蒼色の月 #97 「嫌悪感(回想)」
それはまだ、私たちが普通の夫婦だった頃のこと。
とある取引会社の創業記念のお祝いの席に、二人して招待していただいたことがあった。
私たちはいつも裏方で、そういった席には義父が一人で行くのが常だった。しかし、今回は是非次期所長ご夫婦でとのお招きだった。
人付き合いが苦手な夫は、行きの車中でも「俺は行きたくない、行きたくない」を繰返す。
「健太郎さん、もういい加減覚悟決めてよ」
「麗子一人で行ってくれ。お前は人付き合いが上手だから、一人でもうまくやれるじゃないか。頼むよ」
このころの私は、こんな夫の甘えた言葉も、頼られてる感じがしてそんなに悪い気持ちはしなかった。そんな風に思っていた私の気持ちにも、問題があったと今になって思う。
しかしその頃はまだ、夫を愛していたから、そんな風に甘えてくる夫の言葉を許してしまっていたのだ。
私一人で出席するなんて、そんなことはできるわけもなく、車は間もなく会場に到着した。そこは地元の大きなパーティ会場で、地域の権力者の大半がそこにいた。
元々、義父がその会社の社長さんと同級生で、未だに仲良くしている経緯もあって、夫が義父の代理としてスピーチをすることになっていた。
初めての晴れ舞台での大役。それが、夫がこの会に出席したくない一番の原因。
とはいえ、招待客のほとんどは酔っ払っていて、ちゃんと聞く人なんていないだろう。
夫に頼まれて私はそのスピーチの原稿を書いた。
45歳で所長になるまで、義父は大小構わず会合や人前に、夫を一切出さなかった。理由は簡単で、健太郎は人付き合いが上手く出来ないから。
そんな義父にも、もちろん問題がある。
だから、俺はそんな会でどんなことを話せばいいのか全くわからないというのが夫の言い分。端から見ればそんな理由は、まったく通用しないのにそれでも私は一言一句原稿を夫のために書いてやった。
夫を甘やかした責任は、義父にもあるが、私にもある。
「いい大人が、みっともないこと言わないで。所長らしく自分でちゃんとやって」
ともっとちゃんと、突き放すべきだった。
ともかく夫をダメ人間にした責任は、私にもあると思う。
夫は前に進み出ると、スタンドマイクの前に立ちスーツの胸ポケットから私に持たされた原稿を取り出した。小さな声でそれを読み始めた夫。しかしなにやら、コツコツといやなノイズが入る。初めは何だろうと思った。それは、スタンドマイクに当っている夫の足が震えている音。
会場は失笑に包まれた。
予定されたいくつかのスピーチが終ると、コンパニオンが会場入りした。若くて綺麗で、はやりのファッションで、その美しさは女の私の目をも楽しませる。
時間が経つと、その中の一人が夫の目の前の男性にしなだれかかり、おもむろに甘えた声を出し始めた。
そして、しばらくすると甘える相手は、その隣の男性に変わった。そのコンパニオンは、甘える相手を転々と変えていった。
私の隣で夫が、そのコンパニオンを見て言った。
「麗子、俺はな、ああいう誰彼構わず男にこびを売る水商売の女が大嫌いなんだ」
「しっ!声が大きい。彼女たちも仕事なんだからしかたないでしょ」
「気もないくせに、あんな甘えた声出して気持ち悪い。虫唾が走るよ。あわよくば男を食い物にしようと思ってるんだああいう女は」
きっと、母を苦しめた父の浮気相手を思い出し、こんなことをいうのだなと私はその言葉を黙って聞いていた。大事な母を思っての言葉。
「見ろよ!男とみればすり寄って甘えて、ほんと気持ち悪い。愛人?不倫?最低!気持ち悪い!」
そこまで言わなくても。
夫のものすごい嫌悪感。
子供の頃のトラウマとは恐ろしい。
事実、夫は所長になりまで女性が付く飲み屋には一度も行っていない。
「そうだね。見ててあんまり気持ちよくはないね」
私はそう相槌を打っておいた。
「そうだよ。早く帰ろうぜ。ここにはいたくない」
「まだ料理残ってるのに?もったいないよ…」
我が夫にも…そんな時があった。
だからこそ、私は最初、夫の不倫を信じることができなかった。
それが、こんな状況になろうとはお互い想像もしなかった。
「不倫なんて最低」
と言っていた夫が、今は自分が愛人を囲っている。
しかも、不倫をし、飲み屋で男にしなだれかかる女を。
蛙の子は蛙ってことか。
人は変わる。
本当に人は変わる。
なにによって変わるのか。
出会う人、環境、付き合う人によって人は変わる。
それとも、夫がこんな風に豹変したのには私に大きな原因があったのか。自分では気づけない、そんななにか。それもあったのかもしれない。
本当の原因は、誰にもわからないが。
ただ一つだけはっきりと言えることは、人は変わるということだ。
mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!