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正しいこと、本当のこと

 心理職として未熟者ではあるが駆け出しとは言えなくなってきた年頃だが、今の私には駆け出しの頃よりももしかしたら深い悩みがあるかもしれない、とふと思う。

 それは「正しさ」と「ほんとう」についてである。そこで二人に聞いてみたいと思う。
 

 あなたにとって「正しい」とはどういうことだろうか。
 
 あなたは「正しい」だろうか?
 

 私にとって「正しさ」は相対的だ。もちろん、カウンセリングにはどういった療法においても原理原則、プリンシパルと言えるものがあるし、それ以前の道義的・倫理的正しさというものはあって当然のことである。

 それらはもちろん省くとして、私の中には絶対的な正しさというものはあまり存在しない。その代わり、さまざまな正しさがある。この歳になるまで心理職をやってきて、それは何事かと思うひともいるかもしれない。いやいや、私だって駆け出しの頃はとても正しかったのだ。多分。

 この職に就いた頃、私は傲慢にも、自分の仕事はクライエント共に答えを、それも正答を探り当てることだと思っていた。しかし今は思う。それはおそらく間違いだ。

 心理職としてさまざまな人と出会い、聞き、話しているうちに、一つ一つの面接が小さな旅のようなものに感じられるようになった。正しい旅も正しくない旅もないのと同じように、正しい出会いも正しくない出会いもない。
人によって短かったり長かったりするカウンセリング期間の中で、クライエントにとっての辛いことが辛かったことになり、悲しみが悲しかった思い出になる。その証人として傍でみている私にも、クライエントが置かれた環境や状況に怒りや悲しみを覚えることも、安心することも逆にショックなこともあった。

 そうこうしているうちにふと、カウンセリングとは答えを見つけることが目的なのではなく、カウンセリングそのものが手段であり目的なのではないかと思うようになった。

 旅がそうであるように。

 もう一つ、私が正しさを避けるようになったのは「正しさ」には言語化されない「罪」や「罰」が付きまとうからだ。そこにある辛さや苦しさは、誰の罪でも罰でもない。それらを誰かや何かのせいにできればとても楽だし簡単である。けれどそうもいかないのが人生なのだ。

  
 そして正しさと同様に、私が積極的には追い求めなくなったもう一つが「ほんとう」である。私は長らく宮沢賢治が大好きで、特に「銀河鉄道の夜」には幼い頃いたく感動し、今でもすぐに手に届くところに文庫本が置いてある(ちなみにその文庫本ももう3冊目くらいにはなる。持ち歩いてボロボロになるので買い替えている)。

 その中の一節に、以下の有名なものがある。
 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」
カムパネルラがぼんやり云いました。

「銀河鉄道の夜」宮沢賢治


 
 初めてこの物語を通読した時の私には、何故か直感的に彼らが求める「ほんとうのさいわい」がどういったものか腑に落ちたのを鮮明に覚えている。そしてこの作者もそれを知っているはずだと確信していた。

 しかし今となってはそれが全くわからない。わからないというか、わからなくしたと言うべきか。その頃よりも少しだけ経験値を積んだ私は、人によって「ほんとう」が違うことを知っている。

 真実はいつも一つ、ではないのだよ、天才少年探偵くん。客観的事実はいつも一つ、と言い換えたまえよ。と言いたい程度には。

 「本当のこと」はとても美しく魅力的だ。だからこそみんなが探し求めるのだろうと思う。しかし美しさの基準は時代や文化や人によって容易く変わる。変わりやすいものをしつこく追っても触れた側から変わっていくのではないだろうか。だとすれば美しいものに囚われ求め続けていくよりも、視界に入れておくくらいの気やすさで良いのではないかと思うに至った。
 
 それにしても改めて読み返してみると、銀河鉄道の夜の中には「ほんとう」という言葉がとても多い。しかし最後の最後に賢治はジョバンニとカムパネルラに「ほんとうのさいわい」は「わからない」と言わせているあたり、やはり賢治は「ほんとうのこと」を知っていたのではないかと思うのだが、どうだろうか。
                   (C.N)

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