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クリスマス小説『きっと君は来ない』


『きっと君は来ない』


 正直、恋とか愛とかって下らないと思う。
 クリスマスって、そういうバカバカしい欲望をいやに美しく飾り立てただけのもんだろう。
 盗人の目をした巨大広告の微笑みのもと、何も知らないふりをしてはしゃぐ恋人たちが群れ歩いている。どんなに浮かれ騒いだって、その愛とかなんとかいうのものは春の雪より儚くて、遅かれ早かれ、思うより美しくなれない現実に気づかされて、失望するか、見ないふりを演じ続けるかを決めなくちゃいけないハメになるんだろう。
 そうだとしたって、そんなバカ騒ぎに、私だって一度くらいは無知のまま溺れてみたかった。

 もはや見ないふりを演じられなくなりそうな失望の苦さを、甘いだけのカフェラテで流し飲んでいる。
 スマホのメッセージの受信音にやりきれなくなって、大学寮の部屋を出て、あてもなく街に出たけど、クリスマスという日は孤独に容赦しないみたいだ。適当なコーヒーショップに入って寂しさを紛らわせようとしたのに、それは一人でいるよりマシになったのか、状況をこじらせているだけなのかわからない。
 待ち合わせて楽しそうにおしゃべりするカップルの脇を体をすぼめて横切って、できるだけ目立たない席を探した。照明の谷間、まるでその場の明るさの影を全て引き受けたみたいなところに、ひと席空いているのを見つけた。
 青緑色の大きな葉の植物のそばのその席に呼ばれるように座ってみると、外に面した大きなガラス窓からの冷気がニットワンピースの足元から入り込む。混雑のなかでここだけ見過ごされていた理由がわかったけど、店内のむっとした熱気にいるよりは快適だと思った。
 賑やかな話し声をイヤホンでかき消しながら、スマホに目を落とした。青白い光線が、目の奥をつんと刺す。どうせろくなものを映すもんじゃないとわかっているはずなのに、取り憑かれたように目が離せないのはなぜなんだろう。
 痛みを痛みでごまかすようなことばかりしている。メッセージアプリの通知に輝く、生々しい傷痕。いつまでも既読にならないでいるのは不審に思われるかもしれないと思って、恐る恐るタップする。
 サトミという三文字が、なぜか弱い電磁気を帯びて痺れるように現れた。
 ここにあるべきでない感情の説明を見つけるのが怖くて、何をどうしてもはまらないパズルのピースなら、いっそのこと何もかも放り出してしまいたかった。周りと同じように組み合わせていったはずのパズルが、気がつくとどうしてか、周りとは少しも似ない形になっていく。みんなで同じように笑っていたはずなのに、いつの間にか、一人だけ笑えなくなっている。

