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【短編小説】32年目のギフト


梅雨が明けたばかりの夏の初め。
今日は父の33回忌。32年前、会社に向かう途中、青信号の交差点を渡っていた父は、十代の青年が運転する車にはねられ35年の短い人生を終えた。私が7歳の時だった。
あれから32年、私は大人になり結婚をし、家庭を持ち穏やかに暮らしている。

私は黒のワンピースに着替え、髪を後ろに束ねながら父のことを思い出していた。父は細身の長身で、イケメンとまではいかないけれど優しい面立ちの人だった。
バイク好きの父は、週末になるといつも自慢の愛車を玄関先に停め手入れをした。洗車をし、ワックスをムラの無いように丁寧に塗っていく。
そして手入れが終わると父は、小さかった私を抱き上げバイクに座らせた。そして自分も私の後ろにまたがると、ハンドルを握る私の手に手を重ね、走る真似をして私を喜ばせた。
大きくて、堅く冷たいバイクの感触と、父の温かい手のぬくもりは今でも私の記憶の中に残っている。

私の家は、毎年花火大会が行われる河川敷のすぐそばにあった。
私は、ぴんと糊の効いた朝顔柄の浴衣を着せてもらい、腰には絞り模様の入ったピンクの兵児帯。そして下駄の赤い鼻緒には、歩くと可愛らしい音がする小さな鈴が付いている。私はチリンチリンとその鈴が鳴るのが楽しくて、履き慣れない下駄でぴょんぴょんと跳ね回った。はしゃぎ回る私の腰でピンクの帯がしゃらしゃらと揺れている。
そしてごった返す人混みの中、甚平姿の父に肩車をされ頭上に浮かぶ巨大な花火を見上げた。ヒュー、ドーン、パラパラパラ。体の芯まで響く大きな音を立て、赤や黄や青の火花が勢いよく空いっぱいに広がっては散っていく。鼻につんと染みる火薬の匂いを辺りに残して。

「美桜、花火すごいね。綺麗だね」

父が何度もそう言った。その隣には髪をアップにし浴衣姿の笑顔の母。昼の暑さも少し和らぎ、川風が心地良い夏の夜だった。

私の父に関する記憶は、このバイクと花火と、あの日の事故直後のものしか残っていない。あとは何故か、何一つ父の記憶が私には無い。事故で命を落とした父の最期は、とても苦しいものだったと、子供のころ叔母から聞いた言葉が、頭の片隅に残っているだけだった。

私は母に父のことを尋ねたことが一度もない。
父がどんな人だったのか。私は父のことをなにも知らない。興味が無かったわけではない。むしろ逆で父がどんな人だったのか、そしてどんな最期だったのか、ずっと知りたかった。
けれどそれを尋ねれば、母が事故を思い出し、辛い思いをするのではないかと思うと聞けなかった。それほど、父が亡くなった時の母の悲しみようは凄まじかった。
私は父にちゃんと愛されていたのだろうか。
私の人生で、そんな思いが時に私を寂しくさせた。

黒のワンピース姿の私は、バックに数珠をしまうと急いで車に乗り込んだ。実家は私が生れた年に父が建てた古い家。
マジックで私の成長が刻まれた縁側の柱。足を踏み外し、二度ほど落ちて大泣きした急な階段。壁にも浴槽にも青と水色と白の小さなタイルがびっしりと張られている浴室。どっしりと茶の間に鎮座する、祖母の茶箪笥。その引き戸の中から、よく祖母が菓子器を取り出してはかりんとうを私にくれた。
祖母が亡くなってだいぶ経つのに、引き戸を開けると今でも微かにかりんとうの匂いがする。
私はいつも実家に帰る度、なんだかまだ家のどこかに、父や祖母がいるような気がして、少女時代に戻った気持ちになるのだ。

「美桜、待ってたわよ」

「お母さん、今日は隆之さん急に来られなくなってごめんね。くれぐれもよろしく伝えてって」

「あらそう。でも急な出張じゃ仕方ないわよ。そんなことより和尚さんまだかしら」

私の夫のことなどまるで眼中に無いようで、母はそわそわと落ち着かない様子で玄関先に出て行った。
この日は父の弔い上げ。今日で父の法要は終わる。母にとっては大事なけじめの日なのだ。暫くして、玄関先で和尚さんと話す余所行きの母の声が聞こえてきた。

法要が終わり和尚さんを見送ると、ほっとしたように母が言った。

「久しぶりに二人でゆっくりお茶しようか」

「そうだね。ここのところ私ずっと忙しかったからね」

「一緒に食べようと思ってお菓子買っといたのよ。あなた和菓子好きでしょ」

母は、銀色の蘭が一輪描かれた漆塗りの皿に、上等な和菓子をいくつも乗せて私の前に置いた。

「お母さん、好きって言ったって、いくらなんでも私、こんなには食べられないわよ」

私は笑って、その中から梅の実を象った菓子を手に取り銘々皿に乗せた。
薄い黄緑色に赤ちゃんのほっぺのようなピンクの差し色が入ったその菓子は、口に入れてしまうにはもったいないような可愛らしさだ。

