愛する神へ捧げた交響曲〜ブルックナー第九交響曲(Vol.3)
「未来の音楽」へ
ブルックナー9番の3楽章。
この冒頭とマーラー9番のフィナーレの頭を混同したという覚えはないだろうか。
両者とも弦楽主導でメランコリックなフレーズであるだけに相似性がある。
ちなみにブルックナーは1894年、マーラーは15年後の1909年に完成。
1894年の時点ではマーラーは「復活」書いていた。
大野和士もこの相似性を念頭に上掲のYouTube解説映像でマーラー9番のフィナーレの冒頭を弾いている。
大野は「(マーラー9番は1909年に書かれていますが調性的には)心配(不安)を起こさせない」とマーラーには調性的逸脱がないことを指摘して、ブルックナーの先進性を説明する。
大野はブルックナー3楽章の冒頭を弾いて
「これを何調と思うでしょうか?」
「何調でもない。不協和音です。無調です」
主調はホ長調となっているが冒頭のロ音(H)からいきなり短9度跳躍して調性感を失い7小節目でなんとかホ長調に戻ってくる。
作曲家は冒頭から大胆に仕掛けてくるのだ。
大野「マーラーより早い、少なくとも10年早い」
「完全にシェーンベルクの前触れを予見させる」
既に見てきた様に作曲家は1楽章から大胆な試みをしており、マーラーの先、未来の音楽に手を伸ばしている。
そして「今までブルックナーは書いたことがない」という9番で起きている変異性は更に続くのである。
峻厳さを極める音楽
3楽章も冒頭に様々なモチーフ(これらとて1楽章のモチーフの変容とも言えるが)を登場させ展開されていく。 1楽章でも登場したコラールがここでは作曲家は「生への告別」と呼び、交響曲全体に繋がるモチーフとして存在感は増す。 そしてトゥッティーによる不協和音もより過激になっていく。
3楽章の基本は大変厳しい音楽だと私は認識している。
SPCM補作フィナーレの編纂者の一人であったJ・A・フィリップスは「ダンテのような煉獄の旅」と形容するのも頷ける。
その中にあって変イ長調で始まる第2主題はフィナーレも含めたこの交響曲の中で最も慰撫的な感情をもたらすと感じている。
そして、この楽章の美しさと言えば展開部に入って第1主題とその反行形によるフルートが鏡合わせのように重なって動く辺りはどうだろうか。
このフルートの凛とした孤独感といい、その後の神の慈悲降り注ぐが如き下降音型はもはや異常な美しさを感じる。
展開部以降はその「煉獄の旅」が一層極める。
今まで出てきたモチーフ、激しい転調、不協和音を共にしながら痛切なまでに厳しい音楽が吐露される。
ティーレマンが「弔いの鐘」と呼んだ練習番号Mの前のオーボエの警告音のような同音反復。そして番号Qの凄まじい破局的クライマックス!
そして206小節目の属13和音の絶叫的なクライマックス。
大野和士「ブルックナーが書いた一番恐ろしい不協和音」
ティーレマン「無調の叫び」「ガラスが割れたような和音」
作曲家の危機、恐怖がここに極まる。
2000年ヴァント&NDR来日公演で音価通り四分音符で空間を切り裂いた、血が出るような凄絶な響きは生涯忘れられない。
そして不協和音が鳴り響いた後のフェルマータ休符。
ティーレマン「8番のように信じられない様な間がありますが、それはシンバルの一撃が与えるようなカタルシスは感じられません。
9番はクライマックスにカタルシスがないのです」
懇願そして祈り
一方でブルックナーはその呵責のない音楽にあって例の「生への告別」モチーフを使って神々しいまでの「救い」或いは「懇願」も垣間見せる。
この練習番号L(155小節から)での弦楽はまるで「天使の梯子」のように感じるのは私だけではないだろう。
そしてこの「救い」「懇願」である「生への告別」モチーフが次のフィナーレでコラールとして引き継がれて重要な役割を果たすことになる、
そしてコーダ。
血みどろな響きから解放され、主調のホ長調に戻って十字架音型が示される中、「救い」「懇願」を託して音楽は閉じる。
その充足感ゆえに人はこれを以て交響曲の終わりと捉えようとするが、
しかし、十字架は来るべき者を示しており、愛する神に捧げられた交響曲はまだ解決していないのだ。
次回Vol.4.1は未完に終わったフィナーレとSMPC補筆完成版について。
この項、了
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