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愛する神へ捧げた交響曲〜ブルックナー第9交響曲(補遺としてのVol.5)


我々はブルックナーに追いついたのか?

2024年6月4日都響の第1000回定期演奏会を聴き終えて、私にとっての「熱狂の日々」はひとまず終わった。
思えば1990年代初頭にアイヒホルン&ブルックナー・リンツ管盤を聴いて以来、SPCM補筆フィナーレに魅了されてきた私は、昨年2023年のPMF東京公演に次いで補筆フィナーレ実演に興奮していた。

東京都交響楽団 第1000/1001回定期演奏会の解説を含む「月刊都響 2024年6・7月号」

補作というフィクション

ところで、この補作フィナーレの実演に接した方々の批評や感想を読むにつけ、「3楽章で完結」という呪縛の強さと補作作品を受容することの戸惑いや葛藤を改めて思い知った気がしている。

いずれにせよこのSPCM版の第4楽章、大変興味深く聴かせてもらったのは事実なのだが━━所詮は他の版と同じように、ブルックナーではない人たちがまとめたものだから、どこをどうやったところで、大作曲家ブルックナーの音楽と同じものになるはずがない。単なる二番煎じに過ぎないとなれば、この試みは結局、単なるゲーム的な興味を呼ぶもの以外の何ものでもなかろう。このブルックナーの「第9交響曲」は、やはり、ブルックナー自身が完成した第3楽章までで充分なのである。

東条碩夫のコンサート日記 https://concertdiary.blog.fc2.com/blog-entry-4511.html

2021-22年SPCM版第4楽章は、同2011年改訂版よりも第1主題のフーガがより完成され、第1楽章の主題群とフィナーレ楽章が結ばれるコーダもさらにスケールが大きくなっている。最後はアレルヤ(第3楽章の主題に出るトランペットのドレスデン・アーメン)が高らかに鳴り響いた。
インバル都響の演奏は速いテンポで一貫した流れがあり、2021-22年SPCM版の優れた補筆もあいまって、第4楽章へスムーズにつながった。

毎日クラシックナビ「エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団第1000回定期演奏会」https://classicnavi.jp/newsflash/post-17864/

個人的な見解ではこの曲を何度も聴くと、第3楽章で天国の世界が描かれていて、その次の楽章は必要性を感じません。

一般の方による感想

未完成になったブルックナー自身の作曲に加えた複数人による補筆版であるが、やはりなにかとってつけたような、9番とは異なる曲を聴いているような感覚

一般の方による感想

SPCM版は、途中突然音が止まったりして、生前のブルックナーではあり得ない曲想である。史料的価値はあるとしても、鑑賞する立場からはちょっといただけない(中略)もしこの第4楽章がブルックナーの生前に演奏されていたら、きっと失敗していろんな人にいちゃもんを付けられ、さんざん書き直していたのではあるまいか。いや、この曲の第3楽章までの完成度が高すぎて、ブルックナーはその後が書けなくなってしまったかもしれない。その説が一番正しいと私は思う。

一般の方による感想

こうして眺めていると、賛意を示すより戸惑いや否定のほうが多かった気がする。
フィナーレの遺稿自体、前3楽章同様に先進性を含んだ晦渋さを多分に持っているので、一聴しただけではとっつきにくい音楽ではある。
SPCM補作における作曲家の遺稿の占める割合が85.3%(SPCM2012年版における分析)であっても、補作の中でもとりわけ新たな創作におけるフィクション性=作曲家が全く関与してない部分への拒否の感情もあるだろう。
また「ブルックナーらしさ」という基準のない曖昧な感覚も厳しい評価をもたらしているだろう。

こうした思いが人をして「崇高なまでに不完全な姿だがそれ自体は完璧な3楽章(J・A・フィリップス)」という神話を強化させる事実、生前のブルックナーが3楽章のまま未完で良しとしたわけではなく、「4楽章の代わりにテ・デウム」と語ったことの真意追求それの放棄もこれらのコメントが証明している。

「探ることの放棄」
フィクションとして受け入れながらも、ブルックナーが何を達成し何を目指したかったのか、いや、そもそもブルックナーの実像を見直すという私達の探求がない限り、この補筆の試みは上掲の東条氏が皮肉混じりに言うところの「ゲーム的な遊び」に堕してしまうだろう。