その日の母は珍しく昔の話をした。
妊娠中つわりが酷かったこと。私がお転婆でよく膝小僧を擦りむいて帰ってきたこと。嫁舅の小さないざこざ。懐かしそうに母は私に話して聞かせた。
ほんのりと甘ずっぱい菓子を頬張りながら耳を傾ける私の手が止まったのは、母があの日のことを話し始めた時だった。

「あの日はね…ほんと大変だったのよ」

あの日とは、父が事故に遭い亡くなった32年前のあの日のこと。

「お父さんと私は、同じ会社だったから、毎朝一緒に出勤していたの。だけど、あの日の朝に限ってあなたがぐずってどうしようもなかった。行かないでって泣いて駄々をこねて凄かった。いくらなだめても泣き止まなくて。普段はそんなことないのに」

私の知らない、あの日の幼い私。

「それでどうしたの?」

「それでね、そんなあなたを見て、お前は残れってお父さんが私に言ったの。もしかしたら美桜はどこか具合でも悪いのかもしれないって。そう言ってお父さん、あの日は一人で出かけて行ったのよ。でもあの時美桜がぐずらなくて、お父さんと一緒に出勤してたら、きっと私も無事では済まなかったわね」

母はさらりとそう言ったが、私にはなかなかショックな話だった。もし駄々をこねていなかったら、私は7歳にして、危うく両親を一遍に失っていたかも知れないのだから。

「それからどうなった?」

「美桜ったら、お父さんが出かけて間もなく泣き止んで学校に行くって。走ればまだ間に合うって。あの時美桜がぐずったのは虫の知らせかなにかだったのかもね。そのおかげでお母さんは命拾いしたんだから。あなたは私の命の恩人よ」

運命のあの日の始まりに、自分がそんな風に関わっていたとは。

「そんなことがあったんだ」

「あの日は梅雨開けのお天気の良い日でね、丁度今日みたいに。お父さん玄関で振り返って、笑顔で行ってきますって私に言ったの。そのすぐ後にあんなことになるなんて誰も思わないわよね。もちろんお父さんも」

ちょっと遠い目をした母は、まるで記憶の中のあの日の父を見ているようだった。

「お父さんが車にはねられた時、すぐ後ろを同じ会社の同僚の人が歩いていてね、その人が救急車を呼んでくれたの」

「そうなんだ…」

「お父さん、はねられた後もずっと意識がはっきりしていて、その人の呼びかけにも答えていたからまさか死ぬなんて思わなかったって、その人が」

はっきりとした意識の中、いったい父はどれほどの苦痛を味わったのだろう。いっそ意識を失っていたほうが楽だったに違いない。

「それで、どうなったの?」

「それからすぐに救急車で総合病院に運ばれて。家に電話が来て私すぐ飛んで行ったわ。おばあちゃんも叔父さん夫婦もすぐに来てくれてね。検査でお父さんのお腹の中に血が溜まっていることが分かって緊急手術することになったの。今でも忘れられない。お医者様がお父さんに言ったの。これからお腹の手術をするからしっかりって。そしたらお父さん、よろしくお願いしますってちゃんと自分で言ったのよ。あんなに重傷だったのに」

それは、32年経って初めて知る父の人生最後の一日だった。

「手術時間はだいたい三時間って言われていて。助かるから大丈夫ってお医者様が。私達は手術室の前の長椅子に座ってた。昼前になって叔母さんが、ちょうど美桜が学校から帰る時間だろうって家に迎えに行ってくれたの。美桜、覚えてる?」

そうだった。
その日はたしか土曜日で、私は昼頃には家の近くまで帰って来ていた。一年生になったばかりの私には、真新しいランドセルは重たくて、黄色い帽子のおでこに汗をにじませ、頬を赤くしながら歩いていた。もう少しで家が見えるというところで、向こうから近所の友達の加奈ちゃんが走って来るのが見えた。

