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【後編】自分のことは、もっと大切にできた―オンラインで身を置く場所を考える

自分が日々をゴキゲンに生きるために、オンラインの居心地を良くする取り組みの記録、後編です。前編はこちら↓

私は、素敵な文章と出会った日には心が躍り、新しい知の世界に足を踏み入れる喜びを感じるし、自分が納得できる文章を書けた日は、心が満たされて安眠できる。昔から言葉を紡ぐことはすきだった。でもこれほどに大事なことだと気づけたのは、わりと最近のことだ。

とりあえず身を置いてみる

オンラインで身を置く場所を考える、といっても私はそのハウツーを持っていないし、相談先も知らない(そういうコンサルサービスもありそうだけどね…)。少しでも興味をそそられるサービス、なんか自分に合いそう?と思うサービスを使ってみて自分の感覚を確かめてみることが、私にとっては一番の近道だった。ノリでSNSに登録できた学生時代の感覚は失われ、新しいサービスを使い始めるのはわりと億劫だったけれど…。
そこで、文章を書くのがすきな私が手を出してみたのがnoteだった。この2-3ヶ月いくつか投稿してみて、私のしたい文章表現にはある程度の長さ(文量)と"セミ・パーソナルスペース"みたいなものが必要だ、という仮説ができた。

"セミ・パーソナルスペース"を守ること

オフラインでは、他者のパーソナルスペースには安易に入り込まないのがマナー。人との距離が近すぎる人って怖いよね。しかしオンラインになった途端にガンガン土足で踏み込む人の多いこと…。インターネット黎明期の2ch文化を引きずっているのだろうか。あまり使いたくない言葉だけれども「時代遅れ」としかいいようがない。匿名かどうかはあまり関係ない。

パーソナルスペース(英: personal-space)とは、
他人に近付かれると不快に感じる空間のことで、パーソナルエリア、個体距離、対人距離とも呼ばれる。一般に女性よりも男性の方がこの空間は広いとされているが、社会文化や民族、個人の性格やその相手によっても差がある。(Wikipedia:「パーソナルスペース」の項目から引用

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私の体感では、Twitterの世界はみんなの文章が常にタイムライン(他者からの絶え間ない視線と接触の機会)に接していて、パーソナルスペースが一切確保されていないような状態。オフラインの場に例えると、どんな人とも至近距離でいなきゃいけなくて何かあったらすぐトラブルになりそうな満員電車みたいな感じ。逆にブログや個人のWEBサイトなんかは、誰かがわざわざ見に来てくれないかぎり他者に接することがないので、そこそこの固定ファンがいない限り、上の図で言うところのソーシャルスペースにすら人がいない。オフラインでいうと、平日の小さなライブハウスみたいな感じ(普段行かない人にはわからないか)。

"セミ・パーソナルスペース"とは完全に私の造語で、適切な言葉かどうかはまだあやしいのだけど、今の文脈での意味合いとしては「他者に接してはいたいけど、不用意に近づかれたら不快に感じる空間」みたいな感じ。
私がnoteを使っていて感じたのは、それぞれのユーザーが距離を保ちつつも近くで見てくれる人もいるような、"セミ・パーソナルスペース"が確保されたサービスだなあということだった。タイムラインでは全文が読めないから興味を持った人だけが詳細まで見に来てくれる。タグがわりとしっかり機能していて、外部サービスでのシェアもしやすく、誰も見てくれない孤独を感じることもない。基本のリアクションが「スキ!」のみで、会員登録していなくても「スキ!」ができる。それが自分にとってはなんだか心地良い感じがした。オフラインの場で例えるなら…元々ファンじゃなくてもふらっとステージを観に来てくれたり、その場で好きになってCDを買ってくれたり、いろんな音が空間で少しずつ混ざり合っていながらも独立しているような、野外フェスみたいな感じかな。

Instagramは?

InstagramはTwitterのようなストレスを感じることはないものの、自分が定住するような場所じゃないかなという感じ。文章表現をメインにしたい人の場ではないよな。私びっくりするほど写真撮らないし……普通撮るだろって場面ですら撮らないし……そもそも写真を撮るのが世界で一番下手だ。それに絵も描かない。Instagramで自分が楽しく表現できている姿が思い描けない。

例えば小沢健二さんはこんな風にアートワークにしてテキストを載せている。過去に私も同じようなやり方を考えたこともあったけれど、やっぱりこれは"あの"オザケンだからこそ、魅力的に見えるものなのかな~と思う。私は文章表現そのものを楽しみたいし、否応なしにタイムラインで全文が目に入ってくるTwitterよりはマシだけれども、"セミ・パーソナルスペース"を確保できている感じもない。でもフォントや色合いで人の興味を引く工夫ができるのはおもしろいなと思う。

Facebookは?

Facebookはオフラインの人間関係との結びつきが強くオープンでもないので、私のタイムラインを見ているかぎり、あらゆる人にとって結婚・出産や転職、転居などの近況報告の場になっている。そこで渾身の文章表現をしたところで、久々に再会したらいきなり「君は生と死にどう向き合う?」みたいな壮大な話題を振ってくる不可解な人になるだけなので、私も折々の近況報告だけに使っていくだろうな。"セミ・パーソナルスペース"以前の問題という感じ。

noteもオアシスではない

今後しばらくはnoteをメインに、文章表現とそれを介した社会との交わりを楽しんで行こうと思っているものの、マガジンやサークル、投稿を販売するビジネス寄りの機能などはまだまったく使っていないので、この先使い続けていくことで新たなストレスが生まれてくることは超ありうる。
もちろん、オフラインと同様にオンラインのどんな居場所にもストレスはつきもので、すべてのストレスから解放されるオアシスは存在しないと思うけれども、各サービスの使い方や使うときの心構えを自分のなかに少し持っておくことでちょっと毎日をゴキゲンに過ごせるかもしれない。

自分にとって大切なことを知る

私はnoteを使ってみることで、自分にとっては"セミ・パーソナルスペース"が大事なんじゃないか?という仮説を立てて、それを中心に他のサービスに対する自分のスタンスを見つめ直すことができた。この仮説は今後新しい仮説に塗り替えられるかもしれないし、それでいい。その時々の自分にとって大切なことを知り、それを守ってあげたいなと思う。

人が「何かを表現したい」と思う気持ちって本当に素敵なことだな~と私は思っていて、それがどんな形のどんな内容であっても、誰かを意図的に傷つける目的のものでないかぎり、価値があるものだと思う。表現を受けとる側にとってもそうだけれども、なにより表現する本人にとって、表現することそれ自体に価値がある。オンラインには発信できる場所がたくさんあるから、自分にあった場所を見つけて表現することを、これからも楽しみながら続けていきたい。

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