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愛する神へ捧げた交響曲〜ブルックナー第9交響曲(Vol.4.2)


なぜフィナーレなのか?

この大見出しはSPCM編纂者の一人でSPCM補筆フィナーレ2021/22年版を編纂したJ・A・フィリップスによる論文「The “SPCM” Finale of Bruckner’s Ninth Redux: Revision 2021–2022」の小見出しからの引用だ。
彼はその中でフィナーレはそれまでの3楽章とかなり密接な関係にあり、作曲家のこの交響曲に対する全体の構想として不可欠なものであることを強調している。

生前のブルックナーが未完のフィナーレの代わりに自作の「テ・デウム」を演奏してほしいと語ったのは有名な故事だ。
我々はこの作曲家が意図する意味をどれだけ理解しているのだろうか?

「(演奏会でテ・デウムを終楽章の代わりに演奏するのは)少なくとも適切な解決策であり、3つの楽章のトルソだけを演奏するよりも優れているように思える」

INTERVIEW WITH BENJAMIN-GUNNAR COHRSより
https://www.opusklassiek.nl/componisten/bruckner_symphony_9_finale.htm


これはとりもなおさずこの交響曲は3楽章で完結するのではないということではないか?


この交響曲を最初に編纂し校訂し改訂したレーヴェによって「最初の3つの楽章は芸術全体として完璧に機能することができた(1903年初版の序文)」が世に蔓延り、未完のフィナーレは「曖昧すぎて何を意図したのかを確認することはできない」というそれこそ曖昧な印象が罷り通ることになった。
こうして「崇高なまでに不完全な姿だがそれ自体は完璧な3楽章(J・A・フィリップス)」という神話が聴く者を束縛し、穏やかな「人生の別れ」で閉じる音楽だと信じ込ませた。

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