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日本最古の地方紙が手本に⁉「郵便報知新聞」の歴史をたどる

「スポーツ報知」は、今やスポーツ紙として日刊スポーツ、スポーツニッポンと同じく全国で知られている。前身の「郵便報知新聞」は、出来て間もない郵便を使って全国から情報を集め、さらに日本最古の地方紙が創刊の際の手本にされていたのはご存じだろうか。そんな報知新聞社が2022年6月10日で創刊150年を迎えた。文明開化が盛り上がる最中にできた「郵便報知新聞」の歴史と最古の地方紙の関連をたどる。

郵便報知新聞とは

   郵便報知新聞は郵便制度の父といわれる前島密氏が創刊にかかわり、日本橋横山町で和泉屋という書籍商を営んでいた太田金右衛門を発行人として1872年6月に創刊した。この時期には活版印刷は日本初の日刊紙「横浜毎日新聞」で始まっていたが流通は未熟だったため、木版印刷による9枚つづりの小冊子で月5回発行を始めた。記事の情報は前年に郵便制度が開始したため、駅逓寮(郵便制度における役所)の駅逓頭に就任していた前島氏の発案で全国の郵便局に依頼して情報を集めた。

郵便報知新聞創刊の地である日本橋横山町
セブンイレブン日本橋横山町店が創刊の地と考えられる

創刊から現在までの略年表

報知新聞の略年表

 1873年に活版印刷による日刊紙の発行を開始。1878年に大蔵卿を歴任した大隈重信氏が郵便報知新聞と連携し、立憲改進党発足後は政党機関紙となる。明治中後期、本社を現在の銀座6丁目付近に移転、1897年には社会部の前身にあたる「探偵部」が発足。大正に入り、現在の箱根駅伝の前身にあたる「東京-箱根間往復大学専門学校対抗駅伝競走」が始まった。昭和に入り、戦時下における新聞統制令によって読売新聞と合併し、題名が「読売報知」と改称する。戦後読売新聞から離れて夕刊紙「新報知」として復刊するも、再び読売新聞の傘下に入る。1949年の12月30日付の朝刊からスポーツ紙として現在まで発行している。

日本最古の地方紙の手本になったとは?

   郵便報知新聞が日本最古の地方紙「峡中新聞」の創刊における手本になったのはご存じだろうか。流れをくむ山梨日日新聞も2022年7月1日をもって創刊150年を迎える。峡中新聞について知りたい方は、以前書いた記事を参考にしていただきたい。

この2つの新聞社の関連性がないとは言い難い。なぜなら、峡中新聞の発行人であった内藤伝右衛門と郵便報知新聞の太田金右衛門は書籍商を営んでおり、絵草紙という絵入りの娯楽本を売る絵草紙屋仲間で互いに以前から知っていた。当時、明治政府の新聞発刊の推進に応えるため、山梨県では県内の情報を集め記事にする計画をしていた。新聞発行を任された内藤氏は、太田氏のもとを訪ね相談をしている。郵便報知新聞と同じ小冊子スタイルで発行することに決め、1872年7月1日に創刊し定価も同じく3銭で販売した。峡中新聞が横浜毎日新聞や東京日日新聞のように1枚ではなく、小冊子で始めたのは内藤、太田両氏が以前から知り合いだったからだと推察できる。峡中新聞の第5号には、販売所を指す「売弘所(うりひろめどころ)」に太田(和泉屋)金右衛門の名前と住所が記載されている。

最後に

   2022年6月10日、報知新聞社は創刊した日本橋横山町に近い両国に移転した。この日の1面には読売巨人軍の坂本勇人選手が40日ぶりに1軍復帰し、通算174回目の猛打賞の活躍で対戦対手の西武ライオンズに勝利した記事を全面に使い、150周年を振り返る記事などスポーツ紙らしい華やかな紙面構成で伝えていた。ここからでは、以前は読売新聞のような紙面構成を行っていたとは誰も思っていないだろう。
峡中新聞が郵便報知新聞とのつながりがあったと知るきっかけは、2月の記事執筆で峡中新聞の紙面を読んでからである。つながりがあった事実を載せていたのは少なく、両紙ともに創刊150周年であること、多くの人に知ってもらいたいことから記事の執筆を始めた。今回の記事は、断片的でさらに研究する必要があると考える。今回の記事でメディア史とりわけ明治期における新聞研究の深化になれば幸いである。

参考文献

・春原昭彦,『日本新聞通史』,四訂版第1刷, 新泉社, 2003年
谷口彩子(1998)「『経済小学 家庭要旨』の刊行事情と内藤伝右衛門」,『日本家政学会誌』Vol.50, p.73-74, 日本家政学会
・報知新聞社ホームページ https://www.hochi.co.jp/gaiyo/history/ 
・渋沢社史データベース https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=15250 


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