「美桜ちゃん!大変!大変だよ!」

加奈ちゃんが手を振りながら大きな声でそう言った。

「どうしたの?なにかあったの?」

「美桜ちゃんのお父さんが事故に遭ったんだって。大けがして今病院にいるんだって!」

「うそだよ。加奈ちゃんなんでそんなうそ言うの?意地悪するの止めてよ」

驚いた私はそう言って眉をしかめた。

「ほんとだってば。うちのお母さんが言ってたもん。おばちゃんが家で美桜ちゃんのこと待ってるよ!早く行きなよ」

「うそだよ。そんなの全部うそだよ。そんなうそ言うなら、私加奈ちゃんのこと許さないから!もう絶交なんだからぁ!」

大きな声でそう言うと、私は急いで駆け出した。
真新しいランドセルが、走る私の背中で大きく左右に揺れる。そんなことあるわけない。なにかの間違いにちがいない。心の中で何度もそう繰り返した。だが、家に着くと加奈ちゃんが言ったように、叔母が私の帰りを待っていたのだった。

私はすぐに叔母の車で病院へと向かった。おばちゃん、なにがあったの?そう聞きたかったが、車の中の私は無言だった。運転席の叔母の神妙な面持ちから、只ならぬ気配を感じていたのだ。病院に着き、叔母に手を引かれ急ぎたどり着いたのは、父がいる手術室の前だった。
長椅子に座る母と祖母の泣きはらした顔を見た瞬間、父に良からぬことが起きたのだということを私は実感した。

「美桜が病院に着いて間もなく、始まって一時間も経たないうちに手術が終わっちゃってね」

「どうして?予定は三時間でしょ?」

「手術室から出てきたお医者様が、開腹してみたら予想以上に内臓の損傷が酷くて、手を付けられない状態だったのでやむを得ずそのままお腹を閉じましたって」

「そうか…」

「それからお父さん、集中治療室に運ばれたの。夜中になってあなた長椅子で眠ってしまって。それで叔母さんに一旦家に連れて帰ってもらったのよ。お父さんの様態が急変したのはそれから二時間後のことだった」

夜遅く、私は叔母に連れられ一旦家に帰った。
そして眠りについて暫く経った頃、私は叔母に激しくゆり起こされたのだ。

「美桜、起きて。病院に行くよ。急いで」

眠い目を開けると、そこにはただならぬ形相の叔母がいた。
叔母はパジャマ姿の私の手を引き車に乗り込んだ。車を飛ばし病院に向う誰もいない真夜中の道。道路脇に立ち並ぶ照明灯の、やけに青白く冷たい光が私たちを照らしていた。

病院の裏玄関。
ぽつんと付いた救急出入口の文字の四角い電気の下、叔父が私達を待っていた。

「美桜、お父さんのところに行くぞ」

叔父はそう言うと、私を抱き上げ、薄暗い病院の長い廊下を走った。
昼間は人でいっぱいのその廊下も今いるのは私達だけ。叔父と叔母の走る靴音だけが、ダンダンと大きく辺りに響く。走る振動で私が履いていたピンクのサンダルが片方脱げ、あっと小さく声を上げたが叔父はそんな声には耳を貸さない。叔父の走るスピードに、落ちたサンダルはあっという間に見えなくなった。

そして、私が連れて行かれたのは、昼間見た手術室でも集中治療室でもなくて、お線香の臭いが微かにする狭くて薄暗い部屋だった。私は叔父に抱かれたままその部屋に入った。見たこともないその部屋が、なんだかとても怖くて叔父のジャンパーの背中をぎゅっと握った。

その部屋は、真ん中にベッドが一つだけあり、父はそこに横たわっていた。もう父の体には、昼間見たたくさんの管も機械も付いていない。母は私が来たことにも気が付かない様子で、父の枕元に顔を埋めて泣いていた。父の名前を何度も呼びながら。

「まだこんなに温かいんですけどほんとに死んでいるんですか?」

祖母は、父の体をさすっては医者に同じ質問を繰り返す。まだ小さかった私は、その光景が一体何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。

どれくらいの時が経っただろう、泣きはらした目で祖母が言った。

「美桜、お父さんに触ってあげなさい。お父さんお前に会いたがっていたんだから」

叔父は私を抱いたまま父の枕元に連れて行った。
そして私の小さな手を取り、父の頬にそっと触れさせた。父の頬はまだかすかに温かかったものの、命ある人のそれとは明らかに違っていた。私は、すぐにその手をさっと引っ込めた。怖くて仕方がなかった。動かなくなった父が。突然目の前に突きつけられた得体の知れない死というものが。

「お母さん、私もその霊安室のことは覚えてる。お父さんの最期ってどんなだった?お父さん最期になんて言ってた?お父さん最期になにを考えたんだろう。なにか欲しいものは無かったのかな、お水とか、タバコとか、なにか…」

「お父さん、ずっと美桜の名前を呼んでたよ。うわ言でずっと」

「そうなんだ…。お父さんすごく苦しそうだった?最期くらい少しは楽になれたのかな」

「苦しんでた…最期まで」

そうか、最期まで苦しんだのか。
父は耐えがたい苦しみの中、最期にいったい何を思ったのだろう。なにを願ったのだろう。痛い。苦しい。死にたくない。誰か助けて!きっと父は必死にそう願ったにちがいない。