 サトミという文字に寄り添う、丸い窓の中の笑顔。
 テーマパークのお城の前で嬉しそうにポーズをとる、その写真を撮ってあげた日のことを覚えている。
 夏休みも終わりに近づいた頃だった。大学の入学式の時から、鈴の鳴るような高い声でカラカラとよく笑う子がいると思っていた。同じ学部、同じ寮だというので顔見知りではあったけど、正直、大勢の集まる飲み会で何度か一緒になって話したくらいで、サトミのことはよく知らなかった。寮の食堂で見かけると、いつも人懐こく話しかけてきてくれて、感じのいい子だと遠まきに見ていた。
 そんな彼女がひどく泣きながら、夜中に私の部屋にやってきたのは、帰省から寮に戻ったばかりのときだった。
 私もまたその泣き顔に動揺してしまって、ドアを開けたきり、言葉をかけるのも忘れたまま息を飲んだ。
 肩を震わせて泣いている姿はただごとではないと思えて、どうして私なんかのところにやって来たんだろうと困惑して、何があったの、と聞く声が少し掠れた。返事もなく泣くばかりなので仕方なく、部屋に入れることにした。ベッドに散らばっていた荷物をまとめてアップルグリーンの机によけて、彼女を座らせる場所を作った。
 私のことなんか忘れてしまったみたいに、サトミは泣き続けていた。前屈みになって、顔をおおっている。私は、その小さく丸まった体を抱えるようにして右腕を回して、背中を撫でた。周りからどう思われるかなんていうよりも、自分の悲しみにひたむきになっている彼女のローズレッドのパーカーが、ベッドサイドの明かりに照らされていた。その姿がなぜか、露の落ちる花のように見えた。
 苦しそうに大きく息を吸っては、何度か短く吐く息が涙で揺れる。そのたびに、華奢で丸い肩が心細く震えている。控えめに開かれた口からは、声にならない声が、すきま風の吹くように鳴って、私の耳にはくすぐったく聞こえた。ふっくらした手のひらから伸びるすっとした指が、涙をうけてわずかに光っている。今にも溶け落ちてしまいそうな、透き通るつららのような指を見ていると、いっそ口に含んでしまいたいという衝動が私の喉を鳴らした。ほんのり湿っている白い頬は見るからに柔らかそうで、そっと唇を押し付けてみたいと思った。
 妙な気配に気づいたのか、サトミは顔から少し手を離して、私を見た。そのうるんで不思議そうな目に見つめられると、訳もわからず胸の締め付けられる気がして、私は左手をぎゅっと握りしめた。
 同情よりも鮮やかな感情にびっくりして、どうしたの、と声に出して聞いたのは、サトミに対してか、自分に対してか、よくわからない。
 サトミは泣いているわけを聞かれたのだと思って、ため息をついて話し出した。
「彼にふられちゃったの、ほんと、ありえない」
 鼻声ではあるけど、はっきりした口ぶりだった。なんと声をかけるのが正しいのかわからなくて、そうなんだ、とだけ言った。
「浮気されてたの。それで、あの子だれ、って聞いたら、前から重い女だと思ってたから別れようって」
 ぱっちりした二重まぶたがまばたくと、また涙が落ちる。
「あの子、私たちが付き合ってるって、知ってたはずなのに。私、全然知らないで、この前も、一緒のゼミの帰りに、ご飯に行ったりして」
 サトミは、合間にしゃくりあげつつも、怒りと悔しさのにじむ声で切れ切れに話した。
「ひどい。何を考えてるんだろう。ヒトの彼氏を横取りするなんて、最低だね」
 顔をしかめてそう言うと、彼女は嬉しそうに口元をゆるめた。
「そうでしょ? あんな子のどこがいいのか、私、全然理解できない」
 吐き捨てるように言って、またため息をつく。
「男が一回や二回、浮気するなんて当然なんだって。信じられない」
「そんなやつなら、早めに別れられてよかったよ」
 そう言って肩をなでると、サトミはうなだれて首を振った。
「それでね。実はお願いがあるの。彼と行くはずだった遊園地のチケットが明日なの。せっかく買ったのに、捨てられなくて、1人じゃ行けないし、一緒に行ってくれないかなって。みんな夏休みでいないから、お願いできるのフユキちゃんしかいなくて。それだけ頼みにきたつもりだったんだけど、急に情けなくなってきちゃって泣いちゃった。ごめんね」
 夕立の通り過ぎるようにして、赤い目をしたサトミは微笑んで私を見た。その悲しみを隠すような顔に何かしてあげたくなって、彼女をカラオケに誘うことにした。叫んで歌って、嫌なことは全部忘れちゃおう、と明るく言うと、サトミは喜んで、きゃらきゃらと笑った。
 二人して朝方までカラオケをした後、そのまま寝ずにテーマパークに行って撮ったのが、あの写真だった。あのときは寝不足のせいでお互い変に神経が高ぶっていて、どうでもいいことをいちいち大げさにおかしがって笑い合ったことを覚えている。
 写真の中の笑顔は、この前日に彼女が振られて泣いていたことも、その後、夜通し歌い続けて枯れた声のことも黙っている。 
 それ以来サトミとは特別に仲良くなって、よく遊びに出掛けるようになった。そのたびに、どこかうまく言えない気持ちが積み重なっていったけど、彼女が私を見て笑ってくれる嬉しさを手放すのが怖くて気づかないふりをした。そして、私と一緒にいる間は、彼女はどの男の元へも行かないんだと思うと、ずっとこのままであってほしいと願った。
 フユキは好きな人とかいないの、とサトミに聞かれた時の気持ちをなんと言えばいいんだろう。
 いないってわけじゃないけど、と濁った言葉の下に沈めた、言って表すのは恐ろしいような気持ち。
 気づいたら、あるべきレールから外れたところを歩いている自分をどうにか認めないでいたかった。
 きっと気の迷いに違いないと思う。サトミに対する気持ちは、ちょっと行き過ぎた友情みたいなものだろう。ふとした彼女の髪の香りに胸が騒ぐ気がするのも、軽くすぼめて突き出す癖のある唇はどんな感触だろうと考えそうになるのも。あの目に見つめられると吸い込まれそうになって言葉を失うのを、何度か彼女に笑われたことがある。誰かが彼女に近づくたびに、なんとなく落ち着かない気分になった。あの太陽のような無邪気さを、自分だけのものにしてしまいたい、なんて。
『これからあの人に告白してくるね、振られちゃったらまた慰めて。』
 サトミからのメッセージが温度を失って光って、私の顔を照らしている。最近、彼女はバイト先の先輩のことばかり話していた。持ち前の明るさで気に入られたようで、はたで聞いていても、脈ありだと思えた。そうやって彼女がどんどんきれいになっていく様子を、どこかぎこちない気持ちで見ていた。一緒に服を買いに行って、似合うかどうか聞かれた時も、どうだろう、としか言えない自分が嫌だった。
 こんな気持ちを持つことは、彼女を裏切ることなのかもしれない。それなのに、もう見ないふりができなくなりそうだった。ただの友達だったなら、どうして私はこんなにも傷ついてしまっているんだろう。私のものだと思っていたのに、なんていうのは、あまりに勝手すぎる。友達と呼ぶにはもどかしい気持ちがやり場もなく胸をきしませる。もしも私が女じゃなかったら。
 うまく説明ができないし、説明をつけるのも怖い。わかりやすいショーウィンドウに並んでいるもののどれひとつ、自分のものにはならないかもしれないなんて。
「ねぇねぇ、これからどうしようか?」
 隣のカップルの女性の話し声が耳に入った。嬉しそうな声がなんだか心をざわめかせる。これからどうするなんて、きっと聞くまでもないことなんだろうに。
 あのカップルがこれから過ごす時間のことを考えると、私はずっとこうして一人でいるしかないように思えるのが腹立たしくて、勢いのままに席を立った。まるで誰か待ち合わせている人がそこまできたとでもいうみたいに。
 飲みかけのカフェオレの入った赤いマグカップを食器の下げ口に置いて、私はコーヒーショップを出た。カフェインの香りが私を冷たい外へ押し出す。

