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愛する神へ捧げた交響曲〜ブルックナー第九交響曲(Vol.4.1)


献辞の問題

国際ブルックナー協会のブルックナー9番のスコア(2005年コールス版)の表紙をめくると扉に「愛する神にdem lieben Gott」とある。
気になるのは[ ]付である。

国際ブルックナー協会 ブルックナー交響曲第9番スコアの扉

作曲家の献辞ならば自筆楽譜の扉にあるのか?
答えは「ない」
国際ブルックナー協会のスコア前文冒頭にもこの献辞は自筆楽譜にはないと書かれている。

これは死の前年1895年ブルックナーが9番フィナーレを作曲中に会った主治医シュレッターの助手リヒャルト・ヘラーの証言「私は至高の陛下、そう、愛する神に自分の最後の作品を捧げる」から来ている。

作曲家に由来する文書としては存在しない献辞であるため、スコアの扉は[ ]付となっているのだが、しかしなぜそれが批判校訂版のスコアの献辞として掲げられているのだろうか?
編纂者の意図は何であるのか?

私は未完に終わったフィナーレを紐解くことで、この交響曲の全容、
そしてこの献辞の真の意味が明らかになるのではと思っている。


未完フィナーレの姿とは

SPCMとは

1896年10月11日午前中まで交響曲第9番フィナーレは作曲を続けられ、午後3時過ぎの作曲家の死によって未完に終わった。
フィナーレに関する膨大な自筆楽譜やスケッチは、死の直後から部屋に訪れた様々な人によって持ち出され、一部が散逸してしまった。
しかし近年に至るまで学者らの努力によって遺稿の再発見があり、SPCM編纂者もその貢献者であった。

ところでSPCMとはニコラ・サマーレ(Nicola Samale)、ジョン・A・フィリップス(John A. Philips)、ベンヤミン=グンナー・コールス(Benjamin-Gunnar Cohrs)、ジュゼッペ・マッツーカ(Giuseppe Mazzuca)これら4人の作曲家や学者の頭文字であり、いわゆるフィナーレの「SPCM補筆完成版」は彼らによる共同補作なのである。

SPCM補筆の作曲家成分は?

では一体SPCM編纂者も携わった遺稿捜索の結果、補筆されたフィナーレはどこまでがオリジナルなのだろうか?

ここでSPCM補筆完成版スコア(2012年)のあるページを紹介したい。
SPCM版とモーツァルトのレクイエム(ジュスマイヤー補筆)を比較して作曲家の真正性の比率を見たページだ。
SPCM編者が補作の意義を伝えるために作成した涙ぐましい分析である。

例えば作曲家がオーケストレーション完成した草稿に限定するとジュスマイヤー版は全体の9.6%、SPCM版は31.9%。
これが各作曲家が遺した断片的なスケッチ(弦楽や金管のみとか部分的な旋律)から起こした再現・復元譜も含んだ上での真正性の比率になるとジュスマイヤー版は全体の78%でSPCM版は85.3%にもなる。
補作版としてはSPCMの方がジュスマイヤー版より作曲家成分が高いのだ。

ブルックナー 交響曲第9番フィナーレSPCM補筆完成版(2012年)スコアから

つまり未完と言われる9番交響曲フィナーレはかなりの部分が作曲されていたことになる。
先述した通り現在もなお散逸して発見されていないものもあり、実のところ我々が思う以上に作曲家は完成間近だったことがわかる。

そのフィナーレ遺稿は現在簡単に聴くことができる。一番有名なのはアーノンクール盤だ。このディスクには2002年ザルツブルク音楽祭のレクチャーが収録されており、彼はご丁寧に録音時の2002年における遺稿の状況や経緯を説明しながらJ=A・フィリップ編纂のフラグメント・スコアを演奏してCD1枚分費やしている。これと例えばラトル盤のSPCM補筆フィナーレ2012年版を比較して聴けば、補作の大部分が補作者による創作ではなく、ブルックナーが遺したフラグメントに依っていることがわかる絶好のリファレンスだ。

アーノンクール&ウィーンフィル ブルックナー交響曲第9番(2002)

また「Bruckner unknown」(2014)は室内楽編曲が玉に瑕とはいえ、J=A・フィリップが編纂したフラグメントが聴ける(断片ごとにトラック分けしてほしかったが)
この録音で貴重なのは和声の輪郭しかないコーダ・スケッチもJ=A・フィリップが弦楽合奏に編曲したもので聴けることだ。そしてこのコーダの和声をSPCM補作版が間違いなく引き継いでいることも、これを聴けばわかる。

リッカルド・ルナ「Bruckner unknown」(2014)

このように遺稿は音源で聴けたりIMSLPで現存する自筆楽譜やスケッチを見ることができるので「聴くべきものは何も残されなかった」「SPCM補作版の内容はほとんど創作である」という風説は文献学的にも否定される。

一方で補作の不首尾やそもそも作曲家の心神耗弱が遺稿に及ぼしているとして、このSPCM補作完成版に対して「霊感に乏しい」と指摘する声はある。
断片を編纂したフィリップや録音したアーノンクールらの仕事から、少なくとも遺された音楽がどうであったかは読み取ることができるので、各々が思う妥当で判断するしかないだろう。

