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読めなかった物語のつづき

昨日、とある漫画を電子書籍で買った。

大好きだった漫画。でもなぜか、最終巻まで読んでいない漫画だ。

小さいころのわたしにとって、漫画は高級品だったので、はじめて漫画の単行本を買ったのも中学1年生のとき、とまぁまぁ遅かった。

それまで漫画雑誌で1話ずつしか読めなかったお話が、1冊400円ほどの小さな冊子のなかにまとまっているのは何だか不思議な感覚で、同じ話を何度も何度も読み返していたのを覚えている。

中学1年生が終わるころ、父親の転勤で渡米が決まったのでわたしは思い切って漫画を10巻大人買いし、それを一緒に持っていった。

アメリカの家は、真っ白で、無駄に大きくて、無駄に広かった。

はじめて当てがわれた自分だけの部屋には、勉強机とマットレスと本棚しかない。

それだけが置いてあるだだっ広い空間で、わたしは何度もその漫画を広げた。

はじめて出かけたスーパーで見つけたキットカットは、日本のキットカットに比べるとチョコレートがピカピカとしておらず、少しくすんでいて、それでいて喉にくるような甘さだった。

それをちびちびとかじりながら、今自分の身に起こっていることについてあれこれ考えた。

漫画の主人公は変わらずに戦い続けているけど、それを見ているわたしの状況は一変した。

なんでだろう。どうしてわたしはここにいるんだろう。

知らない言葉と知らない景色とまずいチョコレート。

日本から持ち帰ってきたその漫画が、日本とわたしをつなぐ唯一の媒介のような気がした。

それから1週間が経って、わたしはアメリカの中学校に通うことになった。

中学校というより、何だか公園みたいな学校だった。

初日のくせに、雨が降っていた気がする。さらにストレスでものもらいにもなり、わたしは電子辞書で「ものもらい」を英語で何と言うか、車のなかで必死に調べた。突っ込まれたら説明できるようにしなくちゃなぁと思いながら。

幸い、日本人が何人かいる学校だったので、初日から助けてもらって時間割を組み、何とかやり過ごした。

初日のことは、永遠に忘れないと思う。

大学のように、好きな授業を取って、教室を移動していくスタイルなので、「ぜんぶのクラスで友だちを作らなくちゃ」と必死で、日本語がわかる子を見つけては救いを求めて、何度も自己紹介をした。

そのなかで、「日本人だけど日本に住んだことのない」子と出会った。

その子は漫画やアニメが好きだったので、漫画の貸し借りをするようになった。

そこでわたしが差し出したのが、あの日本から持ってきた漫画だった。

その漫画は、16巻完結なのに、なぜかわたしは10巻までしか持っていなくて、未だにその先を知らずにいる。

昨日、本当に久しぶりに開いてみたら、あのころの記憶が鮮明に蘇ってきた。

変わらない絵柄をさすり、自分の頬をさすってみる。

わたしは何か変わったんだろうか。

自分のなかで、アメリカにいたころは「黒歴史」だと思い込んでいたはずなのに、今触れてみるとあたたかくて、写真のなかのわたしは笑っている。

あのころ、「いつか、このしんどい日々が大切な日々になりますように」と、ブログを書きはじめて、そこからずっと毎日文章を書き続けている。

やっと、認めることができるようになったのかもしれない。

両親に「連れていかれた」と思い込んでいた中高時代のアメリカでの日々は、間違いなく今の自分を形作ったということ。

それは苦しいことばかりじゃなく、たしかに楽しい瞬間もあったのだということ。

読んだことのない漫画の続きを、今から読もうとしている。

将来、またわたしはこの土地を訪れるような気がしている。



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