 どこか地に足のつかない街中では、いつもより男女のペアが目につく。街路樹は綺麗にイルミネーションされていて、夜を明るくしている。通りすがるショーウィンドウは正しい幸せの形を見せびらかしているように思えた。
 赤信号で立ち止まると、制服姿のカップルが指を絡めて手をつなでいるのが目に入って、高校の時のことを思い出した。

 仲良しグループのうちの一人に彼氏ができたとき、その友人がどうも私に気があるらしいということで、彼女が仲を取り持ってくれた。すごくいい人だから、絶対に後悔はしないから、と言い募られて、私も別に嫌いというわけじゃないということで、付き合うことになった。さっそくダブルデートだと四人で遊びに行くことになって、結局、彼女の目論見はそこにあったのかと思ったけど、二人きりにされるよりは気が楽なような気がした。
 何かが変だと思ったのは、彼がさりげなく私の手をつなごうとしたときだった。骨張った手と汗ばんだ感触に反射的に嫌悪を感じて、手を振り払ってしまった。
 彼のことが嫌いなわけではなかった。友人の言う通り、よく気が回る優しい人だったし、丁寧に梳かして整えた髪に、制服のシャツはいつもぴんとしていて、清潔感もあった。見かけも悪い方ではなかったと思う。それなのにどうしても、自分が彼にそういう対象として映っているということが受け入れられなかった。
 彼が何か話しかけて、嬉しそうに見つめてくるたび、いいやつだとは思っても、その目に映っているのは本当の自分じゃないような確信だけがいたずらに深まっていった。たまたま彼が自分に合わなかっただけかもしれない。恋愛って思うより難しいものだな、と、なんとも言えない違和感をなだめた。
 そこから1ヶ月も持たずに、彼の方から別れを告げられた。学校の階段の影に私を呼び出して、こういうことは直接に話したほうがいいと思って、と言った彼は、確かに誠実で真面目ないいやつだった。泣きそうにゆがんでいた顔を思い出す。
 内心、ほっとしていた。自分の半端な決断で傷つけてしまったことは悪いと思いつつも、とにかくこの関係を終わりにできて、なんだかよかったと思ってしまった。そうだね、と沈んだ声を演じつつ、ごめんね、と口先でしか言えない自分は冷たい人間なのかもしれなかった。
 あとで友人に、タイプじゃなかったの、と聞かれて、なにも答えられなかった。タイプじゃないとかいうことでもないような気がしたけど、ただ自分は恋愛に向いていなかっただけだと言い聞かせた。いつか自分のタイプという男性が現れれば、このおかしな違和感を拭い去ってくれるのかもしれない。
 好きな男性のタイプといった話題になると、ガラス一枚隔たった違う世界の話を聞いているような気分だった。そうやって話に加わらないでいる様子が達観しているように見えたのか、恋の相談をよく受けた。実のところ何もわかっていなかったけど、私の言うことは的を得ていると喜ばれた。彼女たちが話題にする男の子たちに漠然とした妬ましさを感じながら、彼女たちが頬を赤らめて、輝くように目をうるませているのがきれいだと思った。その目を私にも向けてくれたら、なんて想像が走りかける。

 信号が緑になり、人波が進む。流されるままに歩いていくと、中央にクリスマスツリーのある広場についた。待ち合わせの人でごった返している。それぞれがスマホに目を落として、周りのことなど構っていないのが、私にぴったりだと思って、空いていたベンチに腰掛けた。
 待ち人が来る人も来ない人もいる。新たにやってくる人も、どこかへ去っていく人も。うねるように人をさらっていく流れの中で、私一人だけなぜかうまくさらわれていくことができなかった。目の前にあるのに触れられないものが、次々と通り過ぎていく。
 見るともなく見ていた男性が不意にこちらに気付いて微笑んだ。高校のときの、例の彼に似ていた。横にいた女性が彼の腕を引き、すねたような声を出した。なに見てるの、と甘えるようにもたれかかるのを、彼はどこか嬉しそうにして謝る。
 私は苦笑いで目をそらした。周りからはごく普通に誰かを待っているように見えているんだと思うと、気休めにも心が安らいだ。
 バーガンディのピンヒールブーツを履いた女性が前を通り過ぎていく。自分のカーキ色のコートの袖の上に白い雪の結晶を見つけて、雪が降り出したことを知った。
 


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