我々は未だブルックナーに追いつけていないのかもしれない。

インバル&都響 定期演奏会1000回

明快なインバルの采配

さて、補遺としてのVol.5は私が立ち会った2024年6月4日の東京都交響楽団の定期演奏会、SPCM補筆フィナーレ2021/22年版付きのブルックナー交響曲第9番について感想を記したいと思う。

東京都交響楽団 第1000回定期演奏会Bシリーズ
日時:2024年6月4日(火) 19:00開演(18:00開場)
場所:サントリーホール
指揮:エリアフ・インバル
曲目:ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調 WAB109 (2021-22年SPCM版*第4楽章付き)[*日本初演]

まずインバルが1-3楽章でノヴァーク版を採用したのは正解だと思った。
拙稿のVol.1-3でも言及したが、SPCM編纂者の一人であるコールスの新校訂版はそれを使用したアーノンクールやラトルも部分的に則っていない箇所があるように私もその校訂には少なからず疑問があり、ノヴァーク版の採用は理解できる。

インバルは2/2拍子を意識し明快な造形を施した演奏であり、重厚壮大という手垢にまみれたブルックナー像を見直すに足るものであった。
また造形といえば、思わせぶりが皆無なので、3楽章アダージョのあの凄絶な属13和音の直後の四分休符に付されたフェルマータも拍子抜けするほどあっさりと次へ移行していき、ドラスティックといえばドラスティックだった。
その一方で、時に唸りながらフレーズを煽る歌謡性が情感をほどよく粧っていて、硬と軟のバランスが絶妙だ。

特に印象的だったのは3楽章アダージョ。インバルが前のめりで煽りながらの峻厳な抉りと第2主題の豊かな歌、そして終盤のカタストロフィの壮絶さと終結コーダの平穏さの対比、作曲家が感じる危機や混迷からの平安の希求を見事に描いていたと思う。

インバルの明快な采配は当然補筆フィナーレにおいても変わらない。
ここでも2/2拍子を意識したテンポ感と明確な造形は殊更な重厚壮大なイメージを回避しつつ、スコアの構造を明らかにしていた。
硬と軟でいえば、複付点のリズムによるフーガをより厳しく抉るのに対して、限りなく情感を滲ませた弱音で奏でられる弦楽によるコラール!
あの慰撫の肌触りを感じる弦楽の響きは当夜最も美しい瞬間だったのではないだろうか。

2024年6月4日、サントリーホールでの東京都交響楽団 第1000回定期演奏会Bシリーズの終演後。

一方で演奏者にとって馴染みのないフィナーレだっただけに、時にアンサンブルが綻んだり管楽器のハーモニのバランスが不安定だった。
特に気になったのは金管による第3主題のコラール。ここは厳しい音楽が続くフィナーレにあって明確な「救済的な聖歌」として響くべきだと思うが、当夜は金管のバランスがやや崩れていて、それが主張できていなかった。

ワーク・イン・プログレス

今回SPCMの2021/22年版を完全な形で聴けたわけだが、昨年2023年8月のダウスゴー&PMFオケでは「想定外」でコーダの2021/22年版に遭遇したため、私はただただ驚くばかりで冷静に聴けなかっただけに、やっとこの新しいバージョンのフィナーレを落ち着いて聴ける機会となった。


愛する神へ捧げた交響曲〜ブルックナー第9交響曲(Vol.4.4)からの引用

コーダにおける2021/22年版の改訂に関して、フィリップス氏は遺稿のスケッチを根拠に成立することができたとしており、上掲の私の記事Vol.4.4の引用にもあるように、ブルックナーが記した和声進行に基づいて1楽章主題とフィナーレの動機を合体させる試みだが、史料的根拠は承知しつつも、音楽的説得力という点で私は弱い印象を受けたのは正直な感想として記しておきたい。
その点ではスケッチの和声進行を見落としたとする2012年版のコーダは全主題統合もやや強引だったとはいえ強いインパクトがあった。

これは、補作フィナーレがもたらすブルックナーの真意追求とは別にして、モーツァルトのレクイエム以来、補作における新たな創作につきまとう妥当か否かの議論であろう。当然ながら永遠に決着することのない問題だ。
それゆえにモーツァルトのレクイエムやマーラーの10番等が次々と補作ヴァージョンを産むわけでもある。


トルソーとしての遺稿は補作という行為に対して永遠に「ワーク・イン・プログレス」を促すということである。

補遺の補遺として

2024年6月5日 J・A・フィリップスのトークに関して

2024年6月5日、東京都交響楽団の第1001回定期演奏会Cシリーズの終演後に、エリアフ・インバルによる「アフター・トーク」が開催され、2021-22年SPCM版の補作者であるJ・A・フィリップス氏も参加して興味深いトークがなされた。
あいにく私は当日参加できなかったが、2024年7月30日にYouTubeにてその内容が公開された。

