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この愛の対価

 『ある愛の詩』という半世紀ほど前に製作された古い映画に

「愛とは、決して後悔しないこと」

という名台詞がある。私は偏屈だし後悔は何にでも付き物だと思っているので、あまりこのフレーズを信用していないし、そもそも愛について真正面から語るのもあまり好きではない。それでも今回は愛について本気出して考えてみたいと思う。

 さて、愛をめぐってもう一つ、私が信用ならないと思っている言葉に「無償の愛」というのがある。大変美しく、けれど私が好きではない言葉だ。美しいからではない。その美しさゆえ、人を孤立に追い込むこともある言葉だからだ。

 無償の愛。母性愛や父性愛、家族愛などを賞賛する時に用いられやすいように思う。しかし、それは本当に無償なのだろうか。辞書を引いてみると「無償」とは

「 報酬のないこと。また、報酬を求めないこと」

とある。報酬を求めない愛。なんと美しい。

 ついでにいえば、無償の愛=報酬を求めず無尽蔵かつ無期限に湧き出る愛、と期待されているような気もする。

しかしそんなものは本当にあるのだろうか?

 私は家族や周囲の人たちを愛している。しかしその愛は私の命が尽きるまでの期限付きだし、見返りとして、彼らには幸せになってほしい。これだけ愛を注いだのだから、是が非でも彼らには彼らなりの幸せを掴んでくれないと私は大変不幸せだ。彼らが幸せになるその時その場に私がいてもいなくても、彼らには彼らの幸せを享受してほしい。

 これはどう考えても無償ではない。私の愛には対価が欲しい。但しその対価は、愛した人たちの幸せだ。私の伴侶や子どもたちだけでなく深く関わった人たち全て、もれなく幸せになってほしい。

 繰り返すが、この愛はどう考えても無償ではない。有期限で有償の貸し付け、あるいは投資と言ってもいいかもしれない。

 しかし愛が有償で何が悪いのだろう。愛に対価を求めて何が悪いのだろう。多くの親は、子どもの幸せを願いながら親になっていく。子どもの幸せが親への対価だ。

 ここで一つ断っておくと、愛しているから/愛しているならこうしてほしい、と愛(のようなもの)を理由に他者を動かそうとする行動を正当化するつもりは毛頭ない。愛を理由に何かを迫るのはすでにその時点で私の思う愛ではない。

 さらに言えば、わかることと許すことと愛することは全部違う。愛しているならわかるはず、愛しているなら許せるはず、と、全く違うことをセットにして求めるのも何か違う。

 話を戻そう。親になるとその営みの自己犠牲的な側面ばかりが注目されやすいような気がする。世間(のようなもの)から

「子を持つことを選択したならそのくらい我慢せえ」

的な言われようをすることもまだまだある。安全なところから他者に犠牲を強いることは簡単で、けれど危険なことだ。強いられた方は容易に孤立する。

 自分の幸せを犠牲にすることが愛の証ではない。親の愛は必ずしも犠牲ばかりを伴うものではないはずだ。愛にだってリターンはあって良い。いやあって欲しいとすら思う。

 親から子への愛は無償ではない。気が遠くなるほど長期の、しかもそれを貸したとしても、自分の求めるものが自分の求める形で自分に返ってくるかはわからないような、ギャンブルのような。しかし愛された子は、いつか誰かにそれを貸す。私が、あなたが、そうしたように。

延々と続く愛の貸し付け。

それでいいのではないだろうか。親だって報酬がなければ耐えられない時もある。誰かに自分の行為を認められたいこともある。そう思うことは当たり前だ。報酬なしでは人は動けない。だから私は今日も電車の中で行き合った赤ちゃん連れのママさんに声を掛ける。「可愛いですね」「夜勤お疲れ様です」と。それが果たしてその人の報酬になっているかどうかは分からないけれども。

 そうやって、長くて短い貸し付け期間を色々な人と共に過ごせる社会であってほしいと思う今日である。

                  (文責:C.N)


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