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やきいも恋ものがたり

やきいもに恋をした。

心を奪われたその日からすっかりやきいもに夢中だ。
甘くておいしくてしあわせにしてくれるやきいも。

むかしはちっとも興味がなかった。
パサパサ、もそもそ、地味。
何ひとつとしていいイメージを持ってなかった。

去年の春ごろのこと。
いつも行くスーパーのやきいも売り場を通りかかると
焼きたてを知らせるメロディが鳴っていた。

やさしくて甘い香りが漂って、こっちにおいでと手招きしている。
近づくごとにその香りは強くなる。

ほぼ毎日行くスーパーの見慣れた風景で目新しいことはなかったはず。
なぜかその日わたしは焼きたてのやきいもを一本手に取っていた。

まだ寒さの残る春の夕方、やきいもはわたしの手をじんわりと温めてくれた。
想像していたよりもずっしりと重く、また柔らかい感触が包み紙越しに伝わってきた。

やきいもはスーパーであたりまえに買うことができる。
最近ではコンビニでも見かけるようになった。
やきいも専門店も珍しくない。

いつもみていた。やきいもの存在は知っていたはずだった。

あの春の日ただ運命に導かれるようにして
ホカホカ焼きたてのやきいもを買ったのだ。

家に帰るなり包み紙からやきいもを取り出してまじまじと観察する。
やきいもを最後に買ったのはいつだっただろうか。思い出せない。
あるいは買ったことがないのかも知れない。

香ばしく焼けた皮の匂いにお腹がきゅるきゅると音を立てている。
味までしてきそうなほどの甘やかな香りに正気を失いそうだ。

わたしは踊らされているのだろうか。
これもやきいものシナリオのうちなのだろうか。
期待と不安が一気に押し寄せてくる。

しっとりと水分を含むやきいもの皮。それは紫色のビロードのようだった。
ところどころに蜜がジュエリーのような輝きを放っている。
さつまいものどこかやぼったい印象からは想像ができないほどの上品ないでたちだ。

まだほんのりと温かさの残るやきいもを手に取る。
紫色のビロードの幕を開けてみると目に眩しいほどの黄金色が姿を現した。
やきいもの中身はしっとりと輝いて強烈に食欲を刺激したのだった。

舌でやさしく押しつぶせるほどのなめらかな食感。
砂糖を使っていないことが信じされないほどの甘さ。

鼻から抜けていく芳醇な香り。
思わずうっとりと目を閉じて永遠にこの味わいに身を任せていたくなる。

例えばケーキを食べたときに心から満たされるあの幸福感。それがやきいもからもたらされている事実に脳の処理が追いつかない。
やきいも、うまい。うますぎる…。
語彙力が失われるほどの衝撃だった。

夢中でやきいもを食べ終わったあと満腹とともにどこか背徳をも感じていた。やきいもの味を知ったわたしはもう戻れない場所にいるのだと。

やきいもとの邂逅を果たした今では世の中の多くの人たちを虜にしている理由がわかるような気がする。

思い返すのはスーパーで焼きたてのあのメロディが流れた瞬間の光景だ。
すばやく踵を返しやきいも売り場に向かうマダムがいた。
彼女の気持ちが今のわたしならよくわかる。
同じ状況に陥った時、きっとわたしもマダムと同じ行動をとるだろう。

奇跡の出会いを果たしてからどれくらいの月日が流れただろう。
「さつまいもは野菜」という身分も忘れてしまうほどに夢中だ。

やきいもとして無条件に愛されるさつまいも。
きっと世界中の野菜たちが嫉妬していることだろう。

野菜だけではない。世界中のあらゆる果物もそうだ。
甘さという点で地位が脅かされていることに危機感を抱いているはずだ。

老若男女あらゆる人々を魅了してやまないやきいもが羨望の的になるのはもはや必然のことのように思う。

さつまいもにはたくさんの品種がある。
スーパーによっても扱っているやきいもが違い、価格も違う。

甘くてねっとり系の紅はるか、シルクスイート。
スーパーでもよく見かけるメジャーな品種だ。

安納芋は種子島特産のさつまいもで甘味が強くて濃厚な味が特徴。
ほくほく系には紅あずま、鳴門金時、黄金千貫といくつもの種類がある。

そのほかパープルスイートロード、アヤムラサキ、ムラサキホマレと紫いもだけでも豊富なラインナップだ。

想像以上にやきいもは奥深く、知るほどに罪深い存在だ。

いろいろな種類のやきいもを食べてみたいと思う。
やきいものことをもっと知りたいと思う。

そう、これが恋なんだと思う。

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