私は32年前の父の苦しみを思うと胸が張り裂けそうになった。そんな父になにもしてあげられなかった自分。悔しさと申し訳なさに、目を閉じ膝に置いた拳を強く握った。

その時だった。
私の頭の中に何かがすっと入ってきた。なんの遠慮も抵抗もなくそれは来た。自分の意識はしっかりとある。しかし、頭の半分が何者かに支配されているような不思議な感覚。なに、なに、これっていったいなに?私いったいどうしちゃったの?怖い。
次の瞬間、辺りの景色がグルグルと回転し始めた。その速度はどんどんと増し、気が遠くなりやがて私の目の前は真っ暗になった。上も下も、右も左も分からない中、私は深い深い穴の中に吸い込まれるように落ちていった。

暫くしてふと目を開けると、私は事故のあった交差点を上から見下ろしていた。
信号が青に変わり歩き出す人達。その中の一人が私の目に飛び込んできた。チャコールグレーのスーツ。手には黒いカバンとお弁当の入った小さなトートバック。それは紛れもなく、32年前のあの日の父だった。

そんな父が、横断歩道の真ん中に差し掛かかったその時、信号無視の白いワンボックスカーが交差点に突っ込んできて、キキーッというけたたましいブレーキ音と共に父をはね飛ばした。
ズドンッという鈍い大きな音。父の体は数メートル宙を舞い、地面に叩き付けられ、ワンボックスカーはそのまま信号機に激突し大破した。

車から上がる黒煙。交差点の真ん中に倒れた父。居合わせた人達の悲鳴。駆け寄る人々。誰かの大きな怒鳴り声。流れる血がアスファルトを赤黒く染める。救急車のサイレン。ヘルメットの救急士。病院の廊下を急ぐストレッチャー。駆け寄る医師や看護婦。服を切り裂くハサミの音。母の泣き叫ぶ声。割烹着姿の祖母。冷たく照らす手術室の無影灯。父に繋がれたたくさんの管。ステンレスの無機質な音。消毒液の匂い。流れる出る血。開いた手術室の扉。歪む集中治療室の天井。突然の吐血。乱れる呼吸。朦朧としていく意識。母達の悲鳴。どんどんと小さくなってやがて聞こえなくなる父の鼓動。

「守りたかった、俺は家族を守りたかった…美桜、美桜」

私の中でそんな誰かの声がした。
それは呟くような力の無い、小さな小さな声だった。私の脳にかすかに届いた声。遠い昔確かに聞き覚えのある、父の声だった。
それは紛れもなく、父がこの世を去るその瞬間に放った最後の想いだった。父は耐えがたい苦痛の中、命尽きる瞬間まで私達家族のことを想っていていてくれたのだ。32年経った今日、父が私に伝えたもの。それは父の最期の姿と、父の強い想い。それは私がこれまでに一番知りたかったもの。私は父にちゃんと愛されていた。

それは『憑依』と呼ぶにはあまりにも、愛に溢れた父と私の優しい時間だった。

私の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「どうしたの?美桜、大丈夫?」

母の声に私は我に返り目を開けた。

「うん、うん。なんでもないよ。大丈夫。ちょっとお父さんのこと思い出しただけ」

「そうだよね。美桜はほんとにお父さんっ子だったから。お父さん、どれだけあなたのことかわいがっていたことか」

「そうだよね」

今の私なら、その言葉が本当であることがわかる。

「でも今日こうやって、お父さんのことあなたに話せて良かった。今まではお父さんのこと話したら、あなたが事故を思い出してまた辛い思いをするんじゃないかと思ってどうしても話せなかった。覚えてる?お父さんが亡くなった後、学校にしばらく行けなかったこと。みんなずいぶん心配したのよ」

「そうなの?あんまりその時のこと覚えてなくて」

「事故のこと、ショックだったのよね。そりゃそうよね、あなたまだ、小学一年生だったんだもの」

そうか、今まで母が父の話をしなかったのは、母なりの私への気遣いだったのか。

「お母さん、また近いうちに来るからね」

そう言って玄関を出るとそこには、真っ青な空が広がっていた。あの日父が見たのと同じ空が。

あの世にいてもこの世にいても、何年経ってもそんなことは関係なくて、私達家族は今もずっと繋がっている。私は父に、ちゃんと愛されていた。今日、父から受け取った32年目のギフトが、そう私に教えてくれた。 
                    
車に向かいふと振り返ると、見送る母の隣に、ニッコリと微笑みながら小さく手を振る赤いランドセルのあの日の私がいるような気がした。良かったねと言わんばかりの笑顔で。

                                   了

            

mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!