ここでフィリップス氏が念を押して強調していたのは、「ブルックナーは3楽章のアダージョでこの交響曲を終わらせるとは考えていなかった」
これは私もこの一連の記事でも強調したが、ブルックナー自身が発言した「4楽章の代わりにテ・デウム」がこのフィリップスの語ることの大きな根拠のひとつであり、遺されたフィナーレ遺稿の中に既にオーケストレーションを完成させている部分がかなりあることもブルックナーが4楽章を欲していた証左である。

そして、Xで私自身も提議した昨年2023年のPMF公演のバージョンについても言及されていた。
以下、トークを整理すると、


1)2023年1月の段階で2021/22年版の日本初演は2024年6月のインバル&都響が行うという確約がされた。
2)そのため2023年7&8月のダウスゴー&PMFオケでの補作フィナーレはSPCM2012年版を使用することになっていた。
3)ところがダウスゴーがその2012年版に手を加え、「どちらかと言うと今のヴァージョン(註:2021/22年版)に近いもの(フィリップス談)」に仕上げてしまった。
4)2021/22年版では改訂されたフーガの16小節間はPMFでは2012年版に拠った演奏だった。
5)2021/22年版のコーダの最も重要な箇所(すなわち最大の変更箇所)はPMFでは演奏されなかった。
6)PMFの演奏は「基本的には2012年版であり、それに若干の手を加えたもの(フィリップス談)」である。


このフィリップス氏の一連の発言には矛盾がある。
PMFが使ったバージョンに対して
・「どちらかと言うと今のヴァージョン(註:2021/22年版)に近いもの」
・「基本的には2012年版であり、それに若干の手を加えたもの」

これらは矛盾している。
一方は2021/22年版に近いといい、一方は基本的には2012年版と言っているのである。

その矛盾の要(かなめ)は上掲の5)にある。
つまり2021/22年版の最大の変更箇所を演奏していないとしたために、この矛盾が生じたのだ。

これに関しての私の検証は既にVol.4.1で記しているが、このフィリップス氏の発言は誤認ないしは発言を繕ったと思われる。

2021/22年版の最大の変更箇所は昨年2023年7−8月のダウスゴー&PMFオケでは演奏されていた。
私の認識ではPMFは 6)の「基本的には2012年版であり、それに若干の手を加えたもの」が最も真実に近く、基本は2012年版に沿っているが、コーダに関しては2021/22年版を採用していたのである。

2012年版と2021/22年版の最大の相違は問題のコーダであり、その他の箇所はスコアを眺めながら聴かない限りその差を判別するのは難しいものなので、そのコーダが両者とも同じという事は、フィリップス氏としても都響の手前なかなか言いにくかったのではとは察する。

私がダウスゴー氏にメールでこの件について質した際も、ばつが悪かったのか2021/22年版のコーダを採用したことは口を濁し、この補作自体が「ワーク・イン・プログセス」と言わんばかりに「SPCM 2012 has turned out to be the name for a developing revision(更新していく版)」と回答するのみだった。

この一件はダウスゴーの勇み足により、補作者フィリップス氏、都響及びPMF運営者の思惑や使用スコアの認識を動揺させたということだろう。

(2023年7月30日札幌コンサートホールKitara 大ホールでのダウスゴー&PMFオケによるブルックナー:交響曲 第9番 ニ短調(第4楽章補筆完成版)の映像だが、1'13"13〜明らかに2012年版の全楽章統合の音楽は演奏されていない。これは上掲の譜例の2021/22年版のコーダを演奏している)

SPCM版の今後

先述した通り、補作は「ワーク・イン・プログレス」の運命にある。
その点からすると、「アフター・トーク」におけるフィリップス氏の2021/22年版は「最終的なヴァージョン」という発言には少なからず疑問を感じている。
未だ散逸している遺稿の発見に期待しつつ、この補作版が更に改訂されていくことを期待したい。


ともあれ、まずはSPCM2021/22年版を通じてブルックナーの先進性、9番交響曲全体の設計を多くの人が共有して、ブルックナー像を見直すきっかけになってほしいと願っている。
私も来年アムステルダムへ訪問して、改めて2021/22年版のフィナーレを含んだ9番交響曲に接したいと思っている。


そう、少しでもブルックナーに追いつけるように。


この項、了


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