く。
本当にこの人たちときたら、卓己にしか興味がない。

「僕も一度、このお城に来てみたいと思ってたので、すごくうれしいです」

 卓己が来店すると聞いて、おじいちゃんの絵を二階の個室に移すとか言ってたけど、それはお断りして、一階のレストランホールでの食事会になった。
今日もこの店はお客さんであふれている。
卓己に気づいたらしい数人のお客さんがチラチラとこちらを見ていることに、私以外の3人は気づいてないみたいだ。

 食事が運ばれて来てからも、卓己は美術オタク2人から質問攻めで、おじいちゃんの作品以外興味のない私には、何を言っているのかさっぱり分からない。
出てきた料理の、一口大の何かをフォークで突き刺し飲み込む。
一皿に3口分が小ぎれいに並んでいて、おいしいのはおいしいけど、何を食べているのかは相変わらず分からないままだ。

「えぇ、だから僕はずっと、紗和ちゃん目当てで恭平さんのところに通ってたんです」
「はは。それなら、長年の恋がようやく実ったってことですか?」

 佐山CMOがフォークを片手に、私を見てニヤリと笑う。

「は?」

 ムッとした私に、佐山CMOは慌てて話題を変えた。

「僕にとってもね、紗和子さんは手の届かない人だったんですよ」
「どういう意味ですか?」

 将也さんの質問に、彼はパチリと片目をつぶった。

「それは秘密」

 なんだそれ。
まぁ今さらそんなこと、どうだっていいんだけど。

「そういえばこの間、吉永さんから連絡がありましてね。先日のオークションで僕の落とした皿が、実は三上恭平作品だったっていうんですよ!」

 ウキウキと楽しそうに話す将也さんに、3人は食事の手を止めた。

「本当は別の作品を出品予定だったのが、スタッフの手違いで彼の所蔵品がオークションにかけられてしまったらしくって」
「ほう。それでどうした?」

 佐山CMOが彼に聞いた。

「返品してくれっていうのかと思ったら、お得意先だからそのままでいいって言ってくれて、僕のものになっちゃいました。これって、ものすごい幸運ですよね! そういえば颯斗さんも、あの作品に高値をつけてましたよね。もしかしてあれが、三上恭平作品って気づいてたんですか?」

 佐山CMOは、それに笑うだけではっきりと答えはしなかった。

「だけど、将也はその作品に大金をはたいてもいいって、思ったんだろ?」

 そう言った佐山CMOに、卓己も同調する。

「だとしたら、将也さんの審美眼も、本物だったってことですよ」

 大好きな佐山CMOと卓己からそんなふうに言われて、将也さんはすっかり照れ上がってしまっている。

「ね、紗和ちゃん。紗和ちゃんも、そう思うよね」

 卓己の指が、私の髪をかき上げる。
にこっと微笑んだ卓己に、佐山CMOは突然ムキになった。

「だ、だけど、卓己くんの今度の新作もさぁ! 僕はとしては、色のバリエーションがとても斬新に感じて……」

 何を張り合っているのか知らないけど、この人は本当に卓己が大好きだ。
この3人の食事は一向に進まないのに、私のお皿だけがすぐ空になるのは、なぜだろう。

 3人の楽しげなおしゃべりは続く。
結局、私自身に芸術とか骨董というものが、向かなかったのかもしれないな。
おじいちゃんが卓己には絵を教えて、私に教えようとしなかったのは、私自身に本当の興味がなかったということを、おじいちゃんは見抜いていたのかもしれない。
これだけ美術に関わる人たちとの交流を重ねても、やっぱりおじいちゃんの作品以外に、興味がわかないのは事実だ。

 空になった私の皿が下げられ、次の料理が運ばれてくる。
おしゃべりに夢中な3人の回りには、手を付けられていない料理でいっぱいになった。
私にもこんなふうに、何か夢中になれるものがあったらいいのにな。
それが今までは、おじいちゃんの作品を取り戻すことだったけど、それはもう無理に頑張らなくてもいいよって、言ってもらえたから。

 チラリと卓己を見上げる。
一瞬目の合った彼は、にこっと微笑んで、すぐにおしゃべりに戻った。
私は退屈しすぎて、こっそりとため息をつく。
自分のやりたいことを探すって、簡単なようで案外難しい。

 お城の壁にかかった、おじいちゃんの絵を見上げた。
もしここにおじいちゃんがいたら、なんて言っただろう。
壁に掛けられた山の絵は、どっしりとそこに構えている。
私はその絵を見ながら、これからの自分について、考え始めた。


 【完】








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