「あとはジュスマイヤー版を容認する心あるならば十分な素材が残されたフィナーレを捨て去るには忍びないと思うものでは(B=G・コールス)」

アーノンクール&ウィーンフィル ブルックナー交響曲第9番ライナーノーツより



SPCM版補筆フィナーレとは

「日本初演」から見えるSPCMの進化

都響の2024年プログラム発表でエリアフ・インバルが9番をフィナーレのSPCM補筆版付きで取り上げるというのは嬉しいニュースだった。
そしてそれが2004年にSPCM共同補作から離脱したJ・A・フィリップが2021-2022年にSPCM2012年版を基に改訂更新したバージョン使用であることも喜びを以て驚いた。

しかし、都響のアナウンスである「日本初演」は、私には苦々しい記憶が蘇ってくる。

セミ・プロ関係ないとするならば、私の見解では2023年7-8月PMFオーケストラによるブルックナー9番のSPCM補筆完成版が当初の予告である2012年版ではなく、事実上のSPCM2021/22年版の日本初演であった。
PMF組織委員会は公式には「2012年版」使用と発表しているために、都響事務局はそれを受けて2024年6月の演奏会を「2021/22年版」の「日本初演」としたのではと推測する。

2023年8月1日付 私のXのポスト

私はPMFの公式発表に疑問を持ち上掲したXのポストをしたが、それに対して一部では「信憑性の低い情報」とされ「拡散することの弊害」とまで言われたのだが、この2023年8月のPMFがなぜ2021/22年版とわかったかというと、そこにはSPCM版の歴史として改訂の度に音楽が大胆に変更されるからだ。
この場合もPMF演奏会では2012年版の最大のクライマックスである全楽章主題の統合がすっかり消えてしまい、その代わりに第3主題の壮大なコラールが鳴り響いていたからである。これは2021/22年版でしか聴けない音楽なのだ。

2023年8月2日付 私のXのポスト

上掲YouTubeはJ・A・フィリップスが自らアップした2021/22年版のMidi音源による再現。全楽章主題統合が消えてコラール主題に変わったという点で2012年版とは明確に異なる箇所が20'22"-21'39"である。

念の為に聞き違いの有無など事実を確認するために、2023年9月17日NHKFM(北海道ブロック)で放送された7月30日札幌公演の録音を聴いたが間違いなかった。
2012年版のポイントである全楽章主題統合は演奏されていなかったのはもちろん、フィリップスがもうひとつの改訂箇所であると言及していたフーガ部分も2021/22年版に沿っていた。

2023年9月7日付 PMF組織委員会のXのポスト

上掲はabruckner.comに上がっているJ・A・フィリップスによるコメント。ここに彼が更新した2021/22年版の主要な改訂箇所が大約されている。

PMFオーケストラを振った指揮者ダウスゴーにもメールでPMFにおける版について問い合わせたが「SPCM 2012 has turned out to be the name for a developing revision」という回答であり、2012年版は「更新していく版」という認識がPMF組織委員会をして「2012年版」とする背景だったと思われる。


「日本初演」そしてPMFの真偽はともかくとして、
なぜSPCM版は改訂の度に大きく音楽が変更されるかというと、
それはひとえに未完という事実があり「存在しない遺稿」があるからである。
失われた、或いは作曲家が書けなかった音楽があることだ。

それゆえにSPCM編纂者の試行錯誤が改訂の度に表れ出てくるということだ。

SPCM補作の姿勢

SPCM版の繰り返す改訂、それは補作が「永遠に作曲家のものにはならない」という真実をも示しているのだが、一方で編纂者は飽くなき真摯な姿勢で遺された史料を検討し補作している姿も見えてくるのだ。

試しにSPCM2012年補作版と残された遺稿を比較してみたい。
冒頭1-16小節目までは最終形態のボーゲン(2つ折り4面の五線紙)が散逸したため現存する初期形態ボーゲンから最終形を想定しながらカット或いは補作している。
例として初期形態ボーゲンの冒頭5ページにSPCMの仕事を書き入れてみた。

初期形態ボーゲンの4楽章冒頭ページ
初期形態ボーゲンの4楽章2−3ページ
初期形態ボーゲンの4楽章4-5ページ

SPCMは作曲家の変更等を見極めるための史料批判を行っており、例えば多くの補作版で採用されているフルートの応答形(初期形態ボーゲンの2-3ページ画像参照。18小節目からの最上段)はSPCM版ではこの場合「初期形態」であることを理由に潔くカットしている。
「遺稿だから採用」という盲目的な観点から離れて厳しい史料批判をしながら取捨選択する真摯な姿勢がこの冒頭の一例から読み取れる。



フィナーレはかなりの部分が遺稿として残っているとはいえ補作者が真摯な史料批判を通じて様々な試行錯誤をしなければならない課題
もあり、SPCM補筆版は都度改訂されていく運命にあるのだ。
次回からSPCM編纂者補筆によるフィナーレを詳細に見ていきたいと思う。

続きはVol.4.2へ。近日公開予定


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